𝒇𝒇𝒇 - Forgotten For Fate -

第三楽章

1

　七方位家での日常が徐々に日常として僕の身に馴染みつつあるころ、僕は意外な報せを受けることになる。

　いや、これも例のごとく考えてみれば予想できて当然のことだったが。

　僕の家……というか、"過去の僕"の家か。事故に遭い、記憶喪失に陥る前に住んでいた家を引き払う必要があるから、僕に遺品を——これは両親だけでなく僕の遺品も含まれるのだろう——整理して欲しい、とのことだった。

　一応今の僕に親としての権利を持っているのは入江さんのはずだから、恐らく僕の手に余る様々な物は、家自体も含めて然るべき処理をしてくれることだろう。

　あれから二週間。

　特筆すべきこととしては、やはり来客の多さだろう。

　そもそも七方位家とはそういうものだということは聞いていたが、しかし実際にその中で暮らしてみると、素朴に驚かされるばかりだった。

　なにせとにかく妙な人間が多い。

　見分けのつかないほどそっくりな双子とか本物のメイドを率いるお嬢様とか、見るからに冗談のような人間はもちろんのこと、ギャンブルで生計を立てている遊び人とか本物の詐欺師とか、そういった生き様のレベルで、まともな人間がひとりもいないのだ。

　そんな人達をもてなしたり、逆にもてなされたり(微妙な表現だが、彼らは単に客であるばかりではなく、同時に七方位家の先達——兄や姉でもあったのだ)しながらの生活だから、『日常として身に馴染みつつある』といったところで、正直それに大した意味があるとも思えなかった。

　入江さんの言っていたことの意味が、今は実感としてわかる。

　当たり前なんてとんでもない、事件や事故の絶えない家だった。

　それこそ入院中に恐れていたような波乱万丈そのものの生活だが——しかし僕自身、そんな生活をかなり憎からず思っているのもまた事実だった。

　読書三昧で過ごしていたあの時期を思い出す。

　といっても、そんな懐古するほどの昔ではないのだが。

　しかし実際、入院生活とは対極でありながら、対極であるがゆえに、僕は今の生活から、その日々を想起せずにはいられなかった。

　早い話が、僕が読書体験に求めていたものと七方位家の生活において与えられているものとが、ちょうど似ているように思えたのだ。

　今から思うと、僕があそこまで読書に傾倒したのは、やはり言葉そのものに惹かれてのことだったように思う。

　経験というものが廃絶された僕は、単語や慣用句や箴言、つまり物語そのもの以上に、それを彩る言葉達を拾い集めていた。

　そして、七方位家の……住人、というのか？

　いや、住人というより——だから、家族か。

　とにかく、彼ら彼女らが全身に余すことなく所有している奇矯さから、僕はそんな"彩り"を感じているのかもしれない。

　僕の中の空虚が埋まるというより、僕の空虚さが埋もれるような気分だった。

　七方位家の中では記憶喪失の少年など、もはやひとつのちょっとした個性と呼んで差し支えないくらいに些細な存在に思えるのだ。

　まあ、現実逃避といってしまえばそれまでだが。

　そんな訳で、平日の午前9時、僕は例のごとく入江さんの車に送られ、僕の家へと向かっていた。

　家にいるだけでやっとのような家だからかえって外に出る機会は少なく、地理はほとんど頭に入っていなかったが、おそらくはそこまで遠くもなかったのだろう。入江さんとたわいもない話(『盤外戦術だけで将棋に勝つことはできるか』『絶対に断られない要求は存在するか』『御宗寺（おそうじ）姉妹がじゃんけんをしたらどちらが勝つか』etc（エトセトラ）…)をしているうちに、車は目的地へと到着した。

「……ふうん」

　まあ、普通のマンションだ。

　実はとなりのマンションでした、みたいなことになっても別に驚かないくらい、特に感じることはなかった。

「…っと、駐車はできねえのか。まあいい。付き添うようなもんでもないだろ。俺はここで待ってるから、とりあえず今日のところはお前だけでいってこい」

　とのことで、僕はひとり、五味家のドアの前に立っていた。

　一般的な記憶喪失の治療では、ゆかりのある物に触れさせるなどして記憶の回復を図るらしいが、なにせ一家全滅である。家を含めすべての場所や物の所有権は完全に宙に浮いた状態となり、病院としても治療に使うことはできなかったようだ。

