第36話 龍の涙を受け止める花弁 -1

 倫太郎は中華なべを洗っていた。ただ、ひたすら擦る。それでも、焦げ付いた染みはなかなか落ちなかった。どこか哀愁のある胡弓の旋律が、その音色とは不釣合いなほどの大音声で店内に鳴り響いている。

 安物のスピーカーから垂れ流されたその音にさらに覆いかぶさるようなけたたましい群衆の喧騒が彼の耳に届いてきている。厨房での料理人たちの罵り合いと、薄い壁一枚隔てた向こう側の客達の喋る声だ。

 どこか人事のようにそれらの音の群れを感じながら、彼はただ中華なべを擦っていた。指先はあかぎれを起こし感覚がなくなっている。頭の芯のほうが、しゅわしゅわと痺れを起こしている。特に右側のこめかみから頭頂部にかけて症状が酷い。右足裏の古傷は、未だにうずくことがあった。

 それでも、彼はすでに何も気にならなくなっていた。ユェンファをすり潰したあと、生きている人間が居なくなった屋敷のなかで、ひとしきり吼えた。

 すると、スッと胸のつかえが昇華していくのが感じられた。と、同時に、彼は自分が一オクターブほど上層階層へと昇格したことが分かった。何がどう変わったということはない。ただ、彼の認識のレベルが1ランク上がったという、ただそれだけのことだ。


 屋敷にあった金を必要最小限だけ手に取ってそこから逃げ出し、彼は街へ出た。どの都市へ行くか、彼に当てはなかったけれど、そんなことはどうだっていいことであった。どこに居ても『龍の涙を受け止める花弁』の捜索には何の影響もない。そう気づいたのだ。

 背後からぐいと肩を掴まれた。

 振り返ると真っ赤な顔でなにやらまくし立てている副料理長の姿が視認された。ぐいっと顔を寄せてくる。顔中から滴った汗が、今にもこちらにはじけ飛んできそうだ。どうやら、怒っているようだ。

 ふと思いついて振り返り、今まで自分が洗っていたなべを見てみる。光沢を放つその表面には焦げはおろか、凹凸の一つもない。磨いているうちに、いつの間にかかなりの時間が経っていたのだろう。副料理長はそのナベを指差しながら、さらに激昂する。

 どうやら、倫太郎の仕事が遅いことに対してのクレームのようだ。彼は、はい、わかりました、とだけ答えてその場を去ろうとすると、再度ぐいと肩を掴まれる。振り返りざま、拳が飛んできた。どうやら自分の顔が殴られたらしいことはどこか意識の遠くで確認できた。体が床に叩きつけられ、視界がぐるぐるとまわっている。それでも彼に痛みは無い。今彼の存在する階層には、痛み、という概念がないのだ。

 彼は自らの体を、されるがままに任せた。起き上がろうと思えば起き上がれる程度には、体は機能していた。その場から逃げ出すことも可能と思われた。彼はそのどれをも放棄して、じっと周囲の光景を観察することに注意を集中した。

 彼を殴り飛ばした副料理長の怒りは、まだ収まる気配がない。慌てた周囲の木っ端料理人たちが止めに入り逆に殴り飛ばされる。それでも何人かは副料理長の太い腕やら脚にしがみついて、必死に止めようとする。

 皆、切れたら何をするか分からない副料理長の性質をよく分かっているのだ。被害が倫太郎だけにとどまれば彼らもただ距離をとって見守っているだけなのだろうけれど、厨房でのいざこざは連帯責任になる。過去の経験から、止めたほうが得だと判断したのだ。

 ぼんやりと周囲の様子を観察しながら、同僚の顔色を伺い、なんとなくそんなことを考えていると、おお、とある一角でどよめきが広がる。ちらと視線を向けると、一人の男が、こちらに歩いてくるのが確認できた。


 年齢は五十前後、長身痩躯のその男は、この店の料理長だ。白いものが混ざった髪をさっぱりと切りそろえ、厨房に来るときにもいつもスーツ姿の料理長は、今目の前で汗をだらだらと垂れ流しながら固まっている副料理長とは正反対の印象だ。

 料理長、という肩書きだったけれど、彼が料理をしているところを、倫太郎は見たことがない。同僚曰く、中国でも五本の指に入る料理人だという噂がある、という。誰かからの又聞きでの頼りない情報だ。その真偽はさておき、倫太郎にとって彼は生活を保護してくれる唯一の貴重な存在だった。

 二年前、屋敷で盗んできた金を使い果たして野垂れ死にかけていた倫太郎を拾って仕事を与えてくれたのが、この料理長だった。仕事、とは、形式上は厨房での料理人見習いということになっていたけれど、実際には料理長の夜の伽をすることであった。

 最初から自分専属の男娼としてかくまうために、倫太郎に声をかけてきたのだ。かなり早い段階でそのことに気づいていたけれど、彼の中で料理長の評価が変わることは無かった。とにかく今のこの肉体を維持――つまり、生命体としての機能を維持していなければ『龍の涙を受け止める花弁』へとたどり着けない。まだ、その全貌は彼の中には輪郭程度しか見えてきていなかった。


 その日は副料理長に対してはお咎めなしで事態は収拾し、倫太郎もいつものようにただ淡々と作業をこなして、夜、料理長の自宅へと向かった。ちかちかと明滅する赤と黄色の電飾の隙間をぬうように、行きかう自転車の群れ。誰はばかることなく道端で寝転び酒を飲む上半身裸の男たち。

 そして、リヤカーに大量のゴミを乗せて道路を渡ろうとする年老いた男。道のそこかしこで、けたたましい罵り合いが聞こえる。通行人と自転車との接触に始まり、屋台の料理の値引き交渉、さらにあからさまにいかがわしい店への呼び込みの声。その少女達は顔形はかわいらしく整えられていたけれど、言葉遣いはみな地方の訛りが抜けず、泥臭い印象を受ける。

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