196.黒秤将の親代わり
何度あの光景を夢に見ただろうか。
「王さま。俺は、殺せ。」
そう言い切った自分の主の光景を、あの言葉を、何度も何度も夢に見る。なぜ、自分は後を追わなかったのか。
何度あの光景を夢に見ただろうか。
サムソン=オルクス=アーネルド子爵の牢屋に閉じ込められ、最低限の食事を得る日々の中、急に出された外で。碌な理由もなく会わせられた主の光景を。
「生きていられれば、それでいい。」
そう呟いた自分の言葉に、それまでの彼の人生で最も獰猛で、最も格好いい笑みを浮かべた男の顔を。
「気に入った。いいぜ、連れて行く。」
9歳のガキを連れ歩くなんて、進んでしたいことではなかっただろうに。笑みを浮かべて自分を引っ張ってくれたあの手のぬくもりを、いつだって何度だって思いだせる。
ああ。今でなくとも、わかる。何故死ななかったのか、なぜ後を追わなかったのか。なぜ、主が死した後もこうして生き続けているのか、ズヤンは痛いほど知っている。
「そうだ。そうだぜ、ズヤン。人はな、生きるために必死になってりゃそれでいいんだ。贅沢するとか、誇りを見せるとか、変な意地とか。そんなくだらないものはいらねぇ、生きていればいいのさ。」
あの日もらったあの言葉。牢屋の中で貪るように飯を食い、外に出てからも乞食のように食べ漁り、死なないように逃げ回り、力をつけて、戦えるだけの魔術師になった。
“黒秤将”だなんだと持て囃されている。だが、ズヤンの根底にある思いはただ一つ、「生きること」である。
そしてそれを支えるように立つ、もう一つの柱。それが他でもないギャオランの存在であった。
「生きること」を肯定してくれた。むしろいいことだと受け入れられた。あの日八歳だったズヤンにとっては、私属貴族の階級であったズヤンにとっては泣きたくなるほど嬉しい言葉だった。
私属貴族は、生き汚い。落ちぶれることを自ずから選ぶことは決してない。
死と落ちぶれることはほとんど同義で、政治闘争に負けたグラウディアス男爵家はそれゆえに皆死んだ。
ただ一人。ズヤンだけが、死にたくなくて生き延びた。民草に落ちてまで生きるは恥という貴族の基本を叩きこまれた上で。
ああ。言いたくはないが。ズヤン=グラウディアスという貴族は、きっとこの瞬間には死んでいたのだろう。そして、貴族の跡取りとして生きていたズヤンにとっては、己の死と同義で。
自分は死んだのに、生きている。そんな矛盾を、「気に入った」の一言で晴らしてくれたギャオランのことを、ズヤンは心から尊敬していた。
今でも、夢に見る。
ギャオランと共に、傭兵団で戦った日々を、今でも夢に見続けている。
ギャオランは傭兵団という形を嫌っていた。そりゃそうだろう、団という形をとる以上必ず上下関係が存在する。そりゃ当然、人の真なる平等を心から願う……人類が皆野生に還る事を目的としているのだ。それなのに人の上に立つ。不本意でないはずがない。
それでも、彼は慕ってくる者を拒まなかった。出て行く者もまた、同様に。
人は群れないと弱い。その生き物の本能もまた、彼は否定しなかったから。
「人っつうのはよ、ズヤン。暮らしが便利になればなるほど、生物として間違っていく生き物だ。」
搾取関係などその最たる例だとギャオランは言い切った。人が人を支配するのは、そうしないと社会が上手く回らないから。つまり、社会が悪い。
なければいいのだ、とギャオランは笑う。
「お前は今、黄飢傭兵団の今後の戦略について聞いてきたけどよ。なんで、誰かが決めるんだ?」
自分が決める気はないとギャオランは言う。誰をぶっ飛ばすか、どうぶっ飛ばすか。自分で決めて自分だけで突っ込むさ、と彼は変わらずにいう。
「誰かが決めるから、上下関係が出来るんだ。誰も決めず、誰もが自分で決める。それが、「生きる」ってことだろう?」
その言葉が正しいと、ズヤンは思えない。そう。ずっと、思っていない。
「思っては、いないのだ。」
人が野生に還ったところで、別の上下関係がいつか生まれ、再び何かしらの搾取関係が成立するだけだとズヤンは思う。
ギャオランの理想は、大前提として「人が強いこと」がなければ成り立たない。武術の腕とか、魔術の腕とか、そういう強さではなく。
搾取関係が成立しない、人の間に上下関係が生まれえないためには、人の心が強くなければならない。だが、最初から強い人は存在せず、また皆が強い心を持ち合わせるものでもなく。
