第41話 『光の階段』と『ささくれた塔』 -2

 一階層で十二段、今彼の存在する二オクターブ上まで、計二十四段、そしてその上の階層にはさらに十二段、『光の階段』を集めることで到達できるだろう。彼は楽観的にそう考えていた。しかし、物理空間的世界で十二段集め終わり『光の階段』が一オクターブ上へと昇ったとき、衝撃を受けることとなった。

 物理空間的世界と、その一オクターブ上の世界とでは『段』の価値が異なるのだ。一オクターブ上の『一段』を昇るためには、物理空間的世界でいう『十二段』昇る必要があることが分かったのだ。

 ある意味で、それは当然のことであった。階層が上がるにつれて、認識のレベルも上がる。それは必然的に価値のレベルも上がってくるということなのだ。

 彼はしばらく呆然としたまま、動けなかった。自分のいる二オクターブ上まで上ってくるためには、12×12=144段集める必要がある。さらに、この階層の上へと駒を進めるためには、12×12×12=1728段集めなければならない。そしてさらにその上へは――

 ぐらり、と今まで彼を支えていた自信が崩壊しかけていた。自分は見当違いな手段を取っていたのではないだろうか。『龍の涙を受け止める花弁』の使い方を誤っていたのではないだろうか。次から次に、ネガティブな考えが浮かんでくる。

 彼は意を決して、その二オクターブ上の世界を探索することにした。まず目指すべき場所には心当たりがあった。以前から何となく気になっていた、はるか彼方に聳え立つささくれた塔のような物体だ。茫洋としていて姿がはっきりしないけれど、その禍々しさはひときわ異彩を放っている。


 その『ささくれた塔』は、一つ下のオクターブにいるときには、あまりはっきりと認識できなかった。現在の二オクターブ目に昇った当初も、その存在を意識することはあまり無かった。しかし、時が経つにつれて彼の中でその存在がしだいに大きくなっていった。

 近づくにつれ、だんだんとその正体が認識できるようになってくる。ある意味で建築物のように感じていたそれは、実はもっと流動的な存在の集まりであった。表面がささくれているように見えたのは、それらの存在に動きがあったからなのかもしれない。

 古いマッサージ機の上にカンガルーが踊り、黒いゴミ袋の隣には初老の女性が鎮座する。そんな光景。存在同士が入り乱れ、意識の交換を行っている。マッサージ機と黒いゴミ袋が近づき、一瞬だけ何かコミュニケーションを取ってまた離れた。

ぐるぐるとこの階層にいる色々な存在が動き回っている。


「君もこのチーム『ベルガモット・アンスタチン』に入るのかい?」

 この言葉も、意識の中には入ってきていたものの、自分への問いかけであるとは分からなかった。

「こちら側に入るのかい?」

 もう一度、訊いてくる。

 彼に問いを投げかけていたのは、単三のアルカリ乾電池であった。

「こちら側?」

「そう。『ベルガモット・アンスタチン』に入るんだろ?」

 彼はアルカリ乾電池に事情を説明することとした。まずは自己紹介に始まり、今何について問われているのか、皆目見当もつかない旨を伝えた。

「このオクターブは今風雲急を告げる事態に陥っているんだ」

 アルカリ乾電池は、こう前置きすると、続けた。

「要約すると、我が方『ベルガモット・アンスタチン』と『ゼラニウム・ゲルマニウム』に分かれての無制限一本勝負の真っ只中なんだ」

「ベルガモット? ゼラニウム?」

「そうか……君はまだ物理空間的階層の考え方が抜けきっていないのだね。確か我らのリーダー『ベルガモット・アンスタチン』は、最下層ではドアノブだったはずだよ……まぁどうだっていいことだけどね、そんなことは」

 会話を交わしながらも、アルカリ乾電池はうねうねと悶えるような動きを続けている。

「一本勝負とは?」

「決まっているじゃないか」

 何を馬鹿なことを、という雰囲気を醸し出しながら、

「さらに上のオクターブへと昇るんだ。それ以外に戦う価値のある事象など存在しない」

 さらに上へ。

 このフレーズに、彼は食いついた。

「入れてください。私もこちらで上を目指します」

 と『龍の涙を受け止める花弁』をちらつかせると、アルカリ乾電池の様子が変わる。

「ほほぅ。珍しいものを持っているね……ま、何にせよとにかくがんばってくれよ」

 珍しいもの、ということは、他にも同様にある存在から『光の階段』を濾し取るろ過装置があるということだろうか。彼がさらに尋ねようとしたときにはアルカリ乾電池は消えていた。


 チーム『ベルガモット・アンスタチン』に入った彼は、まず情報収集することから開始した。彼が今まで行ってきた『光の階段』の回収方法は妥当であったのかどうか。そして、他の存在がどのようにその作業を行っているのか。

 しかし、皆、簡単には情報を開示してこない。その会話の端々を繋げて推測すると、この『ベルガモット・アンスタチン』も、実は一枚岩ではなく内部で幾つかの派閥に分かれて対立しているようだった。今は冷戦状態であるけれど、いつそれが分裂して、別のチームとなってもおかしくはない状況だという。

 彼にとってどのチームがどうなろうと知ったことではなかった。しかし、事実としてやはりどこかの派閥に入り込まないことには誰からも警戒されてけっきょく有用な情報は得られない。

 彼は、あるドラムスティックがまとめている派閥に近づいて、なんとか信用を得ることに成功した。そこで、これまで自分が行っていた『光の階段』回収方法には少し間違いがあったことを知る。


 彼は今まで、ただ単純に『段』を集めてそれを上に積み上げていた。しかし、それでは1+1=2にはなっても、それ以上にはならない、ということだった。

「それ以上になる、とはどういったことなのでしょう?」

「これはたまに誤解している者もいるがね」

 こう前置きすると、ドラムスティックは続ける。

「1+1=2になるというのは、どこの世界の話だね?」

「――あ、」

「そう、今君が考えた通り、それは物理空間的世界の考え方だ。この階層は、そこから2オクターブも上に位置するのだよ」

「そうですね……しかし」

 彼は疑問を口にする。

「じっさい、今まで1+1=2にしかなりませんでした」

「それは、君のやり方の問題だ」

「やり方と言っても……最下層で『光の階段』を探すことが問題だということですか?」

「いや、そうではない」

 ドラムスティックはうねうねと形を変えながら、続ける。

「最下層で集めようとも『光の階段』はそれ自身何の変わりも無い。というよりも、どの階層であろうとも、物理空間的世界に何らかの物として存在しているのだ」

「そう……ですね」

 彼は思考が複雑に絡まっていくのを感じていた。解きほぐすためにはしばしの猶予が必要だ。

「それが最下層のものであると考える限り、その階層の物理法則に従う他ない。そこに、階層の概念を越えたものを持ち込めば良いのだ」

「階層の概念を越えたもの?」

「そう……もう、君は良く知っているはずだがね。そもそも『光の階段』とは何なのか。それを多く持つ者とはいったい何なのか」


 ――芸術家という生き方をする。


 彼の意識に、この言葉が沸いてくる。

 忘れていたわけではない。ただ、その本当の意味を理解していなかったのだ。

「芸術、ですね。つまり、そこに芸術の要素を盛り込むということですね?」

 彼の問いは、茫洋とした光と闇の混在する空間に吸い込まれて消えていった。ドラムスティックはいつの間にか消えていた。ただ、その答えを聞くまでもなく、彼は自分が正解に行きついたことが分かっていた。だからこそドラムスティックは去って行ったのだろう。彼はこう解釈して、もう次の行動へと移った。

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