　つまり、僕が過去の僕の痕跡に触れることは、これが初めてだった。

「しかし、なぁ……」

　僕は手にした鍵を改めて見遣る。

　何の変哲もない、作られたばかりの合鍵である。

　自分の家の鍵の形なんて、記憶喪失でなくとも覚えてはいないだろうが。

　しかし、それにしても、なにも思うことがない。

　思い出さないどころではなかった。

　まあ、とはいえ。別に僕は記憶を取り戻しにきた訳でもないのだ。

　そう、記憶喪失者の礼儀として、過去を訪ねることはそれ自体が意味のある行為のはずである。

　僕は鍵を回し、家の中に踏み入る。

　もちろん、言うこともなにもない。

2

　とりあえず入り口に近い部屋から順番に見ていくかと思って真正面の部屋に入ると、どうやらいきなり自室を引き当ててしまったようだった。

　なにやら教科書のようなものが数冊散らばった床、本棚が付いた勉強机、ベッドがって枕があって——。

　やはりというべきか、これといって思い出すことはなかった。

　むしろ、なるほど男子高校生の部屋というのはこういうものなのかという、ちょっとした好奇心が満たされるような感覚すらあった。

　わかっていたことだが——過去の僕と今の僕とでは、まるで別人なのだろう。

　それに関しても、やはり思うところはなかったが。

　いや、これはそうでもないか。

　かすかに腹の底で、渦巻くような不快感を覚えていた。

　まるで別人なのに、それでも同一人物であるという矛盾。

　まるでこの家だけ、世界が違うかのような。

　もはや僕は『僕』ではないことを、この家だけがまだ知らないかのような。

　僕と『僕』との無限に近い距離を、無に近い距離を、嫌でも感じさせられた。

「はあ……」

　僕は独り言のように溜息をつく。

　もちろんこれは、今の僕が感じているものであって、過去の僕とはなんの関係もない感情だろう。

　であればこの陰鬱な気分が、ここにいても記憶が戻ることはないことの何よりの証明である。

　早く帰りたい。

　とにかく僕は、面白そうな本や貴重品があればもらっておこうと思い、適当に部屋の中を物色して次の部屋に進むことにした。

　といっても、自分の部屋以上のことが、他の部屋から得られるはずもないだろうが。

　記念に見ておくくらいにして、早く入江さんの車に戻ろう。とりあえずプライバシーの問題がないことがわかれば、今日中にできる作業も増えることだろうし——と。

　そう考えながら本棚を物色していると、見るからに教科書や小説とは違う、やけに薄く大きい本がまとまっている箇所に行き着いた。

　いや、引っ張りだすまでもなく、これは知っている。

　それでも手に取ってみると、案の定それは——楽譜だった。

「……ということは」

　僕は机にとなりにあった棚の上に雑多に積まれた資料類をどける(大学入試に関する物だった——そうか、そういう年齢だったのか)。

　そうして現れた布をめくると——これまた案の定、電子ピアノがあった。

　並んだ二つの棚の間に架けるように置かれていたから、棚板の一部と思って見落としていたようだ。

　意識してみると、譜面台のようなものまでついていた。むしろなぜ今まで気付かなかったのか……記憶がないと認識もずれるものである。

　僕は目を落とし、改めてピアノを眺める。

　まあ、ピアノはピアノだ。

　楽器は楽器ごとに同じデザインをしなくてはならないから、これも当たり前だが。

　なんとなく、鍵盤を押してみる。

　音は出ない。

　そうか、電子ピアノだから電源を入れなきゃいけないのか——布をさらにめくり、電源ボタンを探す。

　幸い、ご丁寧にも『POWER』と書かれたボタンがあったのでそれを押してからもう一度、鍵盤に触れる。

　ドの音がスピーカーから流れた。

　一オクターブ、音階を鳴らしてみる。

　右手で。

　左手で。

　和音を弾き、フレーズを弾き——。

「……なるほどね」

　どうやら音楽に関する記憶は、言葉や一般常識と同レベルで留めているらしい。

　体が覚えている、というやつか。

　僕はもう一度、楽譜を手に取り、今度は実際に開いてみる。

　パラパラとめくっていると、ときどきページの手応えが変わる箇所があった。恐らく、譜面台に抑えられていた時間が長いとこうなるのだろう。

　時間。

　僕の、時間か。

「ち」

　舌打ち。

　例の嫌な気分がよみがえった。

