第2話
コマチは目を覚ます。冷凍睡眠から目覚めた時とは違う、スムーズな覚醒。
朝七時のアラームだ。彼女の生活は規則正しい。
天井に備えられたモニターは、今が二七九四年の八月であることを知らせている。
「八月」
彼女は確かめるようにつぶやく。
ダブルベッドから身を起こすと、黒革のソファや木製テーブルが目に入る。いつもと同じ光景だ。
彼女の根城である一九九九号室は、いわゆる富裕層のための部屋だ。専用のバスルームとトイレが室内に取り付けられている。
「八月は、湿気と日差しと、蝉の季節」
歌うように言って、コマチは身支度を整える。
船内の通路は肌寒い。おそらくサーモスタットが故障しているのだ。
コマチが富裕層のための部屋を拠点としている理由はこれだ。共用のトイレやシャワー室を使うには、覚悟を要する。
一九九九号室の前で、彼女は「湿気なし」とつぶやく。
部屋を出た彼女の正面には、窓のない通路が広がっている。昔、写真で見た地球の「国道」はこんな広さではなかったか。ここには、車線がないだけだ。
彼女の右手には、ずらりと並んだ居室が見える。ほの暗い通路にどこまでも並んだ、鉄の扉。
コマチは退屈そうに、「日差しなし」とこぼし、左手へ歩き始める。
共用のシャワールームとトイレ、ランドリー、トレーニングジムを通り過ぎる。その先には、カジノ、図書館、百貨店、映画館が並ぶ。もともとは二千人以上を収容できる船だ。娯楽施設は充実している。
そのどこにも人の気配はない。モーターか何かのかすかな動作音。自分の足音、咳払い。
彼女は言う。
「蝉の声も」
三十分も歩くと、娯楽施設の端にあるレストランの扉が見えてくる。
中に入ると、赤を基調とした絨毯にシャンデリア、いくつものテーブルの並びが出迎える。
コマチは迷いなく、奥のバーカウンターへ向かう。
「おはようございます。コマチ様」
「おはようロイド」
ロイドは目玉のランプを瞬かせて、コマチのことを見つめる。
彼は旧式のドロイドだ。灯台のような形の図体で、四本のアームを動かし、料理やカクテルをさばく。腰から下は床と一体化していて、バーカウンターから動くことはできない。
「今朝の朝食は和風ですよ。お米、みそ汁、目玉焼き」
「朝から重いわね」
「健康第一です、コマチ様」
コマチはここで、朝食をとる。昼食も、夕食もそうだ。
言語を操るドロイドは、船内でロイドだけだ。
「パスワードは分かりましたか?」
「いいえ、手掛かりなしよ」
「気長に行きましょう。食料と水は、二千人があと三〇〇年生活できるだけありますから」
目覚めた当初、コマチはロイドを問い詰めた。
なぜ船内にだれもいないのか。乗組員たちに何があったのか。
ロイドはこう言った、「答えられない」。なぜなら「その情報にパスワードがかけられているから」。
コマチは、それを追い続けている。
朝食を終えると、洗い物はロイドに託し、コマチはレストランを出る。
日課の散歩だ。
宇宙船はドーナツの形をしていて、レストランから先は、観覧用の通路になっている。そこをひたすら歩くと、居室の並びへと戻ることになる。
観覧用の通路は、床を除く壁や天井がすべて強化ガラス製となっていて、宇宙空間を存分に眺めることができる。
まばらな星芒以外は、底なしの闇だ。
遠くにある星の光は、存在をかろうじて主張するだけで、辺りを照らすことはない。
一歩進むごとに、乾いた音がする。自分の呼吸音がうるさい。
観覧通路の床には、一定の間隔で四角いマンホールが設置されている。
コマチは、その中の一つに歩み寄っていく。
マンホールは、どれも管制室へつながっている。もちろん、一般の乗組員が入り込まないよう、厳重なロックが施されている。しかし、コマチは一か所だけ開錠されたままのマンホールを発見していた。
はしごを降りると、船の進路を示した巨大なモニターが現れる。コマチにも詳しくは分からないが、船は、どこかに向かっているようだ。
管制室の奥には、操縦席がある。雑多なレバーとペダル、そして無線。
コマチは無線を手に取り、ダイヤルをやみくもに回す。
「聞こえますか。応答願います」
