184.南の外れの若人たち
レッド派に所属する貴族、その嫡子数名が、それぞれ数千の軍を率いて逃亡した。
レッドはその報せに対し、ただ一言、「やはりな」とだけぼやいた。
「やはり、なのですか、兄上。」
「ああ、やはり、さマイダス。『王像』を得られるほど優秀な男が、何よりあのエルフィールが、ペガシャールでいずれ直面する問題に気づいていないはずがない。」
「問題、ですか?」
マイダスが首を傾げる。わからないのも無理はない。マイダスは未だ
「人が足りない事さ。」
「そうなのですか?『神定遊戯』は王が実に57もの『像』を任命すると聞きます。十分な数なのでは?」
「いいや、たった57しかない、と考えるべきなんだよ、マイダス。」
執務室の椅子に座り、弟をその膝にのせてレッドはぼやく。弟の金糸の頭を撫でながら、彼は領地経営の困難を思った。
「57の、名を馳せる『像』。しかし過去、『神定遊戯』では『像』よりも名を馳せる名将の数々が刻まれていることが多々ある。」
そして、何より、五公以下から始まる97もの公属貴族に、その配下の総数1000近くにもなる私属貴族。役人階級の平民たちまでを含めれば、ペガシャールという広大な国一つを回すために万以上もの人間の手が必要であることなど容易にわかる。
まして、皇帝を目指すとなると。『像』たった57人の名将だけでは到底足りない。それだけなら、他国との戦争で綱渡りを続け、かつその全てを成功させ続けなければ、皇帝には至れない。
「100を超えるほどの名将がいれば、皇帝の夢を叶えるに足りるだろう。だが、今の『王像』たちでは、足りるまい。」
「そう、なのですか。」
グリグリと頭を掌に押し付けながらマイダスが言った。可愛らしい弟だ、少しばかり情が深いが……。しかし、エドラ=ラビット公爵家を建て直すには、実務より情に訴えかける可愛い子の方がいいかもしれない。
「だから、奴らが若手を積極的に引き抜くのは当然だ。今後長く国を富ませるには、長く国を支えられる人物が不可欠だからな。」
国の成長とともに成長していく人材。能力が身の丈に合い続ける、というのは、国家の運営に欠かせない、ある種重要な要素だろう。
「だが、早まったな。たかだか一万と少しの軍勢、俺が出れば蹴散らせる。」
マイダスを撫でる手が離れ、代わりに椅子の手すりが握られる。潰さんとばかりに握られるそれが、レッドの激情を示している。
「おい、マティアス!五万の軍に動員令を出せ。早急に離反者を叩き潰す。」
膝の上からそっとマイダスを下ろし、彼は立ち上がりざまに叫んだ。承知しました、と言ってマティアスが執務室から出ると同時に、レッドもマイダスの手を引いて扉を抜ける。
侍従の一人にマイダスを預けて己の部屋へと入ったレッドは、部屋の奥に飾っている剣を手にとった。
思いだすのはアシャトという男と戦ったあの戦。こちらの方が優勢だったはずの戦を、『像』の力と機転を持って逆転させてみせた。
あの時戦った男たちに一対一で勝てる気は未だにしない。オベールの剛力と戦う気はもうない。ディールとは刃を交えていないが、アレは論外な強さだった。
「正面からは戦わぬ。」
剣を佩いた。いつでも外に出られるように、華美な戦装束を着たままでいたのが幸いした。……とはいえレッドは総大将だ。身を守る事より、存在感を示す方が重要な出で立ちをしている。
弟が膝に乗っても、その弟が痛みを感じぬ程度には、戦装束は鎧兜の類ではない。
「失礼します。」
マティアスが部屋に入る。命令はきちんと伝わったのだろう。己の戦準備のために、こうして部屋までやってきたのだ。
仕事が早い。流石、ラビット公爵家の誇る侍従の一人である。
「一つ、よろしいでしょうか、レッド様。」
「いいだろう、何だ。」
機嫌はすこぶるよかった。屋敷で必要とはいえ政務周りの仕事を延々としているのは、肩が凝る。ようやくの出陣に、彼自身浮足立っていることは否めなかった。
「アシャト派に人材が足りない、とレッド様は申されました。なぜ、降伏してその必要な人材になられないのですか?」
その質問は、レッドの機嫌に水を差すような言葉だった。同時に、マティアスがはっきりと物事を見据えている、よいサインでもあった。
今降伏すれば、確かにエドラ=ラビット公爵家は家を存続させられる。優秀な人材を失うことはなく、地位と名誉をある程度保ったまま、ペガシャールの要職に就けるだろう。
「だが、その未来に、俺はいないんだ、マティアス。」
「は?」
「俺がいない。俺はアシャトに弓を引いた。そうでなくとも、アシャトが死ねば俺が次の『王像』だ。アシャトからすれば、俺を生かす理由がない。」
ここで降伏すれば、非常に大きく荘厳な神輿が残る。才だけで言えばアシャトを遥かに凌ぎ、カリスマもそこそこ高く、地位も正当性も持つ『王像』を手にする資格を持っているという、『王像の王』に勝ることもないが劣ることもない盛大な神輿が。
