𝒇𝒇𝒇 - Forgotten For Fate -

第二楽章

1

　一週間という日数が、果たして天涯孤独となった少年の処遇を手続きするのにどれほど早かったのか、あるいは遅かったのか、僕にはわからない。

　わからないがとにかく、僕は一週間後、入江さんの運転する車に揺られながらシェアハウス——七方位家に向かっていた。

　大人達が取り決めたあれこれに関知できないままで事が進んで行くというのは、僕の人生の中ではもはや大気のようにありふれた状況だから特に思うところはないが、とにかくこれからは週に三度の通院以外は七方位家の住人として生活することに決まったらしい。

　いや、こう言っては無責任か。

　例えその全容を掌握していなかったところで、最初の歯車を回したのは僕なのだから。

　責任は拳銃ではなく引き金を引いた人間にある、みたいな話だ。

　しかし——。

「……なんだ？」

「はい？」

　唐突に運転席の入江さんが声をかけてきた。

「まだ質問があるなら今のうちにしておけ——時間はもうないからな」

　時間がない。

　というのは、七方位家につくまでの時間か。

　実際に行動してみて初めて気がついたのだが、物事というものは起こり始めてから起こり終わるまで、案外時間がかかる。

　例えば僕が自分の意思を表明してからのこの一週間もそうだし、もっというならこうして移動している時間だってそうだ。

　小説の文字を追うようにスムーズには進んでいかない。

　もちろんそれ自体には良いも悪いもないけれど。そのロスタイムの間に七方位家の事情に関するあらかたの説明を受けることができたし、僕にだって心の準備というものがあった。

　そして、その時間は今まさに尽きようとしている。

　確かに、多少運転の邪魔になっても、聞きたいことは聞いておくべきか。

「別に、もう大した疑問は残ってないんですけど…」

　僕は一瞬、言葉に迷う。

　決定と実行の間のロスタイムも尽きつつある今、その決定の前提に疑義を唱えるような真似をしてもいいものなのだろうか…。

「疑う訳じゃないんですけど、未来予知って、ある日突然身についたりするものなんですか？」

　直接そう説明された訳ではないが、それはどうも先天的な才能か障害と呼ばれるべきもののような印象だった。

　それは例えば、視力や聴力のように。

　案の定、「あり得ないな。少なくとも普通はない」と入江さんは答えた。

「前も話したが、そもそも未来予知なんていっても、水晶玉にお経唱えてどうこうみたいなやつじゃあない——少なくとも俺の知る限りでは見たことがない。言ってみればただ極端に勘が冴えるだけで、人間感覚の延長線上だ。オカルトでもSFでもない」

　入江さんの話を聞きながら、ふいに思う。

　未来予知は人間感覚の延長線上で、オカルトでもSFでもない。

　なら、探偵というのは未来予知者の天職ではないだろうか。

　ミステリーだったら勘で推理するのはアンフェアなのかもしれないが、刑事コロンボなんてのが流行ったくらいである。まして現実なら、それは最強と言ってもいい程の強みになることだろう。

「——しかし、お前は特例だ。何せこれまでの人生の記憶をすべて失っている——この件に限らず、お前の前じゃ傾向やら一般やらは形無しだろうよ。一体どんな認知で生きているのか、俺には想像もつかない。未来予知が人間感覚の延長線上なら、異常極まる状態にあるお前の認知にそれが現れることもあり得ると、俺は思っている」

「……じゃあ、もう一ついいですか」

「なんだ」

「さっきのも、未来予知ですか？」

「……」

　入江さんが言葉を切り、溜息をつく。

「その質問は予想外だったがな…その通りだよ」

　さっきというのは、もちろん入江さんが僕に質問を催促してきたときのことだ。

　つまり、彼は僕がする質問を予知したうえで、回答するのに十分な時間を確保するために、僕を急かしたのではないかと思ったのだ。

「読心術みたいなこともできるんですね」

「起こっていることは似たようなもんだが、あくまで似てるだけだぜ。そこのところをはっきりさせておこうか。俺は起こるべきことが起こるタイミングを早めただけであって——つまりお前に言うつもりがなければ、俺が聞くこともなかった。読心術との違いはそこだ」

