第38話 見え隠れする『ドン・アンジェラ』 -1

「お姉さんとはまだ連絡が取れないのですか?」

 蔵元知恵の顔をした女が、おれに訊いてくる。

 雨が止み、晴れ間が見えてきた空に、虹がかかっているのが、フロントガラス越しに見えた。

 おれは携帯電話を閉じて助手席との間の空間に置いた。助手席には自分を森本桃子と認識する蔵元知恵が座っている。後ろの席ではロン・メイメイが静かに寝息を立てている。

 ハンドルを握る手にじっとりとした汗を感じて、冷房を入れていないことに気付いた。信号待ちの間に手を伸ばすと、同時に、助手席からも手を伸ばしてきた。お互いにゆずる形になり、けっきょくはおれがスイッチを入れた。ブイン、という機械音と共に、冷気が吐き出されてくる。


「どこに向かっているのですか?」

 しばらく沈黙したあと、

「分からない」とだけ応えて、別の質問をする。

「蔵元知恵……じゃなくて、森本桃子……でいいのか? ちょっと詳しく話して欲しい。正直もう何がなんだか分からないんだよ」

 彼女の言葉を信用したというわけではなかった。むしろ、信じろというほうに無理がある。

 ただ、漠然とした印象に過ぎないけれど、嘘を言っているようにも見えない。なにより、そんな狂言をする理由が思い当たらない。

 行きかう車の数が減ってきて、路肩のスペースが大きくなってきたところで、ハンドルを切った。ハザードランプを点灯させ、そのまま停車する。

「ちょっと冷静に分析してみようか」

「はい」

 まず、森本桃子が行方をくらませたところから話すべきなのだろう。自らを森本桃子だと名のる人を前にして、どう切り出したものか。

 ちらと隣を覗って口ごもるおれに、相手のほうから話を始めてくれた。

「じゃあちょっと、私の話を訊いてください。まず、私が蔵元知恵じゃなくて、森本桃子だ、という件――正直、自分でも何がなんだか分からないのです」

「そうだろうね」

「あまりにも荒唐無稽なことを言っていることは分かっています。ひょっとしたら自分は本当は蔵元知恵で、ただ何らかの理由で森本桃子だと思い込んでいるだけなのではないか、とも思います……けれど、森本桃子として生きてきた記憶が、確かに私の中にあるのです。それすらただの想像の産物だと言われればそれまでですが」

 おれは黙って頷きながら、今回の出来事を全てまず頭に思い浮かべて繋ぎ合わせてみる。先入観を持たず、どんな組み合わせでも試して関連性を思案する。

 森本桃子が姿をくらまし、その後男装をした彼女の死体が見つかった。これがなかもず駅での話だ。ママ・キャサリンが死んでいたのが『ルーマニア』。さらに、蔵元知恵が姿を消してから、今現れて自分のことを森本桃子だと言う――

「そうだ、訊き忘れていたけど」

「はい」

「ユリの花……今までもあれは君が供えていてくれたのか?」

 今回母さんの墓に居るかもしれない、とおれにヒントを与えてくれたのが、ユリの花だ。今までにも何度か活けてあった。おれでも姉さんでもなく――

「そうです。無関係、と言うわけではないので……今まで黙っていてごめんなさい」

 彼女はそこでいったん言葉を切ってから「お兄さん」と呟くように、それでも確実にこちらに聞こえるように言うと、視線を向けてきた。

「そうか。いや、ありがとう」

 おれは、何とか笑みで返した。

 もし彼女が蔵元知恵だったとしたら、おれと森本桃子が腹違いの兄弟だということなど知るはずがないのではないだろうか、と、一瞬思ったけれど、それが正しいのかどうか、今となっては確かめようもない。だからこそ、彼女もその事実をもって自分が森本桃子である証明にしようとはしないのだろう。

 知恵の体を持つ女――自称森本桃子は、語った。小さい頃にすでに自分には腹違いの兄弟がいることを知っていた彼女は、なんとかしてその兄弟に会いたい、と思うようになったという。そして、その母にも。

「竹田さんのお母さんは、父が、唯一愛した女性でしたから」

「唯一って、そんなことないだろう?」

「いえ、そうです。父は、あなたのお母さんと、私の母を天秤にかけて、こちらを選んだわけではないのです」

「ほう」

 おれにとっては、当然ながら初めて訊く父の話だ。

「どちらかと言えば、あなたのお母さんに愛想をつかされたんです。そうなるように、私の母が裏で糸を引いていたんだと思いますけど、もうそれに気付いた時には何もかも後の祭りだったみたいです」

「その話は、父から?」

「……はい」

 あの父らしい。おれは苦笑する。間違っても自分の娘にするような話ではない。話すことで許されるとでも思っているのかもしれない。

「でも、直接的な離婚の原因になったのは、私が生まれたことなんですけどね」

 自嘲気味に笑いながら、続ける。その表情は、蔵元知恵ではなく、明らかに森本桃子のものだ。何かを諦めたような、悟ったような、疲れきった笑み。

 一年浪人してから中百舌鳥女子大に入り、ちょっとしたきっかけでおれが梅田大学に所属していることを知る。そこで彼女は考えた。普通に会いに行っても相手に迷惑なのではないだろうか。相手はこちらのことを、果たして兄弟として受け入れてくれるだろうか。

