101.雷馬将の決断

 兄の机は書類に埋もれていた。顔すら見えぬほどに高い山が築かれているほどに。

「……。」

「グリッチか。」

「貴族たちは、この兄上と私で後継者争いになると思っているのですか?」

苦く棘の籠った声が出た。ここまで感情が高ぶっているとは。

「なるだろう。お前も同じだけの書類仕事を同じ速度で捌くことは出来るはずだ。……苦になるかどうかはともかく。」

それは、いかんともしがたい問題だと思った。おとなしく書類仕事をしているのは、出来るかと言われれば、出来る。したくはないが。

「性格の問題、というよりは性質の問題だ、グリッチ。余は軍の指揮が全くできないわけでもないし、おそらく窮すればお前くらいは出来るだろうが、やりたくはない。」

ああ、と納得した。確かに、追い詰められれば私も兄と同じだけの仕事量をこなすだろうが、やりたくはない。


「要件はそれか?」

「はい。私は、兄上が王を継ぐべきだと思っています。なので、どうすればよいかをご相談に。」

「ふむ。……王になりたくない、と一言でも誰かに口にしたか?」

「ヴェーダには。」

「それ以外には?」

首を振る。誰かに話すほど短慮ではない。

「それでいい。もし話せば、お前はお前を支持する貴族から、洗脳されている可能性を示唆されただろう。」

「洗脳?……誰に?」

「お前が、私に。王座を望まないよう洗脳されている可能性があると謳われていた。」

訳が分からない。ただ王座を望まないと、ただそれだけを言うだけで、私が洗脳されている可能性があると、どうして判断されるのだろうか。


「簡単な話だ。権力を欲しい奴らが得たいのは大義名分であって、お前じゃないんだよ、グリッチ。」

「はい?」

意味が……あぁ、そういう。

「必要なのは、私と兄上を離すこと?」

「王族は仕事でもない限り公都から離れられない。だが、洗脳の療養なら外に出せるだろう?」

「その間に『本当に』洗脳をすれば……。」

「王を目指す優秀な王族が一人出来上がる。さすがだ、グリッチ。」

気持ち悪い話だろうと思う。だが、それが国を回す人間たちの勢力争いだということは、この王宮で過ごしていたら嫌でもわかる。


 私は、そんなものの渦中にいたくはない。

「王になりたくないのなら、手っ取り早い方法がある。」

「あるのですか!」

「ある。……が、家族思いのお前には、少し苦しいものかもしれない。」

「……まずは、話を聞かせてください。」

それは、確かに、家族思いの私にとっては、大層辛いものだった。




 槍を振る。槍を振る。槍を振る。

 ゼブラ公国に伝わる槍術。元は、エドラ=ゼブラ公爵家に伝わっていた、絶対的指揮官になるための、『強さ』を追求した槍。

 その槍が、重かった。


「兄上?」

カリンが庭先に出てきた。その目が、私の目をじっと見ている。

「何を、悩んでいるの?」

妹に気づかれるほど、私の表情に出ていたのか。それはつらいな、と頭の片隅で思う。

「兄上の槍、今日は、きれいじゃない。」

どうして、と聞こうとした。聞くまでもなく、聡い妹は気づいてくれた。


 きれいじゃない。そうか、と思う。妹は4歳。純粋に美しい心を持って、人を見ることが出来るのだろうな、と思う。

「大丈夫。なんでもないよ。」

「兄上、今、大兄上とおんなじ顔した。嘘つくときの顔。」

息が、詰まる。兄上はいま政治のど真ん中にいる。妹に話せないこと、誤魔化さなければならないことの10や20、普通にあるはずだ。

 でも、妹は、カリンは、それを見抜いていたということか。……兄上が、カリンと最近会わなくなった理由は、きっとそう言うところにあるのだろうな、と今更ながらに気が付いた。


 昨日カリンが寂しがっていたと言えば、とても名状しがたい表情になっていた兄の口元を思いだす。あぁ、もしかしたら、こういう部分は本当に兄弟が見え隠れしているのかもしれなかった。