　ロスタイムだ。

　僕は思う。

　心に決めてから、実際に行動するまでの落差。

　それを先回りすることができるということなのだろう。

「しかし、それでも一対一の会話の内容が見えないなんてことは滅多にないんだがな……。そういう意味でも、お前はイレギュラーだと思うよ」

「なるほど、だから後天的に未来予知が身についても——って、あれ。それって入江さんが予知したんじゃないんですか？」

　『だと思う』なんて、ずいぶんと曖昧な物言いだった。

「いや、違う。俺は予知したやつから聞いただけだ」

　じゃあ、いったい誰が。

　そう思ったところで、車は道路を脇に逸れ、一本道に入る。　

　正面に向き直ると、突き当りに駐車場と一軒家が目に入った。

　時間切れだ。　

　僕は入江さんが七方位家について語ったことを思い出す。

「さて、この家は一体全体なにから語ればいいのか、仮にも家主である俺をして、何度繰り返しても困惑せざるを得ないほどに珍妙な家な訳だが——俺は毎度、住人に関する説明から始めている。今回もそうすることにしよう。

「今現在、七方位家と呼んだときにそこに含まれる人間は16人いる。

「そして実際に七方位家の表札がかかった家で暮らしているのは、俺を含めて２人だ。

「この事実ひとつで、いわゆる一般的な家庭というものの形を成していないということがわかるだろう。

「というか、その形を成さないというのが、この七方位家唯一の確かな特徴だとさえ言える。

「シェアハウスという形容が不正確なのはそういうことだ。もっと正確に——あるいは不正確にいうなら、七方位家は宿のようなものになるな。

「未来予知者が泊る宿。

「一時期は本当に、ちょっとした民宿のような形だった——そのもの七方位姓の家主が、まだ存命だったころだ。その当時、客だった俺が、今ではその管理を引き継いでいる。

「まあとはいえ、やってることは今も昔も変わらない。来たいやつが来たいときにきて、帰りたい時に帰る。これだけだ。件の16人の中には毎日のように訪ねてくるやつもいれば、一度しか来たことない人間までいる。

「金は取らない。見返りは求めない。条件（ルール）はたったふたつ。

「未来予知者であること。

「そして七方位家になることだ。

「だから、お前が覚えておくべきことも究極、このふたつだけになるな。

「つまり、だ。どこぞの昔のアニメよろしく、ここはあんたの家なんだからどうこうみたいな話にはまずならないということだ。

「説明らしい説明はこの程度しかできない——いや、しようと思えばできるが意味がない。

「その内容はすべて、常に克服され、撤回され、破棄され、なかったことにされるのを待っいているに過ぎないからだ。

「だからお前も聞きたいこと以外は聞かなくていい。見たところ、レシピがなくても料理ができるタイプなようだしな。

「そんな人間が、七方位家には相応しい。

「俺たちは常に、邪魔されることを待っている——。

「——着いたぞ」

　駐車場に車を停め、僕らは玄関の前に立つ。

　本当に『七方位』という、冗談のような名前の表札がかかっていた。

「………」

「……まあ、もったいぶったところでなにかが変わるようなもんでもないしな」

　そう言って、入江さんはドアを開き、玄関に踏み込んで、

「ようこそ」

　と、本当に簡潔に、それだけを言った。

　そうだ、すでにここまで、もったいつけすぎなくらいに躊躇してきた。

　僕も倣って、せめてシンプルに行かせてもらおう。

「はい。お邪魔します」

「いらっしゃい」

2

「う——わあっ！？」

　僕は咄嗟に飛びのいてしまう。

　しかしまあ、どう考えても冴えた行動ではなかっただろう。

　なにせ真後ろから何者かに囁かれたのだ。咄嗟というなら振り返るのが正しい反応だし、ましてその何者かの方向に飛びのいたんじゃあ、もうなにから逃げているのかわからない。

