第33話 ある小児科医の証言 -5

 門医院に着いて中に通されたときには、すでに先生らしき老人がソファに座ってお茶を飲んでいた。かしこまって挨拶しようとするおれに、

「いいよ、そんな。水臭い。和也君じゃろ? 私はちゃんと覚えているよ。まぁまぁ大きゅうなってのう」

 と、どこか遠くを見るように目を細める。少しこそばゆさを感じたけれど、テーブルの上に並んでいる写真を見て、はっとする。門先生と姉さんが並び、その隣に小さな子供を抱きかかえた母がいる。その子供がおれなのだろう。まったく覚えていないけれど、門先生とは何度も会ったことがあるのだろう。

 向かい合わせのソファーの間にテーブルが置いてある。おれとロン・メイメイは門先生に向き合う形で隣に並んで座った。

「訊きたいのはその当時のやよいちゃん――お姉さんの様子なんだね?」

「ちょっと今、大学の研究でその当時のことを色々と調べていまして、たまたま姉さんに関係がありそうなことが分かったんです。ただ、姉さん自身はまだ子供だったこともあって、あんまり覚えていないみたいなんです」

 細かい事情まで説明する時間はない。説明して理解してもらえる自信もなかった。

 ちゃんと聞いていたのかどうかは分からなかったけれど、とりあえず頷いていたので納得したと考えることにした。

「お姉さんはね、今考えるとSADだったのではないかと思うね」

「SAD?」

「社会不安障害……分かりやすくいうと、あがり性、ってこと。人前でうまく喋れない、異常に汗が出る、手が震える、とかだね」

 大なり小なり誰にでもあるものなのではないだろうか、とおれは自分の経験も鑑みて思う。

「誰にでもあることだ、と今思っただろう?」

 してやったり、という笑顔でおれを指差す。

「そうだ。私も専門ではないから細かいことは分からないがね。病気かどうかの一線は、その程度の問題なんだ。具体的には、生活に支障が出るか否かじゃないか、と私は思っている」

「姉さんの症状は、その一線を越えていた、と?」

 テーブルの上に新しく何枚か写真を並べながら、門先生は頷く。

「常に付きまとう吐き気、食欲不振、そして、睡眠障害……あの子の場合は体にも症状が出ていたからね。というより、もともとあの子がここに来た理由がそういった身体症状だったんだよ」

「それがいつ頃のことですか?」

「ちょっと待ってよ……この写真がそうだから……」

 とすでにテーブル一面に広げられた写真から一枚を手に取り、

「多分五才ぐらいのころかな。ちょうど和也君が生まれたころ……そうそう、思い出した。来てちょっとしてからすぐに離婚するやら何やらでバタバタしてたみたいだから」

「うまれてからすぐにリコン?」

 ロン・メイメイがこちらを指差してくる。

「だから、おれは父を覚えていない。うちの家では父は最初から居なかったことになっているんだ」

「じゃあ、別れた理由とかもしらないのコト?」

 知りたくもない、というのが正直なところだ。そもそも居ない人間の人となりなど気にしたこともない。

「詳しくは知らないけど、他に女の人が居たらしいね……ま、もう君も十分大人だから言うんだけどね」

「そうですか……姉さんの体調不良も父のことが絡んでいるのかもしれませんね」

 当たり障りなくこの会話を終わらせようとして口にしただけのセリフだった。しかし、老小児科医は予想外に腑に落ちないという表情で、唇を固く結びテーブルの上のどこか一点を見つめている。写真を見ているのか、それとも何も見ていないのかは分からない。

「じつは、私の考えはちょっと違うんだ。ちょっと違うというか、むしろ逆だったんだ」

「逆? ……どういうことですか?」

 ようやく顔を上げておれのほうに目を向けた門先生は、にこりと笑みを浮かべ、

「静子さん……お母さんは、たしか亡くなったんだったね。あの人はよく出来た人だったよ。離婚してからも慰謝料も貰わずに自分で稼いだ分だけで二人の子供を育てて……私みたいな怠惰な人間にはとうてい真似の出来ないことだよ」

 先生が何を言いたいのかを量りかねていると「でも」と少し自嘲気味な笑いも交えながら、続けて話し始めた。

「立派過ぎたんだ。だからこそ、逆に女が一人で生きていくことの難しさも身に染みて分かっていて、それでやよいちゃんのためを思って、あえて厳しく教育をしていたみたいだね……和也君に対しては少し違っていたみたいだけどね」

 下の子供だったからなのか、男だったからなのか、今となっては分からないけれど、あまり母から厳しく怒られたような記憶はない。

「初めて私のところに来たやよいちゃんは、酷く何かに怯えているように見えた。何度か顔を見せたあともそんな感じだったから、すごく人見知りする子なんだとなんとなく思っていたんだけど、ある時一度だけ、父親と二人で来たときがあってね。そのときに気づいたよ……あの子が怯えていたのは、私ではなく、実の母親だったということに」

