第31話 ある小児科医の証言 -3
ガールズバー『ペレストロイカ』の従業員用控え室で待つこと4時間。半分以上は机に突っ伏して寝ていたのだけれど、さすがに痺れがきれてきた。酒でも飲んでやろうかとよっぽど思ったけれど、後のことを考えて何とか思いとどまる。終電頃に来てくれたらちょうど合流できるはず、とロン・メイメイは言った。その言葉を信じてはるばるミナミの街に来たのだ。
『我少々遅れマス。店まで来て待っててチョーダイな。雨も降ってるデショー?』
という一通のメールから様子がおかしくなってきて、それから4時間が経過したのだ。明日――というより、もう夜が明けている時間帯なので、今日ということになるけれど、調査に回るために車を借りることとした。
雨天ということもあり、電車、徒歩、自転車では限界がある。さらにレンタカーを借りる金はない。この店の車は何度かは使わせてもらったことはあった。
「2台あるから気を使わずにじゃんじゃん使ってもいいョ」
と、ロン・メイメイは胸を張るけれど、当然ながら彼女の所有物でもなければ、特別に許可を取っている様子もない。ただの自己判断だ。しかし、おれにとってはどちらでもとにかく借りられるのであれば構わなかった。
「ちょっと待っててね。あの子も、もうすぐ上がりだから」
ときおり、店員に声をかけられる。そのたびに目を覚ましてまた机に顔をあずけるという同じ動作を繰り返しながら、頭の中ではこの数日に起こったことが次々に脈絡なく浮かんでは消え、また急に脳裏をよぎっていく。
まず、六月二十八日木曜日の朝、森本桃子の死亡が確認された。そして蔵元知恵は、翌日の葬式に顔を出すことなく姿をくらませ、今も行方不明だ。六月三十日土曜日の夜、ママ・キャサリンの死亡が確認された。
ざっくりと見積もると、死後1日~2日程度、胸部と腹部の刺し傷からの出血が主な死因だろうと今日電話で話したときに陸奥は言っていた。そして、犯人を特定するのは非常に困難だ、とも付け加えていた。
おれにもなんとなく察しがついた。あの店自体がアンダーグラウンドの存在で、ここ数日でどんな人物が通っていたのかは特定できない。唯一分かっているのが、六月二十八日木曜日の晩におれたちが訪れたことだけだ。口にはしなかったけれど、陸奥の頭の中には第一容疑者としておれが挙がっているのだろう。昨日の今日でわざわざ向こうから電話をしてきたことが何よりの証拠だ。
また落ち着いたら話を聞かせてもらう、と陸奥は言っていた。こちらが落ち着いてから、というより、検死の結果やらその他の調査結果がまとまったら、ということだとおれは解釈した。せいぜい2~3日だ。それまでに事の真相を明らかにする必要がある。
自分の身を守ることが第一、そして、気分的にどうにも納得がいかない、というのが第二。優先順位をつけてはみたものの、心の中で第二の理由のほうがしだいに膨張してきてはちきれそうになっている。焦燥感、ぶつけようのない怒り、そして足元がおぼつかない不安感覚。それらの感情が入り乱れて、別の何かへと変化していた。それは使命感に似ていたけれど、微妙にニュアンスが違う。好奇心にも似ていたけれど、それも違和感がある。とにかく何とかしなければ気がおさまらない、という本能的な感覚がおれを包み込み、一種の高揚感を与えていた。
ロン・メイメイが控え室に戻って来たときにはすでに朝五時半過ぎであった。
「あいやー、もうこんな時間ね。なんせ帰らないお客が……」
としきりに言い訳をするロン・メイメイを制しておれは立ち上がった。
「よし、行くか」
「どこに?」
「決まってるだろ。『ルーマニア』だよ」
「え? 何? なんで?」
「ちょっと、気になることがあってね……現場を確認したいんだ」
首をひねりながらも促されるまま車のキーを手渡してきた。早歩きで外に出た。ロン・メイメイも小走りで付いてきた。