「うおっ、ちょ、ちょい。ちょいちょいっ」

　後ろから間の抜けた声が聞こえる。

　一拍遅れて振り向くと、そこにはセーラー服に身を包んだ少女がいた。

「びっくりしたなあ。そんな驚くとは思ってなかったよ」

　驚かせる気はあったけどさ。と、低い声でいう彼女。

　無造作に伸ばされた髪に野暮な印象を放つ制服。ぼそぼそとした話し声がいかにも陰気そうな雰囲気を纏っていたが、不思議と彼女からは不安や警戒心のような自信のなさよりも、むしろふてぶてしさの方を強く感じさせられた。

　そう、それこそ入江さんに近いなにかを感じるような——。

「衛自くんだね。噂はかねがね——改めまして、ようこそ七方位家へ」

「えっと、どうも初めまして。こちらこそ——」

　噂はかねがね、というのは恐らくこちらも同じだが、しかしどうだろう。実は人違いだったりしないかと思うと、迂闊なことは言えなかった。

　少し逡巡していると、「……学校はどうしたんだ、早女（さな）」と入江さんが口を挟んだ。

　やはりか。

　乙（きのと）早女——現在七方位家で生活している、もう1人の人間。

　たしか、ひとつ年下の17歳ということだったが。

「えー、見てわかりませんか。今まさに学校から帰ってきたところなんですよ。それともなんですか。学校に行ったら帰ってきてはいけませんか」

「午後の授業はどうしたんだと聞いているんだ」

「予知しました」

「受講しろ」

「いやですよ。大丈夫です、ちゃんと出席はしてきました。留年のデッドラインへ向かう速度はちゃんと抑えられてますよ」

「そもそもデッドラインへ向かうなよ。お前、もし留年するようならマジで働いてもらうからな」

「うえー。それもいやですって。入江さんが詐欺師の仕事を増やせばいいじゃないですか」

「詐欺師じゃない。探偵だ」

「似たようなもんじゃないですか。ほらほら、衛自くんが置いてかれちゃってますよ。私への説教なら未来でお願いします。それじゃっ」

　そう言って、乙さんは僕らの間を縫うようにして玄関に飛び込んだ。

「はーあ」

　入江さんが大きく溜息をつく。

「随分と出鼻をくじかれたもんだがまあ…入れよ」

「ええ、はい…」

　なんとも、こう、カジュアルな感じシーンにされてしまったな……などと心の中でぼやきながら、僕は七方位家の敷居をまたぐ。

　しかし家に入るというのは、カジュアルな感じでは誤魔化せないほどに新鮮な気分だった。

　あまりきょろきょろするのも良くないかもしれないが、どうしても視線が泳いでしまう。

「おい、早女。せっかく帰ってきたんならこいつに家ん中案内しとけ」

　入江さんが玄関脇の階段から二階に向かって叫んだ。

「え～。今着替えてるんですけど」

　二階から、相変わらず覇気のない声が返ってくる。

「着替えてからでいい。衛自は階段で待たせておく」

「あとシャワーも浴びた～い」

「俺に言われなきゃ風呂にも入んねえやつがなに言ってんだ。とにかく、ここはお前に預けるからな」

　は～い、という返事を待たずに、入江さんは僕に向き直る。

「とにかく、これからここで生活するんだ。顔合わせくらいはしておくといい。少し遅いが、その間に昼食を作っておく」

　そういうと、さっさと廊下の奥へと消えてしまった。

「あ、はい。わかりました…」

　聞こえているかはわからないが、僕は呟くように言う。

　しかし参った。

　改めて考えると、ほぼ同い年の見ず知らずの女の子と同棲というのは、結構マズいんじゃないか？

　なんだか、最近こんなことばっかりだな…。

　起こってから気付いたり、改めて考えたり。

　意識や認識に問題がなくとも、経験がなければ然るべきときに然るべきことを考えられない。

　入江さんはああ言っていたが、僕ほど未来から遠い人間もいないだろうというのが正直な感想だった。

　そんな僕の思考は、ぱたぱたと階段を降りてくる足音で打ち切られる。

　然るべきときに然るべきことを考えられなくとも、今考えるべきことはあるのだ。

　とにかく僕は、きたる乙さんとの顔合わせをつつがなく終えることに集中することにした。

「いやーお待たせお待たせ。あれ、入江さんは？」

　乙さんは長いパーカーに暖かそうなズボンという、いかにも秋めいた格好をしていた。

「入江さんなら、昼食を作ると言って——」

　言って、どこに行ったんだ？

　リビングか、キッチンか、台所か…。

　いや、キッチンと台所は一緒か。リビングとキッチンってくっついてたっけ。同じだった気も別だった気もする——くそっ、なんで記憶喪失なのに思い出せないことがあるんだ。

　そんな具合に苦悩する僕だったが、乙さんも乙さんで頭を抱えていた。

　俯くと髪がカーテンのように垂れ下がって、なかなか悲愴感を醸す絵面になっている。

「…ねえ、衛自くん。一応、念のために聞いておきたいんだけどさ。入江さん、なに作るかとか言ってた？」

「いえ、僕は聞いてませんが…」

　なんだろう。なにか嫌いな料理でもあるのだろうか。

「いや…うん。大丈夫。それより案内だったよね？そんなに広い家でもないから、ゆっくり行こうか」

「はい…」

　なにやらひとしきり悩んで、落ち着いたようだった。落ち着いたというか、元々ちょっとふわふわした感じだったから落ち込んだ後の方が地に足がついているようにさえ見える。

「あとタメ口でいいよ？…って、年下が言うのもあれだけど。せっかく年近いんだしさ、仲良くしようよ」

「そう、だね。それもそうだ。じゃあ、そうさせてもらおうかな」

　まあ僕の体感としては生後三ヶ月なのだけれど、それを言っても始まらない——というか、それを言ったらお終いだろう。

　体感がどうあれ、僕は18歳なのだから。

　敬語を外すのは人生で始めてだったが(というか、"外す"というのも違和感を覚える言い回しだった。言葉の綾というやつか)、まあ、伊達に延々と読書してきた訳ではない。きっとうまくやれるだろう。

