76.赤甲将の受難
俺が社交の場に放り投げられたのには、大きく二つの理由がある。
一つは、当時やたらと活躍し、私属貴族とはいえ男爵から重用されているという事実を、その息子に取り入る機会を設けることで誤魔化そうという魂胆。
もう一つは、アレイア男爵の子供と俺の仲を良くしておくこと。アレイア男爵が治める代官の土地の未来を考えたら、軍事を結構な割合で担っているディーノス家と仲良くしておくことに越したことはない。
そうした、上の思惑があって、俺は二年後、アレイン男爵家に挨拶に伺うことになった。
「お久しぶりです、アレイン男爵様。フレイル=ディーノスです。息子のペディアを連れ、参上しました。」
「意外と早かったな?入れ。」
入って最初に思ったのは、『豪華』だった。机、椅子、カーペットに至るまで、それなりに裕福なはずのディーノスの家にはないものだ。俺は、いずれ商人の役を担っている執事階級に騙されないよう、モノの目利きも叩き込まれ始めていた。
とはいえまだ9歳の少年の目だ。甘いところなどいくらでもある。それでも、明らかに実家より上質なものがそろっている、それがわかる程度の目利きの力は、持っていた。
「う、わ。」
気圧されていた。周囲の全てが高級品だった。周囲の全てが、「お前はここにふさわしくない」と雄弁に語ってきているようだった。
それでも、前を向いた。よくよく考えたら、9歳の少年にあるまじき胆力だったのかもしれない。怖いもの見たさもあって、その部屋の主を視界に入れた。
「君がペディアかい?」
アレイン男爵は、なんというか。すごく太いお父さんとアデイルを見ていたからだろうか。すごく細い人に見えた。でも、なんとなく感じる雰囲気は、この人がすごく怖い人だっていうことを伝えてきていた。
子供の方が、そういうものは感じ取りやすいのかもしれないと、今になったら思う。まぁ、なんだ。あの時の俺は、あの男爵の人生経験?みたいなものに気圧されてしまった。
「あ……は、はい!」
何とか絞り出した言葉に、男爵がニコリとほほ笑む。でもどうしてだろう、獲物を狙う肉食獣の笑みにしか見えなかった。
「嫌どうしても何も、自分の家を助ける次代を何としても確保したい、ていうのは、そりゃ肉食獣じみた笑みにもなるだろう。」
「そういうものなのですか?」
「……まあ、そうね。そのアレイン男爵っていう人がよっぽど阿呆じゃない限り、考えているのはあなたを何としても男爵家に取り込むことのはずだわ。」
「だ、というよりだった、ですけどね。それはさておき、それが俺とアレイン男爵の最初の出会いでした。」
「……私属とはいえ貴族が、部下の息子にそう何度も会う機会があったのか?」
「はい。私が会ったのは合計で5度。これが一度目の邂逅でした。」
「……よほど重用されていたのだな、ディーノス家は。」
5度という数字を聞いて、驚愕するような表情をコーネリウスは見せた。上司が部下に会うという環境ならさておき、上司が部下の子供に会うという状況は、ほとんどの場合3度あれば多い方らしい。
「普通、息子同士のあいさつの場に共にいるのが最初。何かの拍子にパーティーとかで肥をかけられるのが、ギリギリあり得る二度目。最後は、親から子へと権力が移されるときに立ち会う。それが、普通のはずだ。」
「……息子との面会の時も、会いましたよ。それが二度目でした。」
「特別扱いが過ぎる。ディーノスを大事にしたかったのだろうが、それでは他の家からの嫉妬を買うだけだ、愚か者。」
コーネリウスがつく少々の悪態。俺はその言葉に目を見開く。
「上司は部下の嫉妬の感情まで操作しなければいけないのか?」
「ああ。というより、そうしなかったことが問題なのだ。……お前の家は、滅んだのだろう?」
「……そうでなけば、傭兵などしておりませんよ。」
「だろうな。お前の指揮能力や実力に、納得がいった。おかしいとは思っていたんだ……。」
「……。」
常識っていう奴は、人を疑うに十分な材料になる。それを思い知った一瞬だったし、それを疑えるのが、学のある人間だという意味かと感じた発言だ。
正直なところ。これ以降は一気に語ってしまいたいと思っている。何も言われたくないし、何かを挟めば、感想を聞いてしまえば、俺は多分、これ以上自分を語れる気がしない。
「わかった。静かにしている。」
そう伝えると、コーネリウスは実にあっさりと頷いた。よかった、と思う。
それから、俺は。アレイア男爵の息子と会った時から話し始めた。
「お前が傲慢にも父上から支援を受けている血濡れの息子か?」
「……はい?」
それが、俺と彼の初対面だった。俺は俺の教育に男爵からの支援を受けていることを知らなかったし、そもそも血濡れの息子って何の事かもわからなかった。
「俺の仲間たちが言っていた。日々賊徒の血を浴びて生きているディーノスっていう獣がいるって。その息子に、ペディアっていうのがいるってな。」