「相手のせいにしながら、けっきょく、そうなったときに自分が傷つくのが怖かっただけなんだって、後になって気付いたんですけどね」

 桃子は、自嘲の笑みを浮かべる。

 おれは黙って話の先を促した。

 大学に入学してから三年が経ち、卒業論文のための講座を選ぶ時期になり、古賀研究室と椋山研究室の関係を知ることになる。そして、今古賀研究室に入ればおれについて一緒に研究生活を送れるということも同時に知った。

「まずはどんな人なのか、それを確かめたかったのです。話してもいいものかどうか、見極めようとしたのです」

 それで、けっきょくどういう答えをだしたのか、少し興味を惹かれたけれど、訊けなかった。代わりに、別の話題を切り出すことにした。

「十七年前のこと……覚えてるかな?」

「十七年前?」

「そう。なかもず駅で――確か、この季節だったと思うけど姉さんに会ったはずなんだ。姉さんだとは意識していなかったと思うんだけど、父と一緒になかもず駅を歩いていたときに、姉さんにぶつかって転んだことがあるはずなんだ」

 ぽつり、ぽつり、と雨粒がフロントガラスを叩き始めた。

「覚えています」

「本当に? そのあとの自分の行動も?」

「ええ、あのあとの父の狼狽した姿は、子供心にすごくショックだった……あのときぶつかったのが、お姉さん――やよいさんだったんですね」

 くすくす、と含み笑いをする少女に、おれは訊ねた。

「そのあと、走り去った姉さんを、一人で追いかけたはずなんだけど、覚えている?」

「ポーチと傘を落としてそのまま行ってしまったから、持っていってあげようと思って」

 おれは鞄から何枚かの写真を取り出し、助手席のほうへ差し出した。

「これは、『ルーマニア』……ママさんの殺害現場?」

「そうなんだけど、見て欲しいのはどこかに映っているピンク色のポーチだよ」

 ぺらぺらと、しばらく写真をめくる様子の彼女は、ある写真を見ながら、ああ、と声を出す。

「確かに、こんな感じのポーチだったと思いますけど……でも確かにこれだったかと言われると自信はないですね」

「いや、いいんだ。そのポーチが間違いなく姉さんのものだという証拠は別に取ってあるからね」

「そうなんですか……でも、ママさんがどうして……」

「そこなんだ」

 感傷に浸ろうとする少女を現実に引き戻すように、淡々とした口調で、さらに続けた。

「君の言うことが正しいとすれば、まず、君が『梅田発なかもず行き電車の魔物』に取り込まれたってことだね?」

「そうですね……そのときのことはぼんやりとしか思い出せないんですけど、ただ、誰も居ない駅で一人彷徨っていたような……」

「そして次に気がついたら、蔵元知恵の体になっていた、と」

「そうなんです……だからひょっとしたら、知恵ちゃんは今もあの無人の駅で一人取り残されているのかもしれない、って――」

「そうだとしたら」とおれは口を挟む。

「ママ・キャサリンはどうなる? 森本桃子の……その、肉体としての死体が発見されたあと、ママ・キャサリンが死んでいる」

「それは、ひょっとしたら、知恵ちゃんが――」

 と、途中まで言いかけて、口を押さえる。

 おれと同じことに気付いたのだろう。

 もし、ママ・キャサリンの死も同じ文脈の中に入れ込むとすれば、森本桃子が蔵元知恵の体へと移り、そして蔵元知恵がママ・キャサリンへと移り、そして、今無人駅――都市伝説で言われている『なかもずの次の駅』に取り残されているのは、ママ・キャサリンということになる。

「ただ、今までの事件とママ・キャサリンの件とは、一つだけ、だけど、決定的に違うところがある」

「違うところ?」

「ママ・キャサリンは、他殺体だったんだ」

「他殺体……誰かに、殺されたってことですか?」

 おれは続けた。

「『梅田発なかもず行き電車』の都市伝説関係で過去の事件も含めて全て、死んでいる人はみな自殺だった」

 それがいったい何を意味しているのか、そこまでは分からないけれど、その差は大きいような気がした。

「こうは考えられないでしょうか」

 少し控えめに、こちらを覗う視線を向けながら、少女は続けた。

「今回、私にしても、知恵ちゃんにしても、『魔物』に取り込まれる前には必ず『ルーマニア』に行って、ママさんに会っています……だから、ひょっとしたらママさんは何かに気づいたのかもしれない」

「何かに、って例えば?」

「例えば、『魔物』の正体とか……」

「つまり、この一連の事件にはある特定の『犯人』がいる、と、そう言いたいんだね?」

「そこまで断言は出来ませんけど、ただこの時期にママさんが殺されることって、偶然だとは考えられなくて」

「それはおれも同感だな」

 しかし、いったい何に気付いたというのか、そのことが分からなければどうしようもない。

 おれはハザードランプを消して、エンジンをかけなおした。

「どこに行くんですか?」

「ルーマニア」

「危険なんじゃないんですか? 警察に追われてるんですよね?」

「だからといってこのままぐずぐずしていてもジリ貧になるだけだからね」

 ママ・キャサリンのことだ。何か痕跡を残してくれているかもしれない。

「そういえば、あれ以来、ルーマニア伯爵はどうしているんでしょうか?」

「消息不明だ」

「消息不明って……それじゃ」

「あ、いや、他の人たちとは事情が違う。彼の場合、最初から消息不明だったんだから」

 と、会話をさえぎる携帯電話の着信音が鳴る。

 おれは反射的に左手で掴んで、ディスプレイを開いた。

「姉さんだ」

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