　とりあえず二階の奥から降りて行って、最後にリビングに着く形にしようということで、僕は乙さんに付いて階段を上る。

　年齢差はともかく身長差はそれなりにあるので、数段上を歩く乙さんとちょうど頭の位置が合う形になった。

「あ、トイレは階段の脇にあるから。二階にもシャワーはあるけど、湯船は一階にしかないからお風呂はそっちで——」

　といった具合に、広さに対して住人の少ないシェアハウスの内装を紹介してもらう。

　僕は普通の家にも入ったことがないはずだが、なんだか家が拡張されているみたいで不思議な感覚だった。

　これがゲームだったら、けっこうなマップ数になることだろう。

　いや、だからゲームもやったことがないのだけれど…。

　我ながら、返す返すも不思議な記憶力だ。

「——二階の空き部屋掃除は私が担当なんだけど、せっかくだから衛自くんにもやってもらおうかな。てか掃除ってしたことある？」

「少なくとも記憶を失くしてからはないね」

「本当に全くないの？」

「僕にできることは食事と睡眠と読書だけだぜ」

「うえー。じゃあ教えなきゃじゃん」

　心底面倒そうにぼやく乙さんだったが、責められている気もしなければ責める気にもならないのが不思議だった。

　これも単に、僕が鈍いだけなのかもしれないけれど。

「まあいいや。それでここが私の部屋。きみの部屋は決まってないけど、まあ間取りも広さも一緒だから、隣とか向かいとかになると思うよ」

　そういって乙さんはドアを開け、部屋に入った。

　うん？

　僕が呆気にとられているうちに、ドアが閉まってしまう。

「ちょいちょい、何してんの。入ってよ」

「え、いやでも、いいんですか？」

「なにが」

「なにがって…」

　そりゃあ初対面の他人の私室に入るなんて、それこそ医療行為でしか許されないようなプライバシーの侵害に当たらないか？

「いいのいいの。案内するところなんて大してないんだし、顔合わせしとけっていうならここでするしかないでしょ」

「あ、あの…」

「いーいーの。ほらほら」

　結局、手を引かれて乙さんの部屋に連れ込まれてしまった。

　おっかなびっくりの気分で部屋を見回すが、中はなんというか——普通の部屋だった。

　もちろん僕は他人の部屋に入ったことなどないから、よほど異常な部屋でもない限り普通の部屋と呼ぶしかないのだが。

　そもそも他人の部屋について仔細に語れるほど、人に部屋について知っている人間なんているのだろうか。

　いや、そんなことはさておくとして、本当にこれといって描写するべきものがまるでない部屋だった。

　勉強机があり、プラスチック製の椅子があり、ベッドと枕があり、本棚と本があり——。

　ところどころパステルカラーなのが女の子っぽいなあと思わされるが、それくらいだ。

　こういってしまってはなんだが、ここで暮らせるのなら、僕の生活していた病室でも大差なく過ごせてしまうだろう。

　いや、それとも案外こんなものなのか？

　期待とも不安ともつかない気分で退院後の生活を想っていたものだが、それは単に僕の記憶とその欠落が見せるファンタジーで、実際に生きていく現実というものは、『案外こんなもの』なのかもしれない。