アシャトにも体面というものはあろう。降伏早々殺されることはない。が、レッドが生きる限り、必ず暗殺者は送られる。アシャトがしなくとも、アシャトを支持する貴族が勝手にやる。
そうでなくとも『像』がいる。中でも『跳躍兵』が使われる仕事には、『暗殺者』がある。アシャト派に行けば、レッドの命は、どうにしろ長くはない。
「俺は死にたくはない。それに何より……俺は、『ペガシャール帝国』に反対だ。」
「ああ、それを聞いて安心いたしました。」
己の命を優先して全員を死地に送るつもりだと思われたのか。だが、帝国に反対する意見とは別に、賛同する己の気持ちも、レッドにはある。
「俺がエドラ=ラビットでなければ、嫡出の、『王像』の資格を持つ者でなければ、アシャトに従うのも吝かではなかったかもしれん。」
マティアスに聞こえるように、そしてその裏で糸を引いているであろう父に聞こえるように、レッドは口に出して。
「だが、エドラ=ラビットの、いや、貴族制の将来を守りたいのであれば、帝国には賛同できんよ。」
それは、いつか来るであろう、他国の占領が巻き起こすであろう体制の変更。貴族制とは極端な話、王家を主上とし常に神に仕えるような厳格さを維持するモノであると同時に、その立ち位置を一定に固定するためのモノでもある。
皇帝の道は、その立ち位置を容易に揺るがす。滅ぼした国の貴族を容易に自国の統治に用いるのか、それとも自国の貴族を優遇するという名目を用いて労務を増やすのか。
あるいは、自国の中で優れた人物を新たな貴族として重用するのか。
そのいずれにしても、エドラ=ラビット公爵家という家が維持されている場合、とんでもない不利益をこうむる事が確定されている。ならば、レッドに出来ることは最初からただ一つ。
「俺はアシャトに徹底的に抗うさ。」
馬に乗る。糧食を送る部隊の編制、その体制を確認するために倉庫まで行くつもりだった。
「俺が負け、父が死ぬことがあれば……それでも、エドラ=ラビットは規模こそ縮小すれど、マイダスを当主にやり直すことが出来るだろう。」
家が滅びることはないという確信。それゆえに、彼は全身全霊をもって、かの『王像』を相手に全力で相対出来るのだ。
レッド側からの降伏勧告。最前線に出て戦うか、今この瞬間にレッドと戦い散るのか。
レッドから寝返り、アシャト派に付いた三人の若人たちに課された命題は、重かった。
「レッド派は確実に敗ける。それは、レッド様自身も確信していらっしゃるのではないのか?」
まず言葉を投げたのは、グラスウェルだった。システィニア=ザンザス男爵家の次期当主……であったが、息子の離反を受けて父は彼に勘当を申し付けている。
幸いだったのは、グラスウェルが家を追い出されてなお、彼について行く兵士や将たちが一定数いたことだ。
彼にある、『王像の王』に、即ち神が認めた王に味方するという大義は、周囲全てを敵に回してでもついて行きたいと思わせるだけの力があった。
当然だろうとグラスウェルは思う。『王像の王』という役柄は、疑いの余地のない、絶対的な正義である。
「『帝国』を認める気はないのだろう。」
「だからといって徹底的に反抗するのか?」
グリードという、エミル=バリオスに連なる男がいう言葉に、あっさりとグラスウェルは問い返す。グラスウェルの背丈は二メートルには満たないが、大きな体をしている。横幅も大きい。
顔の線は太く、武骨で、彼を一目見て武人と気づかぬものはいない。
如何にもな武人が問うのは、あまりにも平和然とした問いだった。その言葉に、同じ武人然とした、毛深い男……グリードが口を閉ざす。グラスウェルのその気持ちが、残る二人にもわからないではない。
勝てない戦はしない主義だ。だからこそ三人とも、アシャト派に寝返ることに決めたのだから。
「人を減らす。それによってしか出来ない事があるよ。」
辛うじて言葉を発したのは、他二人と違って武人とは思えぬ男だった。よく見れば鍛え上げられた肉体を持っていることは認められる。が、身体の線自体は非常に細い男だった。彼の名はペアトロ。アミアクレス=ペダソス騎士爵の名に連なるものである。
「具体的には?」
「人が減れば、その分補充に時間がかかる。農地とかは耕せば、質は別としても使えるようにはなるけど、人は違う。人一人を補充するためには、最低二人の人手と、10年以上もの時間がかかるんだ。」
それをすれば、人が減れば減るほどに、ペガシャールは、アシャト派は『帝国』の夢から遠ざかる。ひどい話だ。救いようのない話だとペアトロは思いつつ……
「どこまでも合理的だ。レッド様は、死ぬまで戦をやめないだろう。」
人の命に価値がある。人が飽和している時代ならさておき、今は一人一人の命が惜しい時代だ。一つの命が、値千金の価値を持つ。