　しかしパッと見た限りだが、どうやらまだ楽譜も読めるようだ。

　せっかくだから弾いてみようか——と思う。

　正直いってできる気は全くしないが、しかし弾いてみれば体が思い出すこともあるだろう。

　それに人生で初めて触れたピアノをそのまま弾けたら、それはそれでなかなか面白いじゃないか。

　強くてニューゲームってやつだ。

　僕はちょっとわくわくしながら楽譜のページを遡り、できるだけ簡単そうで、かつページに手応えがある曲を選ぶ。

　タイトルは——なんだろう。辛うじてベートーベンという部分は読めるが……。

　とにかく、椅子をピアノの前に引っ張ってきて座り、両手を鍵盤に乗せた。

　腹の底の不快感はいつのまにか、そのまま僕を駆り立てる焦りのようなものに変わっていた。

　あるいは——高揚感か。

　早く弾け。

　僕は譜面も大して読まないままに、ぶっつけ本番で鍵盤を叩き始めた。

　結果から言うと、その曲は滞りなく弾けた。

　次の曲もその次の曲も、十全に演奏することができた。

　そんな訳で僕は、曲数にして六曲ほど、夢中でピアノを弾き続けていた。

　もし七曲目も弾くことができたらそのまま八曲目まで移っていたことだろうが、しかしビギナーズラックが続くのもそこまでだったのか、そこでどうしても弾けない箇所に突き当たってしまい、集中が途切れてしまったのだ。

　というか、むしろよくそこまで持ったものである。

　実は相当に弾き込んでいたりしたのだろうか。

　しかし、それにしても——なにをしているんだか。

　冷静になった頭で、少し後悔する。

　寄り道に想定外の時間を費やしてしまった。

　しかしそれでも——なんだか、悪くない気分だ。

　別にこれで記憶が戻るとかいったことはなかったが、しかしそれだけに、単に演奏することの楽しさがあったように思う。

　悪くない気分なこと自体は釈然としないが……まあ、過去の僕を目の敵にしても仕方あるまい。ここは素直に良い気分になっておこう。

　しかし実際問題、あまり入江さんを待たせておく訳にもいかない。

　とりあえずあとの部屋はざっと見るくらいにして、中間報告のようなものを持ち帰ることにしよう。

　僕はそう考えて、次はリビングを目指すことにする。

　両親の私室よりは僕に関するものも見つかりやすいだろうと、そういう計算だった。

　さてどの扉が正解か……と廊下に出ると、突き当りにガラスがスリット状に嵌め込まれたドアが見えた。

　まあ、まずこの部屋だろう——そう思って、僕は部屋に踏み入る。

　そこで、衝撃的な光景を目にすることになった。

　その部屋は案の定リビングだったが、そこにあった『僕に関するもの』は、あまりにも予想外のそれだった。

　リビングの中央のテーブル。

　そこに、ひとりの少女が座っていた。

　テーブルに座っていたというのはその前の席についていたという意味ではなく、文字通りテーブルに腰掛けていたのだ。

「おかえり——」

　少女は。

　彼女は、言った。

「おかえり、衛自くん。乙早女でーす」

3

　乙早女ではなかった。

　いや、一瞬見間違いそうになったが、なにも御宗寺姉妹ではないのだ。年齢や性別、体格が同じに見えたところで、真正面から見て間違えるなんてことはない。

　年齢や性別、体格が同じで——乙さんと同じ制服を着ていたところで。

「あれあれ、また忘れちゃった？おーい、早女ちゃんですよー。今朝会ったばっかりじゃん」

「………」

　僕は。

　僕は、ただただ絶句するばかりだった。

　その少女は初めて見る、艶やかなセミロングの黒髪を低い位置でひとつに結んだ、見知らぬ少女だったが——しかし。

　しかし、初対面ではなかった。

「ん。突っ込み待ちだったんだけどなぁ。ま、いっか。そうだよ、みなさんお待ちかね！天衣無法の予言者にして純血の七方位！死してなお美少女の栄冠に輝く少女、七方位盧裡（ななほういろり）ちゃんです！」

「死……」

　やはり——やはりあの、七方位家の幽霊。

　そして、あの夜の幽霊。

　ずいぶんと明るい時間に明るい幽霊が出たものだが、しかし彼女はあの夜を凌駕するほどの不穏さを、その身に纏っていた。

「んん？ひょっとしてダレン・シャンを読んでいらっしゃらない。ははあ、まあ若者の読書離れが叫ばれて久しいですからねえ。こんな本、小学生のころから陰気だった生粋の嫌な奴の、それでも辛うじてキレイだったころの思い出として語り継がれるのみなのでしょうか——」

