第39話 見え隠れする『ドン・アンジェラ』 -2

 仕事が一段落して、ようやく暇が出来た、と相変わらずのほほんとした調子で話す姉さんに毒気を抜かれた。

 話がかなり込み入っていることもあって、電話では難しいこともあった。ちょっと用事がある、ということのみを伝えて、電話は切った。

「今からお姉さんを迎えに行くんですか?」

「いや、まずは『ルーマニア』に行ってから、車で姉さんを拾いに行くことにするよ」

 まず姉さんの無事が確認できたことは大きな収穫だ。しかしまだ訊かなければならないことはたくさんある。十七年前の事件の日、いったい何があったのか。全てはそこに端を発しているような気がしてならない。


 幸い『ルーマニア』には誰もおらず、ただ立ち入り禁止の札がコーンとコーンの間に紐で掲げられているのみであった。

 おれが合鍵を持っていることはまだ知られていないようだ。周囲の様子を気にかけながら路地裏へと入り階段を降りていく。

 店内は、まだ目に痛い香りが残っていた。蔵元知恵の体を持つ少女も隣で顔をしかめている。

「ママさんが倒れていたのは、あの奥の部屋なんですよね?」

「そう、通称ゴミの部屋」

「ダイイングメッセージも?」

「ダイイングメッセージ、と言うほどのものじゃなかったけどね」

「ドン・アンジェラ」

「そう。ドン・アンジェラ……なかもず駅の次の駅に取り込まれた人がこちらの世界に戻ってくるためには、ドン・アンジェラに会わなければならない……と、いう都市伝説だけど、君はドン・アンジェラに会った?」

「ドン・アンジェラ……というより、誰にも会ってませんけどね……じゃあ、ドン・アンジェラの秘密をママさんが知ってしまったとか?」

「それだったら『ドン・アンジェラ』と書かずに、その秘密のほうを書くはずだよ」

「あ、そうか」

 言ってから、気付いた。

 ママ・キャサリンのダイイングメッセージは本当に『ドン・アンジェラ』だったのか?

 すっと背筋に冷たい汗が伝う。

 血で床に書かれた文字は正確に読み取れたのか? 必死に思い出してみたけれど、曖昧にしか頭に浮かんでこない。

「どうしたんですか?」

「ちょっと待って……ええと、確か、一番左に『ア』の文字があったのは覚えているんだ……」

「『ドン』がついていなかったんですか?」

「いや、上に『ドン』があって、少し間をあけて、下に『ア』から始まる何かが書かれていた」

 それも今思えば不自然と言えなくはない。

「『アン』までは読み取れたんだけど、そこから先が曖昧で……最後に『ラ』とあった……だから、おれは直感的に『ドン・アンジェラ』のことが頭に浮かんで、思わず呟いてしまったんだ。ちょうど君が行方不明になっていたこともあったし、タイムリーだったからね。そのときに隣にいた陸奥警部にその意味を聞かれて、説明しているうちに、おれの中でそのダイイングメッセージは完全に『ドン・アンジェラ』になってしまった」

「ドン・アン……ラ……って、でも今考えても『ドン・アンジェラ』しか思いつきませんけど……」

 あまりにも情報が少ない。というのが実情だ。ママ・キャサリンは、何を伝えようとしていたのか、それとも、本当にただ『ドン・アンジェラ』と伝えようとしたのか。ドン・アンジェラが犯人だ、と伝えようとしていたとすると――

「『ドン・アン……ラ…』その言葉でまず犯人であるということを伝えて、そしてさらにドン・アンジェラにどういう意味があるのかをも同時に伝えようとしていたとすると……」

 焦燥感がこみ上げ、なかなか頭が回ってくれない。

「あの……そろそろ出たほうがいいんじゃないですか? けっこう時間が経ってますけど」

 言われて、はっと気付いた。時計を確認する。十五分ほど店内に居たようだ。

「ロン・メイメイもそろそろ起き出す頃かもしれないしね」


 車に戻っても、相変わらずロン・メイメイは死んだように眠っていた。先ほどまでよりも大きな寝息が聞こえてきている。生きているのは間違いないけれど、どうやら本格的に睡眠に入ったようである。

