第35話 ある小児科医の証言 -7

「なにョ、それ……ちょっと、カズヤ?」

 思わず立ち上がってしまったおれの手を、ロン・メイメイが引っ張る。落ち着け、という意味だろう。はっとして周囲を見渡すと、ぽつぽつと視線を感じた。おれはもう一度席について、父に目を向ける。

「ちょうど人を送ってきたところ、って言ってましたよね? それが蔵元知恵、ということですか?」

 出来る限り平静を保つ努力をしながら訊くと、父は頷いた。その表情は、どこか不安そうに見える。

「何か、言ってませんでしたか? どこに行くとか」

「いや」とうろうろと視線を彷徨わせる仕草をして、

「言ってなかったね……ただ、ちょっと様子が変だといえば変だったね」

「どゆことョ」

「桃子のお悔やみに来ました、と花を持ってきたから、とりあえず家に上がってもらって、色々と話をしたんだけど……けっきょく花はそのまま持って帰ってしまったからね。忘れてますよ、とも言えずそのことには触れなかったんだけど……ずっと手に持ってたのに、渡し忘れるなんてことあるのかな……あ、ごめんね、関係なかったね――」

「その、花は……ユリの花だったんじゃないですか?」

「ああ、そうだが……」

 と、どうして?と疑問符を口にしようとする父を制して、おれは立ち上がった。

「今日はありがとうございました。ちょっと用事を思い出しました。先に出ます。すいません」

「ちょっと……ナニ?」

 ロン・メイメイも立ち上がる。

 呆気にとられてああ、うん、と曖昧な言葉しか出てこない様子の父にはそのまま背を向けて店を出て、そのまま駐車場へと向かう。と、ロン・メイメイがそっと傘をさしかけてきてくれた。

「ありがとう」

「不要謝」

「あとで説明するから、とりあえず車まで付いてきて」

 携帯電話で新谷家の電話番号を探してすぐに送信ボタンを押す。三回ほど、コール音がしてから、おばさんが出た。


『あらあら、また珍しい。和也君……どうしたの?』


「ちょっと、変なお願いがあるんですけれど、いいですか?」


『変な……って、どういうこと?』


「今から、おれの母さんの墓に行って欲しいんです。場所は分かりますよね?」


『ええ、分かるけど……お参りして欲しいってこと?』


「いえ、そうじゃないんです。あの、ひょっとしたら、今からそこに、女の子が花を供えに行くかもしれないんです。ユリの花です。そしたら、ちょっと話しかけてそこに足止めしておいて欲しいんです」


『あらあら、それはそれは』


 ほほほ、と新谷さんは電話口で苦笑する。どう思われているのかは不明だったけれど、今は気にしている場合でもない。

「あまり深くは何も訊かず、世間話程度でお願いします。おれもすぐに行きますので……すいません。よろしくおねがいします」

 おれが電話を切ると、ロン・メイメイは、ふぅん、と頷きながら、

「お母さんのハカにチエちゃんが行くっていうスイリ?」

「そう……推理、というか、直感」

「そのココロは?」

 こういうときに使う言葉じゃない、と思ったけれど、とりあえずは流しておいて、答える。

「最近、母さんの墓に新しい花が供えてあったことがあってね……それがちょうど、知恵と知り合ってからのことなんだ」

「ふぅん……それはおネエさんでもそのほかの知ってるヒトでもないワケね? そして、菊でもなく、それはユリの花だった、と」

「そう。だからと言って知恵がそうだとは限らないけど、あまりにも符合する部分が多い」

 実は知恵はおれの双子の妹だった、という結論だったとしても、今のおれなら驚きはない。

 相変わらず、雨が降りしきっていた。車に乗り込み、エンジンをかける。ワイパーの速度を全開にしていても、視界は悪い。

「イソガバマワレって、いうョ、こゆときは」

「分かっているよ」

 森本桃子が死んで、ママ・キャサリンも死んだ。そして蔵元知恵が行方不明。普通に考えれば、同じようにどこかで死体になっている可能性が一番高い。しかし、生きていることが前提となると、話は全く変わってくる。

「チエちゃんにあったら、どうするつもり?」

 おれの心を見透かすかのように、ロン・メイメイが言った。応えずに黙っていると、ロン・メイメイも、それ以上は何も言ってこなかった。


 なかもずを出てから、雨は一層強くなっている。知恵が電車で梅田方面に向かったとすれば、時間的に考えて、そろそろ母さんの墓の最寄り駅には着く頃だ。

 AMラジオから、十年前のヒット曲がDJの紹介と共に垂れ流されてくる。聞き覚えのある曲ばかりだった。

 ラジオの音声になんとなく耳を傾けながら、これほど母の墓に頻繁に赴くのはいつ以来だろう、と思い出してみたけれど、はっきりしなかった。それほど遠い過去のことなのだ。

 母が死んだとき、けっきょく側に居ることが出来たのは、おれだけだった。容態が急変した、という連絡は姉さんにも親類にも当然伝えられていたのだけれど、間に合わなかったのだ。