「いや……」

　逆にダレン・シャンを読んでいたからこそ、辛うじてそこにだけは反応できたのだが。

　というか、今こいつダレン・シャンのことを悪く言ったか？

　いや、そんなことはどうでもいい。

　ダレン・シャンのことを悪く言ったかどうかなんてどうでもよくなるほど数々の不明を、目の前の少女は背負っている。

　本当に、彼女はいつだってありたっけの疑問符をばら撒いているかのようだった。

「な……なんでここに」

　無限に近い疑問のなかから、とりあえず5W1HのWのひとつを、僕は口に出した。

「聴きにきたんだよ」

「なにを」

「ピアノを」

　それを聞いて、僕ははっとした。

　いや、別になにかに納得した訳ではない。

　さすがにいくら演奏に熱中していたとしても、誰かが入ってきて気づかないなんてことは、最低でも人間としての感覚器官がある以上あり得ない。ならば彼女は、僕よりも先にこの家の中にいたということになる。仮に予知能力があったとしても、こんな予知は入江さんがいうSFやオカルトの領域になってしまう——その存在の謎をさらに深めこそすれ、なんの解決も与えはしない。

　だから僕が引っかかったのは、僕の演奏を聴いた誰かがいるという、その事実自体だった。

　有り体にいうならば——単純に、それが嬉しかったのだ。

「不思議だよね……。記憶がなくなっても、言葉選びとか手癖とか——演奏の感じとかは一緒なんだ」

　彼女も、嬉しそうに言った。

　僕は一瞬、本当に生き別れた親友と再会したかのような思いに囚われる。

　しかし、それも一瞬。

　そうだ。

　しかし、だ。

　落ち着いて考えてみれば、もっと聞くべきことが他にある。

　単に僕が幽霊と相対しているだけならば、それ自体はどうでもいいともいえるが——

「——制服」

「ん？」

　彼女——七方位さんはわざとらしく首をかしげる。

「その制服は、どうしたんだ？」

　あえて敬語は外す。これからの展開を考えれば、あまり下手には出たくなかった。

「どうって、なんのことかな？」

「とぼけるなよ」

　僕は一歩、七方位さんに歩み寄る。

　僕は一歩、七方位さんに詰め寄る。

「それは乙さんの制服だろう。ひとつ屋根の下で暮らしてるんだ——ちょっとしたほつれも、何気ない汚れも、見ればわかる。乙さんは今、その制服を着て学校に行っているはずなんだよ」

「えー、そんなこと言われてもなあ。あ、そうだ。わたしはたまたま乙さんと同じ高校に通ってるから、それで制服が同じなだけなんです。いやだなあ。誤解ですよ、言いがかりですよ。それじゃあまるで——」

　七方位さんは、わざとらしく言葉を切る。

　僕はもう一歩ぶん近づいた。

「わたしが乙さんになにかして、残った制服を拾ったみた——」

　彼女はまたも言葉を切る。

　しかし今度はわざとではない——僕が彼女に飛び掛かり、その襟を掴んで締め上げたからだ。

「……女の子にも容赦ないね。相変わらずさ」

　彼女はそれでも、まるで暴力など物理的にしか影響していないかのように、笑みを浮かべたままいう。

　僕はさらに強く襟を掴む。

　彼女が少しでも苦しむように。

　呼吸を妨害される苦しみではなく、暴力を振るわれる苦しみを苦しむように。

「無駄だよ」

　七方位さんが、少し掠れた声で言う。

　楽しげな口調が、より一層滑稽に響いた。

「わたしはなにかを思ったりはしないんだよ——いつだって、きみと違ってね」

　今は、彼女のいう言葉の意味が、僕にもわかる。

　嫌でも、わかってしまう。

　不快感が。

　澱のように胸の中を満たしてくのを感じていた。

　自分で与えている苦しみに同情するほど、僕は筋違いな人間ではないが、それでも。

　自分の痛みと、他人の痛み。

　その、無限に近い距離が。

　その、無に近い距離が。

　嫌でも、感じられる。

　ああ、だから彼女はきっと、はったりなんかではなく本当に、以前の僕を知っているのだろう。

　未来や過去だけでなく、僕自身についても、本当に正しいことを言う。

　僕は、容赦がない。

　同情なんて、これっぽちもしていなかった。

「質問に正直に答えてください。あなたには——聞きたいことが、いくつもある」

「……拷問しようってこと？」

「そうです」

　僕は自分を奮い立たせるために、さらに強く彼女を締めつける。

　それが間違っていることは承知だったが、それでも、そうしなければならない理由があった。

　そうするしかないなら、そうするしかない。

「乙さんに、なにをした」

「なにも」

　僕はまた腕に力を込める。

「いててててて。いや本当になんもしてないんだって。早女ちゃんなら一限で帰ってきて勘解（かげ）兄ちゃんと遊びに行ってるよ。これはあの子がいない間に拝借しただけ。本当に拾ってきただけなんだって——」