どこからかカリカリという音がする。しかし、それだけだ。
通信がつながったことはない。
散歩に一時間をかけ、一九九九号室に戻ると、コマチはシャワーを浴びる。
冷えて白くなった頬が、次第に上気して赤くなる。
一時期、彼女は散歩ではなく、健康維持のためにトレーニングルームを使用していた。しかし、そこの器具は彼女にとって負荷が大きすぎた。
シャワーを頭からかぶりながら、彼女はパスワードについて考える。
ロイドは言った。
『パスワードの設定者は、ヒントを残しました。ヒントは、「人類が宇宙へ旅立ったとき」です』
だれが、何のために情報を残したのか。
なぜパスワードを設定したのか。
コマチは何も知らない。
昼食までの間、コマチは図書館へ行く。図書館の壁面すべてが本棚になっており、天井まで本が陳列されている。
多様な言語、ジャンル、コミック、図鑑、ありとあらゆる種類の書籍。
さすがは二千人の趣味嗜好に耐えうる図書館だ。
本棚の前にはむき出しのエレベーターのような箱体があり、それを操縦して目的の本を取りに行く。
図書館中央には、巨大な机があり、そこに座って読書ができる。
出入り口に一番近い机には、いくつもの本や新聞が開いたまま置いてある。コマチがこれまでに調べた書物だ。
それだけ調べても、船内の人員が消失した原因については分からなかった。コマチも知っている科学や政治のニュース以上の情報は得られない。
コマチは原因の探求を早々にあきらめ、パスワードを探すことに力を注いだ。
「一九六一」
人類が初の有人飛行を成功させた年だ。しかし、これは不正解だった。
アメリカの有人飛行、宇宙ステーションの建設、宇宙旅行の企画、惑星への移住開始。コマチは考え付く限りの年号、月日、時刻を調べ上げた。しかし、どれも適合しなかった。
正午になると、どこかのスピーカーから鐘の音がする。
管制室やメンテナンスルームでこれを止めようとしたこともあるが、結局止め方は分からずじまいだった。
あらゆる数字を記録したメモを持ち、コマチはロイドのもとへ向かう。
結局この日もすべて外れに終わり、コマチは不機嫌にパスタをすすった。
コマチにとって、午後は趣味の時間だ。
映画館へ赴いて映画を見ることもある。図書館から文学作品を借りて読むこともある。それに飽き足らず、ノートに小説をしたためたり、コミックを描いたりすることもあった。
滅多にないが、身体を動かし足りないときには、自転車を使って船内を回る。広い通路を蛇行していると、わずかに楽しくなる。
百貨店にあるスケートボードにも一時期はまっていたが、けがをしたときにだれにも助けてもらえないと気づき、やめてしまった。
今、彼女はジグソーパズルに挑戦している。クリスマス一色の街で、サーカス団が芸を披露している。鮮やかな色がふんだんに使われているが、人物の服装や建物の色合いが似たり寄ったりで、なかなか難しい。
一週間前に一九九九号室のテーブルで始めたが、収まらないことに気づき、場所を移した。今は一九九八号室の床を使って制作している。
数万あったピースも、今では残り二十個ほどだ。迷いのない手つきで、彼女はそれらをはめ込んでいく。
最後のピースは、ライオンの顔面だった。立ち上がって完成した絵柄を眺めながら、コマチはため息をつく。彼女はまたやることを失ってしまった。
夕食は軽めに済ませる。
ロイドも承知していて、チーズクラッカーや燻製を出すだけだ。
コマチはそれをつまみながら、手に持ったグラスを眺める。
「今日も手掛かりはなかった」
「気長に行きましょう」
「あなたが情報を教えてくれれば済む話なのに」
「残念ながら、プログラム上不可能です。無理にお伝えしようとすれば、私の頭の回線がショートして、二度と起動できなくなるはずです」
「それはいやだわ」
何度となく繰り返された会話。
「ねえロイド。今日ジグソーパズルを完成させてしまったの」
「おめでとうございます」
「何も考えずに時間をつぶせるもの、他に何があるかしら?」
「いくらでもございますよ」
ロイドはいくつかの余暇を挙げる。コマチはそれを聞きながら、新しいことを試してみるか、しばらくやっていないことをまた始めるか考える。
