第37話 龍の涙を受け止める花弁 -2

「ここ数年でこの街は大きく変化した」

 あるとき、ベッドの中で料理長が言った。この街がいったい何という名の都市なのか、それは知らなかったけれど、明らかに倫太郎が考えていた中国とは異なっていた。行政の変化によるものだとかなんとか男は言っていたけれど、どこか不自然に垢抜けた印象を受ける。

 そういうときの料理長はいつも、どこか差し迫ったような表情で遠くを眺めていることが多かった。そんなとき、倫太郎はただ黙って奉仕を続けることにしていた。彼の下腹部に手を這わせ、ゆっくりとなでながら、自分の口を持っていく。その瞬間、決まって大きく息を吐き出した料理長が、倫太郎の髪をなでてきた。手櫛で何度も彼の髪をすいてくる。


「こんなに綺麗な髪の男を今まで見たことがない」

 何度となく、彼にこう耳元でささやいてはくすくすと含み笑いを漏らす料理長。倫太郎は、そうですか、ありがとうございます、と笑みで返す。そんなやりとりを続けていた。

 同僚達と共に生活する宿舎から料理長の家までは、歩いて十五分程度で、もう目を閉じていてもたどり着けるといっても過言ではないほど、道筋は熟知していた。それと意識していなくても、体が勝手に料理長の家に向かっているのだ。この日も倫太郎はただ何となく周囲の喧騒に身をゆだねながらふらふらと歩いていた。いつものことだ。いつも、こうしてたゆたっているうちに何となくたどり着くのだ。


『龍の涙を受け止める花弁』を探すために『かの地』へと赴くのだ、と最初は考えていた。

 しかし、それは『声』に対する倫太郎の解釈間違いだった。真実は『龍の涙を受け止める花弁』を見つけることで『かの地』へといざなわれる、ということだった。

 認識のレベルが上がったことで、そのことに気づくことが出来た倫太郎にとっては、今自分が地球上でどの場所にいるのか、ということがたいした意味を持たなくなっていた。『かの地』というのが、今自分達が考えている『場所』の概念ではないことは明確であり、それは認知方法の向上によって会得する空間の概念なのだ、と彼は考えていた。

 ただ、具体的にどういったものなのかは、今の彼には分からない。それは当然であった。彼はただ、人の住む物理的世界からたったの一オクターブ上へと昇ったに過ぎないのだから。


 ふ、とどこかしら違和感を覚えた彼は、意識を下界へと戻した。周囲の喧騒は相変わらず続いていたけれど、少し様子がおかしい。

 立ち止まって、ゆっくりとあたりに視線を這わせた。いつもの景色とは微妙に異なっていた。脇に並ぶ店にも彩りが少なく、その周りに溜まる人々の数もいつもより多い。何より、今からどこをどう進めば料理長の家へとたどり着くのか、まったく分からない。彼は道に迷ってしまったのだ。もう二年間毎日通った慣れた道のはずだったのだけれど、現実的に、彼は見知らぬ地へと来てしまっていた。

 ただほんの少し歩いただけの距離である。引き返して誰かに尋ねれば解決する問題だ、と彼の理性はそう判断した。しかし、彼の本能は別の決断を下した。

 

 ――ついに、時は満ちた。今こそ、全身全霊を傾けて『龍の涙を受け止める花弁』を探すのだ。


 そのときまで胸中を覆っていた得体の知れない黒い闇が、すっと晴れていく。くっきりと映し出されてきたのは、今までは予想だにしなかった光景だった。彼はまた、自分がさらに一オクターブ上へと上り詰めたことを知った。今や『場所』や『時』といった概念ですら、彼の下に位置するようになっていた。すると、今までは認識できなかった世界の真理が、驚くほどすんなりと、受け入れられるようになっていた。