　僕は考える。

　本当だろうか？

「仮にそうだとしても、お前があの家に侵入できる道理はないな」

「侵入もしてないよう。だってわたし、ずっとあそこで暮らしてるんだよ？」

「——は？」

　今、なんて言った？

　一瞬、僕が想定外の答えに動揺している間に、彼女はずるんと落ちていった。

　いや、これは振りほどかれたのか。それも下方向に。

「げふっ、ぇえゔっ、うえぇ…。本当、ぎっちり絞めてくれちゃってさあ……」

　七方位さんが、僕の足元で膝をついたまま言う。

　僕はとっさに、なにも言えなかった。

　なにも出来なかった。

　先の発言の意味を、脳がまだ咀嚼できていない。

　知れば知るほどわからなくなるという陳腐なイディオムを、そのまま擬人化したモノと向き合っているような気分だった。

「ふふ、パニくってるねぇ。いやいや、ごめんって。いたずらが過ぎたよ。わざわざ拷問なんてしなくても、こっちにも聞いてほしいことがあるからさ——いくつもね」

　七方位さんは飄々と言う。

　いたずら——いたずらって。

「な、なんでそんな真似をするんだよ、僕は……、僕は」

「それだよ」

　彼女はまた、意味深に言う。

「敬語、外してくれたね。よかったよかった。そうやってちょっとずつ、きみを必要な分だけ、昔の通りにしておきたいんだ」

　なにを言っている。

　いったい、僕をどうするつもりなんだ？

「出来事には起こる順番があるからね。まずはわたしの私生活を公開しちゃおうかな——」

　七方位家さんは、茶化すような口調で言った。

「じゃあまず、『どうやって』ってところから答えよう。ハウダニットだね。まあとはいえ、私の視点からはどうやってもこうやってもない、脳の動かし方くらいわからない者なんだけどさ——私は私の人生のすべてを予知してるんだよ。生まれた瞬間から死ぬまでを、生まれた瞬間から死ぬまで知り続けている」