「そういえば、最近映画を観ていないのよね。何かおすすめはある?」
「おすすめと言えば、過去の視聴データからランキングをお示しすることになります。しかし、それらはもうだいぶ観られたのでは?」
「そうね。ランキングの四十位までは全部観たわ」
船内の映画館は、シアタールームが六つほどある。座席数は百近くあり、かなりの大きさと言えるだろう。係員室に入ってプロジェクターを起動し、視聴したい映画を選択すると、すぐに観ることができる。
映画は二五〇〇年代のものまである。ということは、それ以降に人々は消失したということだ。
「ランキングは、ほとんど最新の映画で埋まっています。いっそ、二〇〇〇年以前の作品などどうでしょう」
「なるほどね。いいかもしれない」
コマチはそこから、ジャンルやストーリーについて、ロイドと話し合った。
明日観るべき映画も決まり、コマチは一九九九号室に戻る。いつもより飲みすぎたのか、心地よい浮遊感。
寝間着のジャージに着替え、ダブルベッドに潜り込む。船内の寒さには辟易するが、暖房をつけたままのこの部屋は暖かい。
コマチは本を手に取ってページを繰る。
日本の歌集だ。いつの年代のものかは知らない。独特な音韻とリズムに身をゆだねる。
コマチは思い出す。短歌は芸術として、あるいは娯楽として流行した。しかし、コマチが冷凍睡眠に入る前、短歌は解析されつくしてしまった。
コンピュータによる、単純な解析である。短歌の文字数は三十一文字前後。その存在しうる日本語の文字列を、コンピュータがはじき出す。さらに、有意味語となりうる文字列をピックアップする。
結果として、人間の生み出しうる短歌は、産声を上げる前にすべて開発されてしまったのだ。
人はもう短歌を生み出すことができない。自作したとしても、それはコンピュータが開発した歌の二番煎じにしかならないのだ。
もちろん、それに反発する人間も多かった。ある者は、上の句と下の句を二人で合作するコミュニケーションによって、短歌再興を図った。しかし、何人で作ろうとも、結局は文字列をシャッフルして並べなおす以上の意味をもたなかった。この流れはすぐに廃れた。
短歌の形式をより自由にしようとした者もいた。文字数の改変、短歌に用いる新たな言語の開発。これは少しの間功を奏したようだった。作り手は短歌の継承者と称賛され、その作品はただの文字列にとらわれない新しい文化として名を馳せた。しかし、いつしか人々は気づいた。改変を重ねたその作品群は、もはや短歌ではないことに。
コマチは、開き癖の付いたページを広げる。彼女はいつも、この歌を見て眠る。
「雪は降り隣の町に死者が出た鳥目の勇者が一人鐘打つ」
この歌の一般的な解釈は、至極単純だ。雪が降って、隣の町に死者が出てしまった。鳥のような目をもつ勇ましい人間が、大いなる自然に向け、戦いの鐘を鳴らしている。
コマチはそれに対し、異なる考えをもっていた。かつて、「勇者」という職業が流行したらしい。発端は、漫画だとかゲームだとかいう話を聞くが、詳しいことは分からない。それは「救世主」と似たようなものだという。
また、鳥目というのは、夜間に視力が低減し、見づらくなる状態のことを言う――少なくとも、何百年前の日本では。これは過去の辞典を当たったため、確かな情報だ。
コマチの考えでは、この歌に登場する鐘は、決して闘いの狼煙ではない。雪の夜に、勇者のもとへ隣町で死者が出たという報告が届く。しかし、勇者は夜間に目がきかず、助けに行くことが叶わない。救世主であるはずの勇者は、歯がゆさや贖罪の思い、そういったものを混ぜこぜにして、鐘を打つ。これは、人を救うことができない勇者による、鎮魂の鐘なのである。
コマチはため息をつく。勇者であろうと誰であろうと、今の彼女を救ってくれる者はいない。自ら道を開くしかないのだ。
コマチは本を傍らに置き、目を閉じる。
宇宙船はドーナツの形。
たった一人を乗せて、浮かび続ける。
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