 と、思い出したようにおれにも眠気が襲ってくる。頭が重い。大きく深呼吸をして、睡眠欲をなんとか抑制した。

「大丈夫ですか? 運転代わりましょうか?」

「いや、すぐだから大丈夫……それに、君は免許持ってるの?」

 一瞬だけきょとんとした少女は、すぐに気付いたようで、引き下がった。現状で、森本桃子が免許を持っていたとしても何の意味もないのだ。

 姉さんとの待ち合わせ場所まで、十分程度、沈黙の続く車内では、ときおりロン・メイメイの呻きが聞こえるのみであった。



「はじめまして」

 と、蔵元知恵の姿をした森本桃子は、姉さんにかしこまってこう言った。

 ホテルの一階ロビーで姉さんと落ち合い、カフェに入ってさっさとコーヒー三つを注文したあとのことだ。

 姉さんは首をかしげて、

「あら、おかしな子ね」

 当然である。蔵元知恵はつい先日、姉さんの部屋で寝泊りしていたのである。

 三十分ほどを費やして状況説明を終えると、それを信じたのかどうか分からなかったけれど、姉さんは一応納得したようだった。

「要するに、和也が知りたいのはやっぱり『十七年前の行方不明事件』なワケね?」

 と何がおかしいのかくすくすと笑う姉さん。

「あのときは、どうも、すいません」

 あの時、ぶつかってしまったことに対する謝罪だろう。しかし、今になって、しかも蔵元知恵の姿でそれを言うのは少し滑稽な気がした。

「すいません、ってことはないんじゃない?」

 姉さんは笑みを絶やさない。

「だって、ポーチを届けてくれたじゃない」

「そうなんですけど、けっきょくは受け取って貰えませんでしたよね?」

「あれ? そうだっけ?」

 おれは写真を取り出して、姉さんに見せる。

 ゴミの山のふもとに、ピンク色のポーチ。

「ああ、こんなところにあったのね」

「こんなところに、って不自然極まりないだろ?」

「知らないわよ。そんなこと言われても」

 姉さんはコーヒーに口をつけ、それっきり写真を見ようとしない。ここで追及の手を緩めるとまた今までと同じになってしまう。そう感じたおれが口を出すより先に、蔵元知恵の姿をした少女が、話を切りだした。

「ポーチと傘を届けようとしたら、それを拒否してまたどこかに行こうとしたから……そうそう、それで、また誰かにぶつかったんですよね」

 自分の記憶をたどっているかのように、話を続ける少女。さきほどおれに話した内容よりも、付け加えられている。今話しながら思い出したのだろう。

「そうね。確かにぶつかったわ」

 姉さんの笑みが、消える。

「それで立ち止まったあなたに、その男が手を差し伸べて――」

 ちらちら、と脳裏に、まったく関係ないと思われる光景が、次々にフラッシュバックする。

 その脈絡のなさに、冷や汗が吹き出す。暗転しそうな視界を必死に繋ぎとめて、その意味を探る。

 飲み会の映像。なかもず女子大と梅田大学の研究室同士の交流会だ。雨の中、森本桃子とおれは店の外でたたずんで話す。そして、おれとロン・メイメイ、森本桃子と蔵元知恵は、『ルーマニア』へと向かう。

 森本桃子の死体が見つかったあの日、なかもず女子大から来た蔵元知恵。ママ・キャサリンの身の上話。高校在学中に両親に捨てられて大阪の町を点々としたあと、上海へと渡り料理人として大成した話。同性愛者だということが発覚してからの挫折。

そして帰るときに蔵元知恵が言った言葉――

ちゃんと『借りてきた』と、確かに言った。

ぐるぐるぐるぐる、頭の中で時間軸がばらばらになる。十七年前、昨日、三日前……

 飲み会、森本桃子がそれを『借りる』ところを確かに目撃した。そして、蔵元知恵もそう言った。

 十七年前、森本桃子は何を持って姉さんを追いかけていったか。ルーマニアのゴミ部屋の写真には何が写っていたのか。何が写っていなかったのか。

 と、唐突に『ドン・アンジェラ』という文字が頭の中を駆け巡る。ドン・アンジェラに会う。これはどういうことか。

『ドン・アン……ラ……』

 ママ・キャサリンのダイイングメッセージだ。

 普通に考えればドン・アンジェラだ。

 彼女が伝えたかったのは、まず今回の事件には全てドン・アンジェラが関わっていること。本当にそれだけか? おれはカビの生えた脳味噌を必死に回転させる。


 黒い液体に浸るママ・キャサリンの死体。


 その右手が描く文字が、よみがえってくる。


 あのときに描かれていたものは、本当に『ドン・アンジェラ』だったのか?

 そこに疑いをかけた瞬間、おれの中にばらばらに存在していたパーツが、みるみるうちに一つに組みあがる。そこに現れた一つの姿は――


 おれは立ち上がる。

「和也、どうしたの?」

「姉さん、森本さん、行こう――時間がない」

「行くってどこに?」

 身支度を整えながら、おれは言った。

「なかもず駅だ」

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