三人が黙った。己の命の価値を確認する。アシャトにとっては、グラスウェルたちの価値はとても重たい。当たり前だろう、軽い命なら、ニーナという『跳躍兵』、そしてペテロという要職に就いていそうな男まで起用して、三人を口説き落としには出ていない。
「アシャト様の軍に救援の使者を送る。異論は?」
グリードの問いに、2人が無言で首を振った。異論はない、という意味だ。
敵として立ちはだかるレッドを相手に生き延びるためには、『像』という神なる力に頼るしか、道はなかった。
「さて。とはいえ、応援が来るまで向こうが動かない、なんてことはなし。」
仕切るようにグラスウェルが言った。地位だけで言うならグリードが仕切るべきだが、彼は寡黙な性格ゆえにこういう仕切りは向いていない。決定権だけ彼に投げる、という方針で行こうとグラスウェルは決める。
「敵の方に利があるな。実に五倍もの兵力差、という利が。ここは平原、障害物は後方を塞ぐように山が
退路はない。戦で真っ先に確保していくべき逃げ道を、彼らは真っ先に失っている。
「平原ですよ。ここは私たちの強みを叩きつけるべき時です。」
ペアトロの断言。待っていましたとばかりに、グラスウェルが笑みを浮かべる。
「そうだ。俺たち三家が特に優れたる強みを、最速で、最大の密度で叩きつけるべきだ。」
机に叩きつけられた拳が、椀に入った水を溢れさせる。五倍の兵力差に対しても、グラスウェルは自信に満ちた笑みを崩さない。
歴代の『神定遊戯』において、最も『ペガサスの戦車将像』……略して『車像』を輩出した一族が、三つある。
バリオス子爵家、ザンザス男爵家、そしてペダソス騎士爵家……年の頃や単純な実力、あるいは政略の都合で三家全てが同時に『像』を獲得したことは未だない。だが、その戦車を用いた戦のノウハウは三家とも非常に高度な次元で有している。
何より。
「俺たちは、負けない。負ける気はないぞ、レッド様!」
ここにいる三人は、皆、血気盛んな若者だった。
「やろう。」
グリードが決断する。ただでアシャトに降るより、レッドの首か、あるいはそれに準ずる手土産をもって。
約束された栄光に、彼らは踏み込む気でいた。
「とでも考えているだろうさ、あいつらは。」
対面する敵軍から感じ取れる熱気。いや、そんなものはないが……レッドには手にとるように、その感覚が伝わってくるようだった。
レッドと年のころが近い若人三将のことを、レッドはよく知っている。一人は血気盛んで勇猛果敢、悪く言えば猪突猛進。とにかく突撃し、斬りぬければいいと思っている単純な男。だが、単純に、強い。
一人は寡黙で言葉がない。そのあまりに武人然とした体躯らしくとても強いが、レッドでも勝てないだけで負けるわけではない。血の気が多いわけではないが、自信には満ちた人間性をしているため、本質的に攻撃を好むタイプだ。誰かが反論すればともかく、基本的にグラスウェルの突撃論に是を唱えるだろう。
最後の一人は知性に溢れる人間だ。武の腕前はそこそこでしかない。レッドが立ち会えば、10回中8回は勝てるだろう。だが、頭は回る。
だが、レッドはあまり脅威には感じていなかった。そうだろう、ペアトロの知性は補助に振り切っている。誰かの思い描いた絵の中で、最適な補助をすることには非常に長けているが、自分で絵を描く能力はない。彼が策を練ると言われても、ああなら勝てるな、という程度の知性である。
「問題は、対処療法がおそらくすべて的確になるだろうということだ。」
平原で、戦車と相対する。夜にこっそり落とし穴を開けておくと言っても限度はあるだろう。あちらが攻めて来るのを承知で、策に嵌めたとして、勝てるが敵の被害を大きく出来ない。あのペアトロがいるということは、そういう意味だ。
「だがまあ、勝てるのならば問題あるまい。」
「使者の方はどうするのですか?」
「行かせろ、マティアス。敵将が一人か二人減れば、ヒリャンも相当やりやすかろう。」
「レッド様が苦労されることになりますが。」
そう言われても、と後方を一瞥する。レッドについてくる兵士の数は5万人。うち、将校の数は数十に上る。レッドの指示を直接受ける立場の将こそ数名だが、その数名は、きっと『像』たちにも劣るまい。
「エドラ=ラビットの誇る私属貴族たちが、経験不足の若手どもにあっさり負けるはずがない。違うか?」
問いかけに、マティアスは深く深く頷いた。家への誇りは、嫡子であるレッド以上に、この執事の方が有している。
「戦うのは明日。おそらく曇天。降ることはあるまい。全力で行くぞ。」
「「「「応!」」」」
敵に聞こえないように小さく合わせられた声は、レッドのカリスマをこれ以上なく示していた。
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