雨は上がっていた。濡れて異臭を放つ繁華街を抜け、一直線に駐車場へと向かう。十台程度の駐車スペースがある。その中でひときわ目立つピンクのセダンが『ペレストロイカ』の車だ。キーの開錠ボタンを押す。前方のライトがてかてかと点灯する。
「安全運転でヨロシク」
助手席に乗り込んできたロン・メイメイは、出発するとすぐに眠りに落ちた。目の下あたりにはメイクで隠しきれない隈がうっすらと見られた。疲れているのだろう。
おれは堺筋に出ると、ただひたすら北へと進む。平日の夜明け前とあって、普段ほどの交通量はなかった。並んで走っている数台の中型トラックをなんとか追い越して、さらにアクセルを踏み込んだ。ぐん、と体に重力がかかり、シートに押し付けられる。助手席から「うン」という少し色気のある声が漏れてくる。ちらとだけ目を向けると、苦しそうに眉間にしわを寄せ、もぞもぞと悶えるように体をゆすっている。
ぽつ、ぽつ、と、フロントガラスを叩く雨粒はみるみるうちに大粒になり滝のような雨が降り始める。おれは急いでワイパーを全開にする。きゅきゅきゅ、とゴムの擦れる音がして視界が開け、そしてすぐに雨粒に覆われる。ゲリラ豪雨というやつだろうか、と少しアクセルを緩めながら、視線をナビにやる。そろそろ右折する必要があるようだ。
規則的な寝息に混じって「うンうン」といううなり声と歯軋りが聞こえてくる。どうやら本格的に睡眠にはいったようだ。
『ルーマニア』の近く、できるだけ目立たないところを選んで路上駐車した。ロン・メイメイの肩をゆすって起こそうとしたけれど、なかなか目覚めない。寝ぼけているのか、手を振り払おうとしている。おれは諦めてキーだけは抜いて、車を出た。
シートが雨に濡れないようにすばやくドアを閉め、屋根のある道まで走る。顔にかかった水滴を袖で少し拭き取り、一度車のほうを振り返る。異様に浮いているピンク色の車の中で、ロン・メイメイはまだ寝ているようだ。逆に車内に人がいてくれたほうが駐車違反になりにくいかもしれない、とおれはいい方に考えながら、先を急ぐ。
午前七時前、ぽつぽつと人の姿が見えた。おれは『ルーマニア』へ続く路地へ入る。当然、警察による立ち入り禁止の札が掲げられている。札をつるす紐をくぐりぬけて、奥へと進む。
行き止まりのような引き戸を開けて階段を降り、手探りで扉を確認する。一度、ノブを回してみたけれど、案の定、鍵がかかっている。警察がどうにか鍵を手に入れて施錠したのだろう。予想の範囲内だ。おれはショルダーバックから鍵を取り出した。『ルーマニア』の合鍵だ。
中は昨日来たときよりも雑然としていた。テーブルの上にはペンや書類、小物類が放置してある。部屋の四隅に設置されているシーサーも、微妙に位置がずれている。おれはそろそろと周りには触れないように進み『ゴミの部屋』へと進む。
幸い『ゴミの部屋』は殺害現場だったためか、その時の状態が保存されているように見えた。当然ママ・キャサリンの死体はすでに無い。彼女が残した『ドン・アンジェラ』というダイイングメッセージも、それらしき場所にうっすらと黒い染みが残っているだけであった。警察のほうで拭き取ってしまったのだろう。
ゴミの山へと目を向ける。
黒いスーツケース、チェックの柄のボロ布、古びたサングラス、壊れた携帯電話、ブラウン管テレビ、靴下、持ち手が破れたポーチ、ラジカセ、カバーの取れた分厚い単行本、穴の空いた日本の国旗、扇風機――
いつ見てもまったく統一感がなく、支離滅裂だ。しかしこの光景のどこかに確かに違和感を覚えたのだ。何に対する違和感なのか、おれは目を閉じて考えてみる。と、まずルーマニア伯爵はいったいどうしているのか、という疑問が浮かぶ。もともと普段の生活については謎のヴェールに包まれていた。しかし、このような状況になっても、まだこの部屋にゴミを運んでこようとするのだろうか?