　これも考えてみれば当たり前だ。

　生活の中でいちいち予想外の事故に見舞われていたら満足に生きていくことなどできないし、ましてここは家なのだから。

　事故も事件も、なくて当然。

　当然で当然なのだ。

「さ、座って座って」

　肩透かしのような気分のままに、僕は乙さんと並んでベッドに座る。

「…で？」

「…え？」

「いや、あるでしょ。聞きたいこととか、色々さ。いいよ、答えてあげる」

「それは……」

　あった。

　しかし、入江さんは読心術とは別物と言ってはいたが、やはり見透かされているような気分は否めないな…。

　とはいえ、それでもするべき質問があることに変わりはない。

　それも、聞くならこのタイミングしかないような質問が。

「なんていうか、そもそもなんでこんな頓智気な家ができたんだろうって思ってね。七方位さん本人は亡くなってるって聞いてるけどさ、その人はなんで未来予知能力者を集めようなんて思ったんだろう」

　入江さんには警戒が、それが解けても遠慮があって聞けなかったが、一応僕らは養われる立場という意味では同じである。かなり踏み込んだ質問だとは自覚しているが、それでも、彼女にしか聞けないことだった。

　彼女と、こうして2人きりのときにしか聞けないことだ。

　しかし乙さんの回答はにべもなく、「知らないよ、私も」の一言だった。

　…まあ、立場が同じということは当然、こういうこともあるだろう。

「ていうか、多分入江さんしか知らないんじゃない？七方位家の初期メンというか…七方位磁日（じじつ）さんだっけ？がまだ現役だったころからのお客さんが5人いるらしいから、その人達も知ってるかもしれないけど…」

「…ずいぶん曖昧だね」

「仕方ないでしょー。私がここに来たときはもう入江さんがオーナーだったんだから」

　ああ、一応本人はあくまで客のひとりだって言い張ってるけどね——そう付け加える乙さんの言葉で、僕は今さらのように、ある事実に気がつく。

　そうだ、立場が同じというなら、彼女には僕と同様、ここ以外に帰る場所がないのだ。

　もちろん、勝手にそんな状況に陥るはずがない。

　つまり、なにかの事故が。

　あるいは、なにかの事件が。

　彼女の身に、彼女の過去に、存在するのだろう。

　僕にはある意味そんなものはないともいえるが、しかし彼女には確固としてそれが存在する。

　そう思うとかえって、このふてぶてしい少女が、にわかに儚げに思えてきた。

「——ああ、でも。もう一人、知ってそうな人はいるかな」

「あれ。でもその初期メン以外は、その磁日さんが亡くなった後に…入居？してきたんじゃないの？」

　そうか、"七方位家に加わる"ということを表現する語彙って存在しないのか……。

　入江さんが説明に困る訳だ。

「いや、そうなんだけどさ。なんでも、磁日さんと奥さんの九熊（くぐま）さんには娘がいたとかで。その子なら知ってるんじゃない？」

「へえ、なるほど。…って、その子はここで暮らしてる訳じゃないの？」

　細かい時系列はよくわからないからその娘さんがすでに一人立ちしている可能性もあるにはあるが、しかしだとしたら、この家を入江さんが所有するようなことにはならないのではないだろうか。