「……。」
カッと、頭に血が上った。殴りかかる半歩手前くらいまで行っていた。でも、耐えた。
耐えられたのはほとんど、無意識だった。次の瞬間、アレイア男爵が息子の口を。強引にふさいでいなかったら、俺はまず間違いなく殴っていただろう。
「……悪いな、フレイルよ。ちょっと息子には教育の必要がありそうなので、彼らの対面はしばらく後にさせていただいていいだろうか?」
「はい。承知いたしました、男爵様。」
「とはいえこちらの都合だ。このままではあまりにも貴殿に悪い。この屋敷に滞在していくといい。三ヵ月ほど。」
まぁ、これが実質命令だってことに、俺はこの時気づきもしなかったわけだが。父さんは、普通に、アレイア男爵の屋敷に滞在し始めた。
「覚えておけ、ペディア。あれが、これからお前が晒される悪意の一端だ。……今のうちに、覚えておけ。」
「はい。」
はい以外に、何を言えばいいのかがわからなかった。こんなの知りたくないとでも言えばよかったのか。それとも、望むところですとでも言えばよかったのか。
でも、とにかくその時の俺は、父さんをバカにされたことに憤っていて、父さんが握っている方の手はかなり力が入っていて。
でも、父さんはその手を離したり、痛いと言ったりしなかった。何に怒っているのか走らなかったんじゃないかと思うけれど、でも怒っている感情を諭すことも、冷ますこともさせなかった。
父さんは、多分、俺にとっては理想の父さんだった。
……これは、正直な話。話していいのかどうか、わからない。もしかしたら貴族の価値観的には話してはいけないことなのかもしれない。
掘り下げられたら問題になることなのかもしれない。でも、幼い子供の罪と言えば、それで解決する問題なのかもしれない。
こんな前置きをしなくちゃいけないほどありえない事態だったのではないかと思える『それ』は、本当に唐突に、現れた。
アレイア男爵の屋敷に滞在することを許されていた俺たちは、そこにある本や資料を読むことをいくらでも許されていたし、そこの軍の訓練に参加することを許されていた。
その日、訓練に参加して、自分よりも剣の腕がいい人などいくらでもいるという現実を突きつけられていた。その日、というより毎日。そうして、どういう動きを取り入れたら強くなれるのかと考えながら帰っていた矢先である。
「あなたが、ディーノスっていう優秀な猟犬?」
その声は、とても綺麗な、吸い込まれるような女の子の声だった。俺は女の子という生物と会ったことはなかった。せいぜいメイドやお母さんくらいしか、女の人と話すこともなかった。
でも、その誰よりもきれいな声だった。つい、振り返って、その人の背丈が、自分とそう変わらないと気付いた。
彼女は、女の子……俺が世界で初めて話す、女の子だった。
「猟犬は父ですよ。俺はその息子です。」
それくらいしか返事が思い浮かばなかった俺は、もしかしたら舞い上がっていたのだろうか。でも、質問の返事にはきちんとなっていたし、別に普通だったのだろうか。
「猟犬の子は猟犬よ。」
「……そうでしょうか?」
「だってその方が育てやすいじゃない?」
「……。」
何も言えない。猟犬として育てられている以上、俺に否定する権利はない。とにかく、この女性が誰か。俺にはそっちの方が大事だった。
「あら?レディに自分から名乗らせるのかしら?」
「……?」
言っている意味が分からない。正直今でもわからない。名乗りなどどちらがやっても同じことだろうと思う。
「えっと、言われている意味はよく分かりませんが……ペディア=ディーノスと言います。よろしくお願いします?」
俺が習っていたのは、俺がそこまでの礼儀作法は知らないと理解している相手に、最低限失礼に当たらないような話し方や歩き方、食事の仕方、である。
……衣服からして、雲の上の人であることはわかっている。多分この人はアレイア男爵よりも出自は上だろうと思っている。でも、そんな人への接し方など、俺は知らない。
だって、俺のしてきた礼儀作法の勉強は、いずれ同僚になる人たち、その両親、そして私属貴族の男爵に対するものだけなのだから。
「……。そうね、まぁ、私属貴族の部下レベルなら平民と対して変わりはありませんから、そう考えるとあなたの態度は誠実にあたいするのでしょう。公属貴族に対する態度ではないですが、逆に平民が公属貴族への礼儀を知っていたら疑ってかからなくてはなりません。」
何を言っているのか、というより何語を離しているのか俺にはよくわからなかったけど、彼女は納得したらしい。俺は、少しだけホッとした。
「リーナよ。リーナ=フェリス=コモドゥス。そうね……アレイア男爵の上司の娘だと覚えておけばいいわ。」
「は、はぁ。」
何といえばいいかわからなかった、わかるわけがないじゃないか。とりあえず、彼女はそれだけ言って満足したのか、俺に背を向けて
「また会いましょう。」