　天衣無法の予言者にして純血の七方位、ってことなんだよ——彼女は、そう見栄を切った。

　いや、見栄もへったくれもあったものか。

　もし、それが本当だとしたら。

　彼女の言葉も、仕草も、内心も、存在も——そのすべては、脚本をなぞっているだけの、茶番劇に過ぎないということになってしまうのだから。

　そんなのはもはや——オカルトか、SFの領域だ。

「そうだね、どっちかっていうとSFになるのかな。その辺は微妙だよ……まあ、わたしが生まれる前のことなんて、知ったこっちゃないけど」

　彼女は平然と言う。

　いや、それだけじゃない。

　どうやって、あの家の中で生活しているのか。

　その問いの直接の答えを言わないのは、それがすでに自明のことだからだろう。

　しかし、認めたくなかった。

　そんなおぞましい真相に、思い至りたくなかった。

　それでも——自ずと明かされると書いて、自明。

　動かし方のわからない僕の脳は、勝手にその答えを導き出す。

　人生のすべてが予め理解されているならば、それはさながらゲームのRTAのように、あらゆる瞬間で目的に対して最適な手段を行使することができるだろう。

　これ以上調整のしようのないほどの、空前絶後のチャートを組むことができる。

　あらゆる偶然が、彼女の前では必然に。

　あらゆる奇跡が、彼女の前では運命に。

　あらゆる事故が、彼女の前では事件に。

　あり得そうにない可能性でも、彼女が望むならばそれが真実となる。

　実現し、現実となるのだ。

　ならば。

　あの隙間の多い七方位家ならば、誰にも見つかることなく生活することも、きっと不可能ではないだろう。

　視界の隙間を縫い、音という音を忍ばせ、直感をかいくぐり。

　そんな針の穴を連続で通し続けるような離れ業も、それが可能なことならば可能なのだ。

　総毛立つような思いだった。

　僕があれだけ恐れた幽霊は、ずっと、ひとつ屋根の下で生活していたのだ。

　僕の背後を横切りながら。

　僕の盲点に潜みながら。

　限りなく近い距離にいながら——それでも決して、出会うことなく。

　そして、それだけではない。

　ここまで考えたなら、無視できないものが、無視してはいけないものがある。

　彼女は——七方位盧裡は、ずっとそうやって、人目を盗みながら暮らしていたのだ。

　死人として、他でもない僕たちの目を盗みながら。

　同情心がなくとも、考えずにはいられない。

　それはいったい、どのような生活だったのだろうか。

　本人に言わせれば、それは脳が動くのを止められないように、単なる前提に過ぎないのだろうが——それでも。

　それでも、僕の生活の裏にそういうものが存在したという事実そのものに、僕は衝撃を受けずにはいられなかった。

　そうか——乙さんのいう初期メンは、このことを知っていたのか。

　家に住み着く、幽霊の実在を。

　家に住み着く、少女の存在を。

　そりゃあタブーになるはずである。そんなことが公になってしまえば、あらゆる意味で、あの家は終わってしまう。

　主人の存在が明らかになれば、客はひとりだって残らないだろう。

　だったら、次に聞くべきことは——

「目的は、なんだ」

　そう、彼女の人生が完全に最適化されたものならば、いったいそれが何のために最適なのかという疑問が残る。

　つまり——

「「きみは——なんのために、生きているんだ？」」

　七方位さんが台詞を被せてきた。

　僕は歯を食いしばる。

　僕も所詮、茶番劇の一部でしかないことを、否応なく実感させられた。

「あはは。そうだね、良い質問だね。こんな壮大なワイダニットも中々ないよ。これに関しては簡単明瞭、誰もが即座に膝を打つような解決があるんだ——」

　彼女は例のごとくもったいぶる——すでに出ている結論を、それでも出し惜しみする。

　しかしその答えは、本当に簡単明瞭だった。

「きみのためだよ」

「——は？」

　誰もが即座に膝を打つような解決に、しかし僕はそうすることが出来なかった。

　観客失格である。

「いや、より正確にいうならきみが好きなわたしのため、ってことになるのかな。でもやっぱり、わたしの実感をそのまま言葉にするならきみのためってことだよ。動機としてはありふれたもんじゃない？恋愛なんてさ」

　またも、僕は絶句してしまう。

　本当、彼女と話していると自分がずいぶんと会話が下手な人間になったかのような気分にさせられる。

　いや、考えてみれば、最初からそう言っていた。

　きみはね——

　私と両思いになります

　文字通りの、運命の相手だ。

「まあ、きみにはわかんないかもね——精神年齢三ヶ月だもん。だけど自慢じゃないけど、わたしには生まれた瞬間からわかってたよ」

　七方位さんは言う。

「わたしはきみが好き。わたしはきみのために生まれてきた。わたしはきみのために生きる。わたしの命はきみのためにある。わたしの人生はきみのためにある。わたしの存在はきみのためにある。わたしのすべてはきみのためにある。わたしの心はきみのためにある。わたしの体はきみのためにある。わたしはきみのために死ぬ。わたしは——きみのことが大好きだって」

「ひ——」

　僕を見上げる彼女から、一歩後ずさる。

　これは、先に感じた曖昧な不快感なんかとは違う、純粋な——恐怖だった。

「あははははは。初めて会ったときもそんな反応だったね。懐かしいよ」

　七方位さんは笑った。

「つまりね、これまでのあらすじは、それはそれはよくあるボーイミーツガールな感じだったんだよ。ある日、家庭に深刻な不和を抱えた少年は、同じく家に居場所のない少女と出会います。少女はその全能の力で少年を吐気のするような日常から連れ出し、少年は徐々に笑顔を取り戻していきました。そして少女は少年に、同じように助けを求めるのです。わたしをこの日常から、この人生から解き放って欲しい。どうかわたしを殺してくださいってね——」

　わたしは、きみに殺されて死にたい。

　それが唯一のわたしのための願い——

「それで、僕は……」

「そう、殺せなかった。いや、結構惜しいところまでは行ってたんだよ。初めのうちはわざと生かしてたんだろうけど、途中からはきみも、本気でわたし殺そうとしてた——でも、きみはやることなすこと、本っ当に上手くいかない子だったからね」

　僕は、また嫌な予感がしていた。

　この話がこのまま進めば、また知りたくもないことを知ってしまうような——

「そこできみが言ったんだ。もし僕の無意識がきみを殺すことを拒んでいるなら、きみの力で僕のすべてを奪って欲しい。そんな奇跡を、そんな事故を、僕の身に与えてくれ……ってね」

「それも、きみの思惑通りってことか」

「違うよ。それは単に、そういう運命だったってだけ。わたしより思惑通りに行かない人間なんて——それこそ、きみくらいじゃない？」

　彼女はまた笑った。

「だからまあ、これはやっぱりきみのためでもあったんだよ。もう取り返しがつかないくらい、本当に滅茶苦茶な人生だったからね——詳しく知りたいなら、母親の部屋を見ればわかるんじゃない？」

