第34話 ある小児科医の証言 -6

 門医院を出てからすぐに車に乗り込み出発したけれど、森本桃子の父親が今もまだ休みをとって家に居るとは限らないことに思い当たった。携帯電話をとりだし、ロン・メイメイに渡す。

「ちょっと、ご両親がまだいるかどうか、訊いてみて。……葬式にも行けなかったし、ちょっとお焼香だけでもしていきたいとかなんとか、適当に言っておいてよ」

「リョーカイ」

 こういうときのロン・メイメイは頼りになる。森本桃子の自宅の電話番号を探しだすと何の躊躇もせずに発信ボタンを押したようであった。

「二人ともいるってサ。で、なかもず駅のあそこ――このまえいったところまできてくれるみたいョ」


 どこをどう走ってきたのか、定かではないけれど、地元からなかもずまで、体感的には今までで一番早く感じた。時間的にはどうか分からない。ただ、思考が一つの場所でストップしてしまってそれ以上時間が経過しなくなったのかもしれない。

 駅前の駐車場に車を止めて、歩いてなかもず駅改札へと続く階段に向かう。午前九時を過ぎていたけれど、あいかわらず雨が降りしきっており、途中コンビニで傘だけ購入して約束の場所へと急いだ。

 階段の手前の、ちょうど屋根がついているところに、一人の男がたたずんでいた。おれはさらに足を早めた。と、向こうもこちらに気づいたようで、軽く会釈をしている。

「遅くなってすいません。竹田です」

 まともに顔を見られるかどうか、正直自信がなかったけれど、会ってみると意外にもとくに気にはならない。それに、ただの思い違いだという可能性もあった。

「いいんだ。人を送るついでもあったからね」

 柔和な笑みを浮かべる男は、そのまま表情を変えずに、言った。

「ところで、今日の用事は桃子の件? それともなにか別にあるのかな」

 ひやりとする。普通なら、別に何かがある、とは思わないのではないだろうか。ひょっとすると、ここまで迎えに来たのも、奥さんに話を聞かれたくない、ということもあるのかもしれない。

 おれがしばらく黙っていると、

「いや、無いならいいんだ。ごめんね変なこと――」

「いえ」とおれは言葉をさえぎった。

「今日はあなたに用があったんです。用というか、一つ確認したいことがありまして」

 おれよりも少し背が高いその男は、おれの方に視線を向けてきた。おれもその目を見つめ返す。

「分かった。じゃあ、ちょっとそのへんに入ろうか」


 

 今目の前でコーヒーをすすっている男――森本忠史は、桃子の父親であり、また、おれの父親でもあることが分かった。その事実を訊かされても、ああやはりそうか、と思っただけで、特別の感情は何もなかった。こんなものなのか、と自分の感情に意外さを感じながら、おれは別のことを考えていた。

 森本桃子は、おれの腹違いの妹になる。誕生日から考えると、おれが生まれる前にはすでに桃子の母親は身ごもっていたことになる。

「この前君を見たときから、近いうちにこうなるとは思っていたんだ……すまない」

 すまない、と言われても何について謝られているのかも分からない。

「いいわけじゃないけれど、静子に……母さんに、もう金輪際子供達には会わないでくれ、と何度も言われていたのでね」

 母さんらしい、と場違いにも少し笑ってしまう。

「もう母さんもいないんだし、会ったとしても誰にも咎められることはないんだけれど、どうしても踏ん切りがつかなくてね……本当に君と、やよいには悪いことをしたと思っている」

 そのあともしきりに謝罪の言葉を並べていたけれど、当のおれ自身が何とも思っていないので暖簾に腕押し状態だ。だんだん気の毒になってきたこともあり、おれはまったく気にしていない旨を伝えると、それを信じてくれたようで、表情から緊張が取れていくのが分かった。

 場を和ませる、柔らかい笑みを浮かべる父親に、おれは次第に好感を抱きつつあった。

 

 父親は居ない、ということで今まで納得していたつもりであった。それについて、良し悪しの感情は持たない。そう決めていた。しかし、どこかではずっと引っかかりがあって、父親に対する不信感として醸成されていたのだと今は思う。そしてその不信感に気づいていないふりをするために、自分にも嘘をついて無関心を装っていたのだ。自分であって、自分ではない誰かが。そして、その誰かは、父親のことを話題にすることも、興味を持つことも拒んだ。結果的に、自らの旧姓すら知らないという奇妙なこととなってしまった。

「今度、姉さんを連れて来るよ」

 話が弾んできたところではあったけれど、今の自分の状況を思い出し、そろそろ切り上げなければ、と考えて、こう切り出した。衝撃の事実が明らかになったとはいえ、これ以上、今回の事件の謎を解く手がかりは得られそうにない。この思わぬつながりが関係していないとも言い切れないけれど、今は別のルートを当たった方がいいだろう。