なるべく避けるようにしよう。そう思った。
次に男爵に会ったのは、男爵が訓練を見に来た時のことだった。その時の俺は、ようやく剣術の技量の上昇が見え始めていた。
人間、四段階格の武術士から五段階格の武術士に上がるまでは相当な時間がかかる。まだ10歳だった俺には5段階など夢のまた夢、ようやく4段階を二人相手に拮抗出来るようになったくらいだった。
「やっとるな。」
「はっ!」
「フレイルの倅はどうだ?」
「非常に筋がよいと思われます!剣術に関して才能があるとは言えませぬが、非常に努力をしておいでです!」
「それは困りましたわね?彼はアレイア男爵家を助けるのでしょう?剣術が上達してくださらなければ、戦場に出たらすぐに死んでしまうのではなくて?」
ゲ、というのが正直な感想だった。アレイア男爵のみならず、リーナ=フェリス=コモドゥス伯爵令嬢までいるではないか。よく見れば、男爵の影に隠れてはいるが、男爵の息子もここにいた。
男爵の息子の方はまぁ……俺や訓練中の兵士たちの方を見向きすらせず、ひたすらなぜかリーナ様の方を見ていたわけだが。
「そうでもありませぬよ、コモドゥス伯爵令嬢。ペディア、いえ、ディーノスに求めているのは戦場での戦働き……つまり指揮能力です。私、ひいては伯爵様がお求めになるゴール地点に到達するために、兵士を動かすことが必要なのです。武術の腕は、実のところ、命の安全を確保できれば良いのですよ。」
「そうなのですか。……そういえば昨年、王室師範が申しておりましたわ。彼は攻撃の才能が絶望的にないが、生存の才能はずば抜けている、と。」
何か兵士たちをおいて、リーナ様と男爵様はお話を始められた。だからと言ってこの場を立ち去っていいと言われていない以上、ここに留まらなければならない。
出来たら早く終わってくれないかな、と思った。そんな感情を知りもしないで、リーナ様と男爵様のお話は続いていく。
「ほう。王室師範ということは、アダット様ですか?」
「それは私属貴族が知るべきではないことです。失言でしたわ。」
「……そうですか、探るような真似をして申し訳ありません。」
「いいえ、わたくしが口を滑らせたのが悪いのですもの。ですがお気を付けになって。お父様でしたら、爵位簒奪を考えていると思われますわ。」
「……アレイア男爵家に、それほどの実力はありませぬよ。」
「そうでしょうか?伯爵領全ての領地の中で、あなたの治める代官地は極めて優れた成績を残しています。具体的には、賊徒討伐の功績が。その解決速度、被害状況、そして民への還元率。どれを取っても頭一つ成績が優れておりますわ?」
「非常に優れた猟犬がおりますので。彼らは真に害なるものだけを排し、手なずけられるものは全て領土へ帰す、優れた嗅覚と行動力を持っております。」
猟犬。それが、ディーノスを指していることはわかった。自分の家の名前が出てきて、まるで自分のことを語られているかのように一瞬硬直し……褒められたことで、安堵して弛緩する。
「そうですわね。あなたの猟犬が行った資料は全て拝見させていただきましたわ?彼らは非常に優れていますのね?」
「そうでしょうとも!我らアレイア男爵家が誇る、最も優れた猟犬舞台でありますれば!!」
ホホホホ、ハハハハ。彼らはそんな笑いを、俺をじっと見つめながらしていた。
怖い。
そう。俺がその時感じた感情を一言で表すなら、恐怖だ。
俺を見ながら……いや、俺の実家であるディーノスの家を見ながら、あの二人は笑っていた。声と、口元は心底から笑っていて……二人とも、目は全く笑っていなかった。
怖い。怖い、怖い、怖い。
逃げ出さなかったのは、数少ない矜持だった。でも、足は震えた。手も震えた。剣を握っていなくてよかったと思う。もしも握っていたら、まず間違いなく俺は落としていた。
「それじゃあ、私は行きますわ。見たいものも見れたことですし。……ですが男爵。」
「なんですかな?」
「伯爵家は、我が家で重役を担う男爵家の手が、イヌに噛まれないか心配しておりますわ。……これ以上心配されたくないのであれば、そこの無能を凡人程度には仕立て上げなされ。次代の猟犬を丁寧に育て上げるよりも、前に。」
「……それは、失礼いたしました。」
この二人が、何を言っていたのかわからない。でも、とりあえず、その言葉を最後にリーナと護衛、男爵一家は練兵場から出ていき……俺は、膝から崩れ落ちた。
「よく耐えた!よく耐えたぞペディア君!あれが向けられたのが僕なら、まず間違いなく耐えられなかった!!」
ここに滞在する間、僕の面倒を見てくれている兵士の上官……ヒツガーに声をかけられて、助け起こされてようやく、俺は限界だったことを知り……
「今日は休め。な?」
まだ日が高いというのに……俺は素直に、頷いていた。
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