　僕は黙って首を振る。

　過去の僕がそうまでして捨てた記憶である。わざわざパンドラの箱を開けようとは思わない。

　パンドラの箱——確か、そこには残されているのは、『希望』だったか。

　僕は、自分でも驚くほど冷静に、話の先を想像できた。

「そして首尾よく、それは成功した。僕はこうして記憶を失い、きみの前に立っている」

「そうだね。七方位家に招待したのは、まあアフターケアでもあるかな。蟻江ちゃんにあることないこと色々と吹き込んで、ね」

　なるほど。入江さんが彼女の正体を知る立場だったなら、その言葉を無視することはできないだろう。

　だったら僕が未来予知に目覚めるという話も、ないことの方に分類されるはずだ。

　つまり今この瞬間、僕は七方位家である権利を喪失した。

　もう、その必要がないからだろう。

「でも本命は、ここでこうやって殺してもらうことだよ。本当は、なにも知らせないままでただ殺してもらった方が良かったんだろうけどさ。その辺はまあ……心の問題だよ」

　恋心の問題なんだよ——彼女は言う。

「伏線を張って、誘導して。きみがまた、昔の通りに、わたしを殺したいって思うようにしておきたかったの。……なんでそんな真似を、なんて、ロマンもロマンスもわかってない質問はしないよね？」

「もちろん、そんな野暮なことはしないさ」

　僕は肩をすくめる。

　する気満々だったが、発言した時点ではそんなつもりはなくなっていたのだから、噓にはならない。

　しかし、ずいぶんと身構えたものだったが、ことの真相を——事故ならぬ事件の真相を聞いた僕は、自分でも驚くほど平静そのものだった。

　それは肩透かしという訳ではなく、むしろ地に足がついたような、安堵すら覚えるような平静だった。

　過去の僕と、七方位さんとの共犯。

　彼女にはずっと、それこそ生まれた瞬間から、こうなることがわかっていたのだろう。

　つまり彼女の中では、過去の僕も今の僕も未来の僕も、すべて僕であることに変わりはないのだ。

　僕が生きてきた証のすべてが、彼女の中に残っている。

　記憶を失ったとしても、僕が僕であることを、僕が僕であり続けていることを、彼女のすべてが証明してくれている。

　そのことが、この三ヶ月間、どこか宙に浮いたままだった僕を、初めて繋ぎ止めてくれた。

　過去の僕と今の僕とを、繋いでくれた。

　彼女の中で——僕はまだ、壊れていない。

　そのすべては、僕のため。

　なんて、思い上がるつもりはないが、しかしなればこそ、その恩に報いなくてはならないだろう。

　ごく自然に、そう思った。

　僕は、ちょうど偶然、カウンターに置いてあった包丁を手に取る。

　七方位さんは、ようやく立ち上がった。

　その笑みは、どこか満足気に見えた。

　僕は無言のまま、彼女の頸部に包丁をあてがう。

「——まあ、そのためにわざわざ記憶喪失になってもらったころ申し訳ないんだけどさ、最期なんだから、こんなあっさり締めちゃったらつまんなくない？」

「恋心ってやつかい？」

「そうだね。ロマンで、ロマンスで——ドラマツルギ―、ってやつかな」

「なるほど、そりゃあいい。それで、目的はなんだ」

　彼女は、笑みを消して、楽しげな口調を潜めて、言った。

「盧裡って呼んで」

　昔みたいに。

　それはずいぶんと——お安い御用だった。

　僕は、包丁を握る手に力を込め、ついに出会うことはなかった彼女に、別れを告げる。

「さようなら——」

　直後、彼女の血が包丁を、そして僕の指を伝い——

　ガアァンと、爆音が僕の鼓膜を襲った。

　いや、爆音に聞こえるのはそれが僕のこめかみに炸裂したからであって、つまり——

「え………」

　僕はなにもわからないまま、横向きに床に倒れる。

　受け身をとることはおろか、立ち上がろうとすることもできなかった。

　視界がぐるぐると回る。

　これは——脳震盪か。

　二重に混乱する僕の頭の上から、七方位さんの声が聞こえる。

「あーあ。また駄目かあ……」

　そして、それに答えたのは、予想外の人間だった。

「当たり前だろ。俺がこんな近くいたってのに、よく刃傷沙汰なんざ起こそうと思ったな——」

　姿は見えないが、その声は聞き間違いようもない——入江さんのそれだった。

「事故じゃなくて事件だってんなら——ここで探偵が駆けつけないはずがねえだろうが」

　沈みゆく意識の中で、ああそうか、ひょっとして僕が上手くいかないのって、真犯人だからなのか……というよくわからない納得をした。

　溶暗（フェイドアウト）——

4

「目が覚めたか、五味容疑者」

「ん……」

　気がつくと僕は、リビングの椅子に座らされ、入江さんと向き合っていた。

　脇には、銃のような形の不思議な筒がある——非殺傷銃のような代物なのだろうか。

「あの、七方位さんは——」

「齲歯（うし）崎と勘解と御宗寺姉妹が家（うち）まで連行してる。事情知ってるヤツ総出だ……まったく、とんでもないことしやがる。まさか——お前みたいなのが居たとはな」