「うぅん。本当に、大丈夫だよ。今、解決したから。」

だからこそ。人を、純粋な心で見ることが出来る今のカリンに、私と兄のドロドロに憎みあいかねない構図を見せる気はない。

「ありがとう、カリン。私は今、決断した。」




 それは、すぐさま公王……父に奏上された。

「本気で言っておるのか、グリッチよ。」

「父上。本気です。」

「……ギデオンも何か言ってはくれぬか?」

「他でもない、私が、その案を勧めたのです。」

玉座の間が、完全に沈黙した。その隙をついて、貴族の一人が前に出る。

「陛下!一年後に気が変わらなければ、ということにしてはいかがでしょうか!」

その間に私の気が変わるよう、後から後から貴族たちの応対に追われるのだろうと思うと、ふざけるなという気にもなってくる。やるわけがない。

「王室は兄が継ぎ、軍は私が受け持つ。そのための武者修行に出ると言っているのだ、なぜ止める?」

「あなたが死んでは元も子もありません!」

貴族が吼える。本音は、『あなたを王にしたいから』。続く言葉はおそらく、『その恩を使って甘い汁を吸いたい』。

わかっている。そして、今の私はそれを望まない。だから、兄が確実に王になれる手を取った。


 だが、貴族たちも、その提案があった時点で私と兄の思惑を瞬時に理解したのだ。だから、食い下がろうと粘ってくる。

「父上。あなたは、兄弟が血で血を争うところを、見たいですか?」

貴族たちも、私たちも、決定権が父にあることを承知している。父が黒と言えば白いものも黒くなる。それが、ゼブラ公国における公王の権力だ。

「……。」

父は、目を瞑って、腕を組んで、そして熟考を始めた。こうなったら、他の誰が声をかけようと父の耳には聞こえない。無理に話しかけようとすれば不興を買いかねない。


 それでも、私は。この言葉だけは、言い切りたかった。

「私は、家族を愛しているつもりです。」

それが、私にとって、全ての動機。『愛』、この言葉に、父は弱い。

 少々腹立たし気に、父は舌打ちした。

「許可しよう。ただし、決して死なないこと。生きて帰ってくること。」

愛ゆえにその行動をするのであれば、愛を貫かずともよい場所で死ぬなと、父はまるでそういうかのように告げた。

 それを、黙って頷き返すことで、返事とする。


「では、我が息子グリッチ。そなたを間諜としてペガシャール王国へと送ろう。いかな手段を使ってもよい、ゼブラ公国に王国が侵攻する動きあれば、必ず伝えよ。」

それが、兄がした提案。ペガシャールでなくともよかった。ゼブラ公国はペガシャール王国とヒュデミクシア王国に囲まれた地だ。どちらであってもかまわない、どちらかでさえあればよかった。

 私が後継者争いをするための道具として扱われる理由は、大きく三つある。


 一つ。私が公王、つまりは父とその正妻である母の子であること。

 一つ。私が公王になるにふさわしいだけの能力を備えていること。

 そして最後の一つ。私が、ゼブラ公国にいること。


 ゼブラ公国にいれば、私は旗頭として祭り上げることが出来る。だが、そもそも国内にいなければ、旗頭としては弱すぎる。

 私が王になることをお望みだ、というには、多少の説得力が必要だ。具体的には、私自身の口からそれを言わせるか、私自身がそれを言えるだけの状態にあること。

 他国にいる私がどれだけ主張したところで、王になるための動きをしているとは言えない。外国にいる私がどれだけ暗躍しようとしたところで、私が王になれると思う者はいない。

 おそらく、本当の意味での政治の能力は、兄の方が私より優れている。それを、軍部の支持と、戦略の才で補えるのが私の強み。私を王として担ぎ上げたい者たちが使える私を『支持する理由』。

 だが、言い換えれば私と兄には軍という強みがなければ勝てないほど、政治の能力は求められていない。求心力をいくら高めたところで、政治の中枢から物理的に距離を離してしまえば、私が出来ることはほとんどない。

 兄が私に話した、『後継者争いを実質完全に止める方法』。だからこそ、明確に断言できる。


 これは、私にとっても諸刃の剣。兄と血で血を争う政争をする必要性は欠片もなくなる。だが、代償として、私は兄が確実に公王になるか、国の危機が訪れるまで、国に帰ってくることが出来ない……家族に会うことが出来ない。

「用いていい人数は、近衛兵団うち3000まで。それ以上は、持ち出すことを許さぬ。」

いきなり3000人も人を使う組織がいたら驚かれる。徐々に徐々に人を増やす方式で、何をするべきか。


 まあ、いいと思った。いくらでも、考えれば方針は出てくるだろう。

「ゼブラを名乗ることは許さぬ。それだけ、ゆめ忘れるな。」

「承知、致しました。」

そうして私は。泣き叫ぶ妹を尻目に、国を出た。

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