 おれがちらと時計を確認する仕草をすると、

「やよい……か」

 と意外にも、煮え切らない返事を返してきた。

「あれ? 姉さんには会いたくない? 聞いた話だと、姉さんとはだいぶうまくいっていたみたいだけど」

 たった今、門先生から仕入れた情報だ。

「いや、うまくいっていたんだけど……だから逆に、かな……あのとき……」

 ぶつぶつと呟く父親の姿に、それまではだんまりを決め込んでいたロン・メイメイが

「あのときって、なにョ」

 と遠慮なく質問を投げかける。

「離婚してからやよいとは一度だけ会ったことがあるんだ。偶然なんだけどね……あれは確か、桃子が四歳だから、ちょうどやよいが十歳のときだ」

 十歳というのが、おれの脳裏にキーワードとして引っかかる。

 父は自分に言い聞かせるように頷くと、言った。

「ちょうどこの――なかもず駅での話だ。なぜかは分からないけれど、けっこう夜遅かったにも関わらず、やよいは一人でホームに立っていたんだ。別れてから五年が経っていたから、それが本当にやよいなのかどうか、正直いうと百パーセントの自信はなかった。だから逆に、しばらくじっと彼女を見てしまったんだ……そして、彼女のほうもこちらを見た。目が合ったのは一瞬だったはずなんだけれど、ずいぶんと長い間そこで時が止まったように感じたよ」

 五才から十才になった姉さんは、その姿形も雰囲気もがらりと変わっていたことだろう。しかし、その頃の父の年代での五年は訳が違う。姉さんは見た瞬間に父に気づいたに違いない。

「でも、そこで私が取った行動は、自分でも信じがたいものだったよ……つまり、気づかないふりをしてしまったんだ」

「サイテー」

 とまたしてもロン・メイメイ。おれはさっと一瞥だけくれて口を挟むな、という意思表明をする。すぐに父に向き直った。

「それで、けっきょく姉さんはどうしたんですか?」

「どうもしないよ」

「どうもしない?」

「そう、そのままこちらを見つめて立ったまま固まっていた。ショックだったんだろうね。それはそうだよね……」

 心の底のほうに、澱のような不純物が少しずつ沈滞していくのを感じていた。生理的に感じるイラつきを押さえ込んだ副作用で生じたものだ。はじめは好感を覚えていた父の評価が、自分の中で変化しつつあった。その当時の、姉さんに対する父の行動に対するものではない。たった今、独白する父に対してのものだ。


「すれ違うときだ」父は続ける。もはや独り言にも聞こえた。

「やよいと桃子が少しぶつかるような形になった。慌てた私はとっさに膝立ちになって桃子の無事を確認したんだ。でも、倒れてしまったのは、むしろやよいの方だった――私はやよいのほうを向かなかった。……向けなかったというほうが正しいね。やよいは、すぐに立ち上がって、そのままどこかに走っていってしまったんだ」

 自分が父の立場だったとしても、同じことをしていたかもしれない。それでも、おれならその記憶は一生、墓場まで持っていく。ふつふつと沸いてくる漠然とした憤りの正体は、自らの非を認めることで逆説的に偽善者ぶる父の態度だ。

「それで、終わりじゃなかった。桃子がそのあとを追って走っていってしまったんだ。どうしてそんなことをしたのか分からなかった。ただ呆然とその場に膝をついたまま、私はしばらく身動きが出来なかった。だから、そのあと桃子がやよいに追いついたのかどうか、何をしていたのか……けっきょくホームを探してみると、桃子はすぐに見つかった。私はそれでほっとして帰途についた」

「何があったのか、そこで桃子さんには訊かなかった、ということですか?」

 少し笑みを浮かべながら、父は頷いた。

「もう、何もなかったことにしたかったんだ。未だに後悔している。そんな弱い自分に」

 それはもういい、と口に出して言いかけて、やめた。ちらちらと時計を気にする仕草をしていると、父のほうから、

「あ、そろそろ行こうか。ごめんね……ここの支払いぐらいはさせてくれ」

「じゃあエンリョなくごちそうサマ」

 ロン・メイメイが作り物めいた笑顔で手を合わせる。

「ははは、いいよいいよ。と、知恵ちゃんにもよろしく。またコーヒーぐらいならいつでも奢るって伝えておいてよ。あ、もちろん、君達にもだよ」

「知恵ちゃんって……そうか、聞いてないんですね」

「聞いてないって、何かあったの?」

「知恵ちゃん――蔵元知恵は、今行方不明で捜索中なんです。あの日、桃子さんのお葬式にも来なかったでしょ?」

 父の顔色が、目に見えて変わった。何か心当たりがあるのだろう。おれは父に話すように促す。


「つい今さっきだ」

「?」

「たった今、なかもず駅に送ってきたところだ」

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