　口ぶりからすると、どうやら僕と彼女との関係は秘密にされていたらしい。

　事情知ってるヤツ。

　乙さんのいうところの初期メン。

「……はあ」

「まあ、色々と思うところはあると思うが、俺らも俺らで、盧裡とは因縁があるんだよ。とにかく、その辺の説明は後でするとして——五味衛自。お前を殺人未遂で現行犯逮捕する」

「えっ、今そういう感じなんですか？」

　夢を見ていたら冷水で叩き起こされたような気分だった。

　ついさっきまであんなにドラマティックな感じだったのに、こんな興醒めなどんでん返しがあっていいのか？

「今も昔もこういう感じだよ。少年少女のアナーキーがエンタメな時代じゃあないんだ。そもそもお前ら18歳だろうが。大人になりやがれ」

「ええ……でも精神年齢は三ヶ月ですよ」

「今から責任能力のなさをアピールするなよ。それが問題になるのはお前が本当に逮捕されたらの話だ」

　ん？

　本当に逮捕されたら？

「そう。つまり俺との取引に応じるなら、このことは見なかったことにしてやろう、という話だ」

「……探偵が犯罪者と癒着していいんですか？」

「必ずしも法律を遵守しなくてもいいのが探偵の強みだぜ」

　いや、そんなことはないと思うが……。なんにせよ、これに乗らない手はない。

「わかりました。それで、取引というのは？僕にできることならなんでもしましょう」

「おいおい、条件を聞かない先から契約なんざカモのすることだぜ——おっと、こんなんだから早女に詐欺師とか言われるのか」

　続く入江さんの言葉に、僕は耳を疑った。

「だが、ある意味では簡単なことだ。お前はこのまま、七方位家にいろ」

「……え？」

　どうやら、今日はピアノを弾いて話を聞いてびっくりする日のようだった。

　いや、そんな冗談はさておいても、やはりそれは不可解な要求だった。

　それで、いったい誰が得をするんだ？

「俺だ。いや、正確には盧裡だな」

　入江さんは言った。

「七方位家を俺は『未来予知者を集めたシェアハウス』と形容したが、重ねて言うようにそれは正確ではない——まずシェアハウスじゃないし、そもそも未来予知者である必要もないんだ」

　また訳のわからない話が始まった。

　もしワトソン君くらい聞き上手だったなら上手いリアクションもできたのだろうが、精神年齢三ヶ月の僕は、ただ微妙な表情を浮かべて困惑するばかりだった。

「つまり、未来予知者が集まっているのはあくまで手段としてであって、それが目的な訳ではない、ということだ」

　そもそもなんでこんな頓智気な家ができたのか。

　乙さんにも訊ねた疑問だ。

　しかし——それが目的ではない？

「俺たちが集められたのは、ひとえに盧裡の退屈を紛らわせるためなんだよ。一生を一生かけて反芻するしかないあいつのために、両親が津々浦々から未来予知者と目される人間を集めた——少しでも、あいつと同じ景色が見れる人間を求めてのことだろうな。その中に、当時駆け出しの探偵だった俺がいた、という訳だ。」

　退屈を紛らわせるため。

　それはともすれば酷い理由にも聞こえかねないが、しかし、僕には共感できるところがあった。

　そうだ、僕は事実、この二週間の生活を——楽しんでいたじゃないか。

「だから、お前はこの家にいる資格を十二分に持っている。未来からもっとも遠いお前は——もっとも、あいつを楽しませることができるだろう」

　それだけいうと、入江さんは立ち上がった。

「え、ちょっと。入江さん？」

「どうした」

「どうした、って……」

　いや、話の途中でいきなりどこへ行こうというのだ。

「おいおい、なんでもするって言ったのをもう忘れたのか？俺が説明を終えた段階で話は終わりだ。今日のところはもう帰るぞ」

　入江さんは本当にあっさり、それだけを言った。

「どうだ。この家にはなにかあったか？」

　まるで普通に今日の予定を終えたかのように聞いてくる入江さんに、僕はやはり、当然のように答える。

「いえ、ありませんでしたよ。なにも」

　こうして僕らは、幽霊の住む家に帰っていく。