心が弱い人を排除して作りあげる『生物として正しい姿』は、それ自体が弱いものに対する差別であり、上下関係の成立であり。心が弱い人を受け入れるなら、強い人が弱い人を守り導かねばならず……それは、上下関係と「呼び方」は違えど「本質」は変わりがない。
「それでも、私はギャオラン様について行った。あの方を放りだしたくはなかったし、敬意はずっと失わなかった。」
貴族を殺した。役人を殺した。人を殺した。
貴族の館から金品を過剰に奪うことを、ギャオランは決して許さなかった。要らねぇだろ、と、食糧だけを奪い続けていた。
だが、それでも彼が略奪を許したものが多くある。
例えば、黄飢傭兵団の料理人が欲しがった調理器具。傭兵団のメンバーが欲しがった武器。質素な服。家畜。
そして、彼が貴族の屋敷を襲う時に必ず盗んで帰ってきたのは、魔術書だった。
ギャオランに魔術は扱えない。
ギャオランに文字は読めない。
同じ魔術が書いてある紙を、本を、木札を奪ってきたことなど、10や20では効かない。
それでもギャオランは必ず魔術書を奪い、ズヤンに持ってきた。ああ、この方は私を育ててくれている。嫌でも、8歳9歳の頃の自分は気づいたものだ。
ギャオランは、一度気に入った者は、ずっと大事にするのだと。
だから。他にも本を望んだ。
魔術を学んだ。政治を学んだ。軍学を学んだ。
ズヤン=グラウディアスが18歳にして“黒秤将”の名を得た時、彼は傭兵界でも類まれに見る、大規模な指揮が執れる傭兵になっていた。
ああ。なぜか、と問われれば。ズヤンはずっとこう答えている。
「ギャオラン様に、恩を返すためだ。」
恩を返す。裏を返せば、生かし続ける。
何としてもギャオランを生かすために、ギャオランが死なないようにするために、ズヤンは勉学に励んだのだ。そして、『黄飢傭兵団』の傭兵たちも、ズヤンのその気持ちを理解していたがために、ズヤンの指示には従った。
“黒秤将”だなんだと持て囃されて、『ペガシャール四大傭兵部隊長』だなんだと褒めそやされて生きてきたが、ズヤンの本質などそれだけである。
彼は、ギャオランのことが、その主張こそ呑み込めぬものの心の底から好きだった。本当に、それだけである。
だからこそ。後悔している。
後悔しているからこそ、夢に見る。
なぜ、ギャオランが殺されるとき、あとを追わなかったのか。あるいは、何としてでも阻まなかったのか。
『黄飢傭兵団』のアジトに、敗北したズヤンたちは向かった。
王都ディアエドラへ向かうには、一ヵ月ほどかかる距離の地点。
いつか、あそこへ向かう。ギャオランがそう決めて、拠点にしていた場所だった。
「『黄飢傭兵団』団長、ギャオランは死んだ。」
傭兵団全員で出張っていたわけでもない。黄飢傭兵団は、その過程で村になった。女子供、生きている者たちを集め、囲い、集落を作りあげた。
彼らを守るために、五千近い傭兵は、必ずアジトに駐留している。そして、集落の方でも、元傭兵団であったり、ギャオランに助けられたりした者が多くいる。
彼らに向かって、ギャオランの死を告げること。それがズヤンの最初の仕事であった。
「嘘だ!」
悲鳴のような叫びが上がる。当然だろう、そこにいるのはギャオランの武に惚れて、ギャオランの生き方に憧れて集まった人物、彼の庇護下で生きている凡百。
ギャオランが死なないことを信じ切っている者たちだ。
「嘘だと叫びたい気持ちは嫌というほどわかる。私も、そう叫びたい。」
ズヤンは最古参の『黄飢傭兵団』メンバーである。
それを知らぬものは、この場にはいない。ズヤンの想いを知らずとも、ギャオランの死を最も信じられないのは、彼の強さを間近で知るズヤンであることなど、皆が承知の上である。
「その上で、断じる。ギャオラン様は、死んだ。……死んでしまわれた。」
死ぬべきだった、とも思う。『神定遊戯』が始まった世界で、国の存在を神が肯定する世界で、国を否定するギャオランが立ちゆくはずがない。
死ぬべきだった。いいや、何もせずとも、彼は勝手に死んでいた。
「では!俺たちは、……ズヤン様に従えばいいのか?」
傭兵の一人が問う。その問いかけがどれほどズヤンにとってふざけたものか、本人は知る由もない。
ギャオランの生き方を鑑みれば。その発言は決して出てくることがない。