 すい臓癌だった。病名は最後まで本人には言わなかったけれど、薄々は気付いていたのだろう。葬式のあと、遺品の整理をしようと母の部屋に入ると、すでに綺麗に片付けられていて、自分達宛ての置き手紙もそえられていた。これはやよいに、こっちは和也に、という味も素っ気もない内容が逆に母らしくて、そのとき初めて、おれは泣いた。

 けっきょく通夜と葬式はほとんど姉さんが一人で手配した。おれの立場がないほどの手際だった。悲しみを紛らわすためには忙しい方がいい、と一般的には言われるけれど、姉さんが悲しみを感じていたのかどうか、おれには分からなかった。最後まで一緒に生活していたおれと、家を出てなんとなく疎遠になっていた姉さんとの差なのだろう、とそのときは納得していた。

 門先生に会い、姉さんの当時の話を聞いてから、ときおりではあるけれど、怒っている母の顔が脳裏にちらつくようになった。

 挨拶はちゃんとしなさい。語尾まできちんと。お箸をしゃぶらない。髪をいじらない。背筋を伸ばして。しゃんとして。目線は斜め四十五度――

 母の視線の先には常に姉さんがいた。

 台所の片隅で立ったまま押し黙っている姉さん。

 その顔には能面のような無表情を貼り付けていた。ぴりぴりと張りつめた空気の中、不謹慎にもおれは姉さんの姿に見入っていた。後ろで一つにした髪に、潤いがなく少しかさついた唇に、そして、瞬きすらせずに母の顔を凝視しているその眼に。

 


 母さんの墓がある小高い丘にたどり着いたときには、午前十一時を過ぎていた。もう、今日が始まってから何日も過ぎたように錯覚しそうになる。まだ午前中なのか、という感覚だ。

「いるかな? チエちゃん」

「さぁね」

 はじめは足元を気にして出来るだけ汚れないように、とぎこちない歩き方をしていたロン・メイメイも、すぐに諦めて泥の中をしゃばしゃばと歩いていくようになった。赤いピンヒールが、今は鈍い黄土色に見える。

 遠目にも、女性が二人いるのが分かった。一人は部屋着のようなラフな服装の中年女性。おそらく新谷さんだろう、とおれは目算をつけた。

 そして、もう一人――

「チエちゃん!」

 ロン・メイメイが手を振りながら、知恵のほうに駆け寄っていく。おれも早足でそのあとを追いかける。

 逃げられるかもしれないというおれの不安は杞憂に終わった。

「じゃあ、あとは若い者だけで……」

 ほほほ、と何を勘違いしたのか、新谷さんはおれの肩をぽんっと叩いて去っていく。その背中にありがとうございます、と一礼だけして、知恵のほうを振り返る。

 子犬のようなくりんとした瞳に、小さな鼻――目の前にいるのは、蔵元知恵に間違いなかった。

 予想に反して、申し訳無さそうにもせず、むしろ堂々とおれを見て、微笑んでいる。

「遅かったじゃない」

 知恵は、言った。

「何を言ってるんだ? ……というか、今までどこにいたんだ?」

 くすくすと含み笑いだけを返しておれの質問を受け流した知恵は、

「別にわざわざ新谷さんに頼まなくても、最初からここで竹田さんに会うつもりだったのよ? ケータイ見てない?」

 はっとして携帯電話を開けると、メールが入っていた。知恵からのメールだった。墓で待っている、と言う内容だ。

「なるほど……ということは、今までのことを全部話してくれる気になったんだな?」

「そうですね……ちょっと気持ちの整理が必要だったんです。でも、もう大丈夫」

「半端な理由だと納得できないぞ……おれが、というよりも、周りの人も、それに警察も」

「まったくだョ」

 ロン・メイメイも同意を示す。

 森本桃子が死んだ。ママ・キャサリンが死んだ。そして、行方不明になっていた蔵元知恵が生きて現れた。警察が何を疑うか、誰にでも容易に想像がつく。

 そしておれ自身ですら、知恵は犯人ではない、と信じきれない部分が、心のどこかにある。

「話す覚悟は出来たけど、でも、信じてもらえるかどうか、そこが心配」

「いずれにしても、話すしかない状況だと思うけど」

 たいがいのことには驚かない自信はある。

「じゃあ、あなたを信用して、打ち明けます。驚かないでね……」

 おれとロン・メイメイを順番に見つめたあと、知恵は、言った。

「私は蔵元知恵じゃない……私は――


 森本桃子なのです


 知恵の姿をしたその女は、はっきりとそう言った。

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