177.グリュール山脈での動き

 帝国派、来たる。

 その報せは、未だにグリュール山脈の内でにらみ合いを維持していたアダット派、クシュル派両軍の耳にも届いた。

 まさか一年以上もにらみ合いを維持すると思っていなかったレッド派ではあるが、その理由はあまり積極的に攻勢に出なかったアダット派にある。


 というより。クシュルだけでなく、ヒリャンの内にも、あまり戦いをする理由がなかった。

 理由など、問うまでもない。この報せ……帝国派の侵攻が、そう遠くない話だと悟っていたからである。


 帝国を名乗った。残り二国の侵略をしなければならないことが確定した。

 それは即ち、どれだけ遅くとも五年以内には国内を統一しておかなければならず、十年以内には管理下に置いておかなければならないという意味だ。

 最低限の目標を叶えようと思った時、帝国派の行動は、比較的読みやすい。兵を出して互いに削り合う、というアシャトの目論見を積極的に叶えてやる義理など、両指揮官にはないのである。


 まあ、アダットはだいぶお怒りの手紙をよこしたが……それを無視するに足るだけのものが、クシュルには届いていた。小競り合いはたくさんあったものの、アダット派、レッド派双方、兵はせいぜい二万人程度しか死んでいない。数の上では多く見えるが……『神定遊戯』中の死傷者の数にしては、総計四万という数は異様なほどに少ない。


 そんな彼らであるが……帝国派が動いたというのに、山脈を挟んだ状態から動かなかった。

 撤退し、本来の敵に相対するべきだというのは双方ともにわかっていた。だが、そのために無防備を晒せば追撃を受けることもわかっていた。

 撤退できない。それが、双方ともに持つ認識だった。


 厄介だったのは、エルフィの動向である。

 彼女は意図的に侵攻を止めた。ペガシャール帝国の領土内かつ、アダット派の斥候が容易に近づけないほど遠くで、だ。

 アダット派の斥候がいなかったわけではない。少なくとも、デファールがレッド派の領土に近づいていると聞いた時点で大量に斥候を出し、情報収集に努めようとした。だが……斥候は誰一人として、帰ってくることはなかった。

 当たり前だ。こと斥候役、情報収集に関することを任せた時、一般の兵士や多少知識がある専門家と比べてなお、『エンフィーロ』にかなうはずがない。


 だからこそ、エルフィールたちが侵攻してくることは察していたが、実害が出ていない以上撤退するわけにもいかない環境が出来上がっていた。

 斥候が帰ってこない以上、敵は確実にこちらに気づき、近づく準備は整えている。だが、少なくともどこかの都市が落とされたという情報は届いておらず、ゆえに侵略もまだされていない。

 クシュルの今のアダットからの命令は、「レッド派の粛清」である。未だ何の音沙汰もないアシャト派からの防衛のために、撤退する必要性がない。


 とはいえ、『護国の槍』の心情としては帰りたかった。心の底から帰りたいとは思っていた。

「クシュル様。」

「……アルディエト殿か。」

そんな最中さなかのことである。彼の天幕に、アダット派の軍勢の誰にも属していないはずの男が尋ねてきた。

「はい。あなたに、主からの命令を持参いたしました。端的に申しますと、「アダットの世間体に泥を塗らずに撤退せよ」とのことです。」

不可能である、とは言えなかった。やろうと思えば出来なくはない。

「エルフィールの狙いは挟み撃ち、あるいは労力を要しない勝利です。それくらいは閣下も悟っておられるでしょう?」

「……なぜ、貴殿が。」

「私は『影の軍』で御座いますれば。」

クシュルは黙り込むしかない。彼の言、その外にある意味をクシュルはあやまたず汲み取っている。


 あぁ。どうしても、ここでクシュルがやるべきことは決まっていた。

「承知した。即座に軍を纏めて撤退いたそう。」

即断した。クシュルが抱えるこの状況、ヒリャンとの睨みあいにおいて、実は呆気ないほど簡単な解決策は存在した。


 アダットの命令を個人的に無視するという形、即ちクシュルが全責任を負うという結論をもって撤退すれば、ヒリャンには伝わるだろう。

 双方にとって、敵は帝国派。彼らの思惑に乗ってやる理由など、クシュルにはない。


 重い腰を上げるべきだと判断した。だが、先に動いたのは、レッドだった。




 敵将はデファール=ネプナス。副将はコーネリウス=バイク=ミデウス。

 その知らせを受けた直後、レッドは帝国派のアダット派への動向を調査するように命じた。

 そして、その悉くが報せを絶った。


 笑い話であり、笑い話にならない。レッドの視点から見れば、デファールの軍隊は居場所を喧伝しながら歩いてくるようなものなのに、アダット派への行動は全て隠蔽されているわけだ。

 舐められている。レッドよりもアダットが脅威であると、ヒリャンよりクシュルが脅威であると、舐められている。少なくとも、レッドの視点から見ればそう感じた。


 実態は違う。『エンフィーロ』の活動範囲の問題だ。

 エルフィールと同行するたった500人しかいない『エンフィーロ』では、デファールの行動情報まで潰せない、というだけの話。

 『エンフィーロ』とそれ以外の、密偵としての実力が隔絶しているというだけの話である。


 だが、そんな話はレッドが知るはずもなし。舐められていると捉え……しかし彼は冷静だった。

 アダット派へ放った間者が全て潰された。それはつまるところ、アダット派に対する攻撃用意も整えているという意味で、クシュルが動けないのは実害も命令も何もないからだ、ということを即座に理解した。

 何としても、自分を守るためにヒリャンは帰ってきてもらわなければならない。なぜか消息を絶ったビリー=アネストリの動向を探ることより重要なことが、彼にはある。

「パーシウス=アルス=ペガサスに書状を送れ!停戦要請だ!」

「元帥閣下ではないのですか!」

「ああ!奴は仮にも公爵家の次男!公爵家の長男おれと停戦協定をするには十分な立場だ!クシュル=バイク=ミデウスには知られないよう事を成せ!」

書状を渡す。パーシウスがクシュルの陣営に入った時点で、こうすると決めていた。


 レッドにわからないのは、パーシウスが向こうについた動機である、が……今は無視することに決めた。都合がいい。

「一応公爵公子の顔だ。それも、アルス=ペガサスの。それを立てるとなれば、クシュルは自ずと下がらざるを得ん。おそらく、一週間もしないうちに動きがあるはずだ。」

その通りに、なった。


 レッドがパーシウスに書状を送った三週間後。パーシウスが書状を受け取った三日後。

 アダット派、レッド派両軍は、グリュール山脈から撤退した。

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