だが、ここにいるメンバーは、ギャオランの想いなど知らない。ギャオランの志など知りようがない。
皆、ギャオランの武に惹かれてきた者たちだ。皆、行き場を失くして集まった者たちだ。皆、貴族殺しを望んで集まった者たちだ。
皆。その看板を慕い、中身を見ているものは少ない、ただ数が多く、ギャオランという武を崇め、ズヤンという指揮官に動かされてきた烏合の衆だ。
ズヤンは怒りもしなかった。彼らの反応を当たり前のように受け入れた上で、言った。
「私は、レッド派にもアダット派にもつかず国外にも出るなとアシャト王に命じられている。それが条件で、解放された。」
自分は、もう進路を決めようがない。何度かこの集落の行く末に関わってきた分、その言葉は重く彼らの心に染みこんでいく。
ギャオラン様ならどう言っただろう。惑う彼らを見て、自分が敬愛する主なら、何と言っただろうか。
「お前らが勝手に決めろ。それが『生きる』っていうことだろう。」
ほとんど無意識に流れた言葉。集落の者たちを見ると、みなが驚いたようにズヤンを見上げている。どうやら口に出していたらしい、と気づくまでやや時間がかかった。
傭兵たちがズヤンを見ている。女子供がズヤンを見ている。農地を耕すものたちがズヤンを見ている。
『黄飢傭兵団』にいようと決めた、全ての人間がズヤンを見ていた。
言葉を失う。ギャオラン様は決して人に指示をしなかった。集落の方向性を決めることもなかった。口を挟むことすらしなかった。
傭兵団としての活動すら、ギャオラン様が一人で決めて一人で突っ込んでいた。
だから、ギャオラン様がいなくなったところで、集落は、傭兵団は、自分で勝手に方向を決めるものだと思いたかった。
無理だ。無理なのだ。ギャオラン様の言う、『野生に生きること』は、『人が人を支配しない世界』は、無理なのだ。
人はどうしても自分の行動に責任を取れない。最終的には誰かが決めねばならない。自分一人で決めて自分一人で生きることが出来た、ギャオラン様のような例が奇妙なのだ。
「ギャオラン様の信念に泥を塗るな。ギャオラン様についてきたなら、ギャオラン様の生き様を真似て見せろ。」
それでも、とズヤンは思う。自分は彼らの行動を決めない。少なくとも、ギャオラン様を慕って集った彼らの行く末をズヤンが決めるのは、冒涜だとしか思えない。
「私は、一人で行く。」
言い残す。ギャオラン様の意思を、己は継げない。権力者が権力者たるを否定する在り方を、ズヤンは思い定めることが出来ないと知った。
最後に、ギャオラン様がアシャトとやらに言った言葉を思い出す。
「賄賂を許さないと誓えるか?不正を、横領を、権力を笠に着た暴力を、それらに対する隠蔽を、悉くを許さないと、お前は誓えるのか?」
ああ、今にして思えば。『野生に還る』ことを目指していたギャオラン様ですら、最終的に妥協点はそこだった。国家という体制そのものを消し去ることは出来ないのだと、諦めていたのだろうと思う。
だって、死ぬ前、ギャオラン様は言ったのだ。あの『王像の王』と、国についての問答をしたのだ。
「政治をするということは、不正をするということだ。不正の程度を調整することは出来るだろう。やりすぎた時に罰を与えるのがてめぇの仕事だ。だが、止めることだけは出来ない。」
「不正、賄賂、文書捏造……それらを間違いだと断じる愚かな人間に、政治に意見を言う資格はない。そして俺は、断じる人間だ。」
ああ。ギャオラン様と問答をしたアシャトという男は、彼の主張に一定の理解を示していたのだろうと思う。だから、主を、殺したのだと。
主を殺した、主の意思を知る人間。……彼が何を思ってギャオラン様を殺したかわからないが。
「ギャオラン様の意思を、継いでくれるのか。見定めたい。」
野生に還る、とまで望まない。それでも、不正を、賄賂を減らす努力をするのか。主の最後の望みを、聞き届けようという意志があるのか。
「見定めよう。主を殺すに足る男だったのか。」
わざわざ、自らの手を汚してまで主の首を刎ねたのだ。何かしら、思うところがあったのだろうとズヤンは思いたい。
なんとなく。なんとなくだが。
自分が生きる次の目的を、思い定めたような気がした。
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