 彼は高揚する意識を抑えながら、物理的な肉体を日本に戻すことにした。その手段は特に気にならなかった。金銭的な問題、自分の身元証明、その他、下界では問題になるようなことも、今の彼には関係が無かった。物理的空間的な距離など、今の彼にとっては取るに足らない問題だった。それにどの程度の時間を費やしたのか、ということもまた、露ほどの障害にもならなかった。とにかく彼は、日本へと戻った。

 彼は自分の上空に未だ霧がかかったようにもやもやと滞留する世界のほうに精力を傾けていた。『声』はまだその上から聞こえてきているのだ。どこまで上があるのかは分からなかったけれど、とにかく上へ。日本に帰ってきてからの彼は、少し形を成しつつあった『龍の涙を受け止める花弁』を求めて、物理的空間から2オクターブ上の世界を彷徨っていた。


『こちらへ来る資格を持つ候補者は、実はお前のほかにもう一人、存在するのだ』


 この頃になると『声』にもかなり具体性が出てきていた。唐突に降りてきたこの『声』に、彼は思わず聞き返していた。

「それはつまり、わたしかその者か、どちらか一人しか昇れないということなのですか?」

『声』は応えなかった。しかし彼は、それを肯定の意と解釈した。そして『龍の涙を受け止める花弁』へと先にたどり着いたほうがその栄光を受けることが出来るのだ、と彼は解釈した。


 彼は彷徨っていた。ぼんやりとではあったけれど、どうすればいいのかが分かってきていた。つまりは上へと昇るための枠を組み上げればいいのだ。それはこの階層でも、一つしたの階層でもなく、意外にも一番底辺の物理的空間に立ち返る必要があることが分かった。

 彼はただひたすら、枠を組み上げていた。そうすることで見えてくるものが現れてきた。まず、駅の風景。そして――

 ちらちらと意識にノイズが入ってくる。自分の存在が自分以外の何かによって徐々に浸食されていく感覚。

 彼はその存在を確かめ、咆哮した。物理的世界では威嚇と呼ばれる行為。意味は何も変わらない。それでも認識のレベルが異なっていた。その威嚇にも、彼をじわじわと侵してくるその存在は、まったく動じないように感じられた。

 徐々に、焦りの感情が彼を満たしていた。その存在が『声』の言うもう一人の候補者なのだということは分かっていた。しかしそれが分かっても、ただ威嚇することしか出来なかった。なぜその存在が自分を侵すことが出来るのか、分からなかった。相手にあって自分に無いものはいったい何なのか?

 

 彼は、ただ無我夢中で吼えた。

 ジュクジュクと、彼のコアへと触手のような、液体のような、空気のような、漠然としたその存在が侵入してくる。と、同時に、その存在のコアもくっきりと意識できた。

 彼は衝撃を受けた。そこには何もなかった。存在しているはずのその存在は、実は何も存在していないのか? 冗談じゃない。何の話だ。いったい何がどうなっているんだ?

 ふっと、彼の中から、その存在が出て行く。あ、と思ったときにはもうそれは、上へと消えていこうとするところであった。彼は必死で手を伸ばしてあがいた。冗談じゃない。ここまできて脱落したら、いったい今まで何のために存在してきたのか。何のためにここまで昇ってきたのか。

 そんな彼の思いはただもっと大きな摂理によってあっさりとかき消された。彼はあがくのを止めた。すると、彼の中にあるイメージが喚起された。

それが『龍の涙を受け止める花弁』だった。


「そんなことが……どうして今まで……」

彼は急速に落ちて行き、ついには物理的空間世界へと舞い戻った。

目を開けて自らの肉体を確認する。いつの間にか自分が知っているものではなくなっていたけれど、気にならなかった。かたわらの『龍の涙を受け止める花弁』に目を向ける。そこにある禍々しいまでの雰囲気を感じて確信した。


 ――まだ、チャンスはある。


 彼は歩き出した。

 また一から枠組みを作り直すのだ。そしていつの日か、上へと昇る。『声』の元へ。そして訊ねなければならない。

 

 どうして私ではなく、その少女だったのですか――

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