「……そう、ですか」

「母親の前ではいつも無表情で、何とか笑みらしきものを浮かべたときもどこかぎこちない、子供らしくない子供だったんだけれど、父親と来たときの彼女は別人のようだったね。少し肩の力が抜けた感じというか……もちろん体調は悪いから疲れているようには見えたんだけれど、逆にその疲れを母親の前では見せられなかったのかもしれないね」

 四六時中一緒にいる母親の前では疲れることすら許されず、一挙手一投足を自分が最も恐れている人物に監視されている。それが幼い姉さんにどれほどの重圧だったのかは、想像に難くない。

「何年かはそんな状態が続いていて、彼女は快方に向かうどころかむしろ酷くなっているように見えた。ガリガリに痩せて、ある種悲壮感すら漂わせていたやよいちゃんを見かねて、思い切ってお母さんに言ったんだよ」

「原因は母さんだっていうことをですか?」

「そうだね。そこまではっきりとは言っていないけれど、あまりしからないでください……という程度だったかもしれない。どんな言い方をしたかまでは覚えていないけれど……だけど、お母さんにとってはそれが気に入らなかったんだろうね……それはそうだ。良かれと思って厳しくしているのに、それを否定したんだから。ある意味、自分の人格を否定されたような気になったのかもしれない。それで一度口論になったことがあってね。あの時は私も少し若すぎたのかもしれない。もっといい方法があったはずなんだけれど、けっきょくはそのまま喧嘩別れ。お母さんが探してきた別の病院へと変わると言ってきかなかった」

「それが六本木医院なんですね」

「そうだよ。紹介状を書いて、渡したんだ。その後のことは聞いていなかったけれど、今は立派に社会人として働いているという風の噂が耳に入ったときは本当にほっとしたもんだったよ」

 とんとん、と肩を叩かれて振り返る。ロン・メイメイが手で何か合図を送ってくる。その仕草でようやく思い出した。そもそもこれを見てもらうために来たのだ。

「このポーチに見覚えはありませんか?」

 ディスプレイに映るピンクのポーチを指差す。と、すぐに「ああ」と頷いた門先生は、

「いつもやよいちゃんが持っていたポーチだね。こんなものまだ置いていたんだね」

 ほら、という表情を作り、ロン・メイメイに向き直ると、彼女も納得した様子で引き下がった。

 扉が開いて、初老の女性がお盆を持って入ってきた。気づいた門先生はテーブルの写真を片側に寄せてスペースを空けた。とん、と中央に置かれた大皿には、こんがりと焼けて膨らんだ豆もちが並んでいる。醤油の入った小皿が三人分、それぞれの目の前に並ぶ。

「ごめんね。こんなものしかなくて」

 女性は笑いながら、ちらちらとこちらに視線を送ってきた。

「そっちはやよいちゃん……じゃないわよね?」

「ロン・メイメイいいます」

 ぺこりと頭を下げるメイメイに、女性も頷くように頭を動かした。

「こっちが和也君だよ……ほら、あのとき赤ちゃんだった――」

「まぁまぁ、あのモリモトさんとこの和也君が……大きくなってねぇ」

 誰か別の人と勘違いしているんじゃないか、と門先生のほうを見たけれど、修正する様子はない。おれは立ち上がり頭を下げた。

「竹田です。竹田和也です。すいません、全然覚えていなくて、奥さん、ですよね?」

「ああ、ごめんごめん、紹介が遅れたね。家内だよ」

 女性は慌てた様子でお盆を両手でかかえこむようにしながら、頭を下げた。

「モリモトさん……ああ、ごめんね、今は竹田さんだったわね」

「え? どういうこと?」


 ――モリモト、という名前が頭の中でこだましている。

   『今は』竹田さん、と女性は言った。


「モリモトって……」

 ロン・メイメイがおれに向き直る。おれはその視線は無視して門夫妻に、訊ねた。

「ひょっとして、おれの旧姓はモリモトっていうんですか?」

 きょとん、と瞬きもせずに沈黙した二人は、次の瞬間には顔を見合わせて吹き出すように笑い始めた。

「なんだ、自分の旧姓も知らなかったのか?」

「はい。なにせ、うちではもともと父親は居なかったことになっていましたから」

「いくらなんでも、やよいちゃんは覚えていただろう?」

「それは分かりません。姉とはそういう話をしたことがなかったので……それよりも、モリモトって、森林の『森』に、読む本の方の『本』であってます?」

 二人が頷いた瞬間から、どきんどきんと心臓が早く鳴り始めたのが分かった。

「ちょっと、どゆコト? そんなことって……」

「まだ確定じゃないけど、ただ、偶然にしてはあまりにも出来すぎている気がする……」

 脳裏をよぎったのは、森本桃子の遺体を確認しに行ったときに現れた、彼女の父親だった。娘の亡骸に崩れ落ちる母親とは対照的に、なぜか俺のほうにじっと視線を向けていた。そう考えてみると、不自然にも感じる。

 おれが立ち上がると、ロン・メイメイもそれに続いた。

「すいません。急用を思い出しました。もうすぐに出ないと」

 せっかくの豆もちを申し訳ないという気持ちもあったけれど、こんな精神状態では何も喉を通るわけもなかった。

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