　であれば、やはりその子は、少なくとも『その子』と呼んで差し支えないような年齢のはずである。

「んー、というか、なんだろう。そもそも"暮らす"っていうことをしてないというか…」

「また煮えない表現だね」

「まあつまり、その子は両親と一緒に亡くなっちゃってるんだけど」

「ああ、なるほど…」

　そういう話なら、煮えなくて当然か。野暮なことを言ってしまったものだ——

「いや、違くて…違くわないんだけど……」

「…そうなんだ？」

　なんだか、いよいよ曖々然とした口調になる乙さんだった。

　結局どういうことなんだ？

「んー、だからさ。……衛自くんって、まだ予知能力を持ってる訳じゃないんだよね」

「え？ああ。そうなるね。入江さんから説明はされてると思うけど、大体そういうことだよ」

「じゃあ言っちゃってもいいのかな……。もうひとつ。衛自くんさ、幽霊って信じる？」

　乙さんは、やけに真剣そうな表情で僕を見つめた。

　幽霊。

　予知能力がそうではないという、オカルトの領域の存在。

「つまり、七方位家の人間にはその女の子の幽霊が出るって話。真夜中に目を覚ますと部屋の中にいて、あれこれ予言して去っていくんだって。本当かどうかはわからないんだけど——例の"初期メン"の人達は、なぜかこの話を全力で七方位家のタブーにしてる。だから私がこの話したの、絶対に誰にも言わないでね。秘密だから」

3

　その後の話はまるで耳に入らなかった。

　耳が節穴になってしまったかのようだ。

　いや、耳には眼球に当たる器官がないのだから、別に節穴でいいのかもしれないが。

　とにかく僕の頭は、完全にあの夜に引き戻されてしまっていた。

　未来予知者だけに現れる少女の幽霊？

　馬鹿馬鹿しい——と言うことは簡単だが、そう思うことは難しかった。

　なにせ、それは実際に僕が遭遇した事象、まさにそのものだったのだから。

　信じることは不可能だが、信じないことは難しい。

　論理的にあり得ない可能性をすべて排除して導き出された結論ならば、どんなに信じ難くともそれが真実である。

　だとしたら、信じ難いという理由で可能性を排除してしまうことは、僕にはできなかった。

　きっと、なにかタネがあるはずなのだ。

　七方位家のタブー。

　そして、僕の『秘密』。

　幽霊譚に交差するこの2つの隠蔽（シークレット）は、決して無関係ではないはずだ。

　僕は唇をかむ。

　確実に、あの謎めいた邂逅の真相にせまりつつあるという実感が存在する。

　そしてその実感ははっきりと、僕にとって恐怖の形をしていた。

　また、あの夜のような戦慄が、僕の中に湧き上がっていた。

　この感覚も、真相に出会ってしまえば、『こんなものか』で済んでしまうものなのだろうか——

「——とうちゃーく。こちらがリビングになりまあす」

　乙さんに連れられ、僕はこの家をざっと一周した形になった。

　まあ、話の後半はほとんど適当に聞き流してしまっていたが、どうせこれから生活する家である。嫌でも色々なことを覚えざるをえなくなるだろう。

　リビングでは、入江さんが食事の皿を並べている最中だった。

　大人数で使えるようになっているのだろう、広いリビングに広い机だ。

「お、やっと戻ってきたか。ずいぶんと遅かったな。準備を手伝わせるつもりだったんだが……」

「へーそうだったんですか。じゃあもうちょっと急げばよかったね、衛自くん」

「……まあ、そうかもしれないね」

　僕は肩をすくめる。

　ひょっとするまでもなく、僕をだしにして仕事をサボっていたのだろう——本当に清々しいほどふてぶてしいキャラだ。

「とにかく、昼食にしよう。なに、遠慮することはない。どうせお前にも作ってもらうことになるからな」

「そうですね。料理もゼロから覚えなきゃいけませんが…」

「はいはい、それも私が教えますよー」

　なんて、ほのぼのとしたやり取りをしながら、僕ら席につく。

　料理はカレーだった。

　カレー！

乙さんが「勘違いしないでね。別に大した料理じゃないんだから。不味かったら食べなくていいから」とツンデレじみた注釈を入れてくれたが、正直そんなことはどうでもよかった。

　なにせあのカレーである。実際のところがどうだろうと、入院生活で調教された報酬系が無条件で反応してしまう。

「えっと、じゃあ、いただきます」

　さっそく僕は一口目を口に入れ——硬直する。

　まるで脳に電流でも流れたかのような——いや、実際に味覚は電気信号として脳に伝達されているはずだが——とにかく、そんな気分だった。

　可能な限り伝わりやすいように形容するなら、そのカレーは……不味い塩の味がした。

　なんだ、不味い塩って。

　塩といったら"塩辛い"なんて種類の味があるくらいに最小単位の味しかしないはずだが、しかしその最小単位を覆さんばかりの、さながら核分裂のような味だった。

　いや、だからなんなんだ、核分裂のような味って。

　ひょっとして、これまでの人生で病院食しか口にしたことのない僕の舌は実は完全にいかれてしまっていたのか——と思って脇を見遣ると、入江さんが平然と食べ進めているのに対して、乙さんはめちゃくちゃにむせていた。

「……あの」

「なにかな」

　隣の乙さんが待ってましたとばかりに僕の言葉に反応する。

「これは……なんですか」

　僕は、可能な限り言葉を選んでそう言った。

　なるだけ遠慮した言い回しのつもりだったが、しかしこれほどまでに僕の聞きたいことを端的に表した質問もないようにも思える。

　なんだ、これ。

　僕の言葉を聞いた乙さんが、鬼の首を取ったような顔で入江さんに向き直る。

「ほら！ほら入江さん！衛自くんも不味いって言ってます！」

「まだ言ってねえだろ」

「じゃあこれから言うんですよ！」

「おいおい、言わない先からどうしてそんなことがわかるんだ？」

「あなたが言わないでください。いや、マジで今日こそ決着をつけましょう。入江さんはずっと納豆ごはんを作ってればいいんですよ。人が来るたびにわざわざ凝った失敗をしないでください！」

「お前こそ、毎度滅多なことをいうなよ。好き嫌いは良くないぜ。これは九熊さん直伝の七方位家に代々伝わる——」

「悪しき伝統じゃないですか！いや、衛自くんも本当に気ぃ遣わない方がいいよ？これからけっこうな頻度で食べることになるから、誤魔化せないよ？」

「えっと…」

　えっと。

　なるほど。

　まあ察するに、この家ではかねて入江さんの料理を巡って、一対一で平行線の議論を繰り返してきたのだろう。

　他の指摘する人間がいなかったのは入江さんに気を遣ってか…そのあたりは想像に任せるしかないが。

　まさか料理とレシピの話が伏線だったとは……。

　さて困った。

　僕は2人以上の人間を同時に相手取ったことがないのだ。

　一対一というなら、僕のこれまでの人間関係はすべてがそうだった。

　こういう二者択一の場面で、一体どうするべきなのか…。

　逡巡の末、2人の期待の視線を受けながら、僕は言う。

「そうですね——僕は今まで病院食だけで生活していてカレーを食べるのも初めてなので、もうちょっと色んなものを食べてから考えるということで……」

　決定はもちろん、言葉尻まで濁してしまった。

　まあ、いいだろう。内心がいくら決まりきっていたところで、それが実際に決めるべきタイミングだとは限らない。

　こうして僕は、人生で初めて、『不味い』という味を知ることとなった。