――ちがう、そうじゃない。おれが違和感を抱いているのはそのことじゃない。もっと現実的で物理的なものだ。それがなんなのか、もう自分の中では八割方答えは分かっているはずなのに、それが出てこないのがもどかしい。
おれはふっと息をついて腕時計を確認する。車を出てから、いつのまにか二十分ほどが経過していた。そろそろ八時になる。またいつ警察が来ないとも限らない。
おれは携帯電話を取り出し写真撮影モードに切り替え、念のため部屋の様子を写真に撮っておいた。どのあたりに気をつければいいのかが分からなかったため、全体の写真に加えて、各部のアップも一枚ずつ撮っておく。
「よし、もう行くか」
『ルーマニア』に来るのもこれが最後になるかもしれない。そう思うと少し心残りだったけれど、今はそれどころではない。
おれは『ゴミの部屋』を出て、出口へと向かう。外へ出ようとノブに手をかけたその刹那、思わぬ力で手前に押されることになる。手を離して後ろに一歩下がる。背を向けたときにはもう遅かった。
入ってきたのは陸奥だった。何か怖ろしいものでも見つけたかのように目を見開いてこちらを凝視している。
「お前……」
おれは観念して振り返り、少し微笑を浮かべてみた。「おはようございます……早いですね」
なんとも間の抜けた言葉だと自嘲してしまったけれど、他に何も言うべきセリフが浮かばなかった。
「早いのはお互い様だな」
状況を把握し終えた様子の陸奥が、その場に立ったまま、ちらちらとあたりの様子を伺っている。
「ちょうど今日君に会いに行こうと思っていたんだ。手間が省けたよ」
「陸奥さんはここに何をしに?」
「なぁに、おれは現場が好きなもんで。署に行く前にちょっと見ていこうと思ってな。一晩寝てスッキリした頭で見たら何か見つかることもあるからな……まぁ根拠のない経験論だがね」
「そうですね……それで、何か収穫はありそうですか?」
「そうだな」とちらと奥を覗き見る陸奥に、おれは手でどうぞ行ってください、とジェスチャーする。
「いや、いい。もう収穫はあった……君にちょっと署まで付いてきてもらおうかな」
すっと頭から血が引いて、その次には背中にひやりと汗の冷たさを感じた。
陸奥は無言でじっとこちらを見つめていた。地上へと続く唯一の出口の前で仁王立ちして一歩も動く気配はない。
「そうですね……どうしましょうかね……」
と愛想笑いを浮かべてみたけれど、陸奥はまったく笑わない。部屋の温度がどんどん下がっていくような錯覚を覚えた。反対に、手のひらはじっとりと汗で濡れている。背中も脇もびしょ濡れだ。額を手で触れると、今までに感じたことのないほど粘性を持った脂汗で覆われている。
「ここでお見合いしてても仕方ないだろう?」
右手を差し伸べてくる陸奥。
「そう……ですね」
おれがその手を取ろうとした、その瞬間、ばたん、と扉が開く音と「火事だ」という叫びが同時に聞こえた。すぐに身を翻して扉を飛び出そうとした陸奥が、何かにぶつかってこちらに飛んでくる。おれは反射的にその体を受け止めて、その勢いで二人とも地面に叩きつけられた。
と、扉の向こうから舞い込んできた白い気体が一気に部屋に充満して何も見えなくなる。逃げなければ、と立ち上がろうとした刹那、目に激痛を感じた。思わず手で顔を覆いながら、それでも立ち上がる。
息を吸い込むと、暑いような痛いような感覚が体中に広がり、咳が止まらなくなる。どこかから陸奥のものらしき咳が聞こえてくる。なんとか外へ、とおれは手を伸ばす。と、その手が、柔らかいものに触れる。その冷たさには覚えがあった。おれはそれをがっちりと掴む。やはりロン・メイメイの手に間違いない。ぐいぐいと引っ張られるままに必死で付いて行き、止まったところでゆっくりと目を開けてみる。
「備えあれば憂いなし、ということョ」
ゴーグルとマスクを取り外しながら、ロン・メイメイが得意げにスプレーの缶をおれに見せてくる。
「さっきの煙はそれか?」
「そうそう。防犯用ネ」
話しながらも、早足で路地を抜けた。相変わらず降りしきる雨の中、何とか車にたどり着き、とりあえずエンジンをかけて出発する。
十五分ほど走っただろうか。大阪の中心部から抜けて、少し閑静な地域へと入っていた。その間、車内は無言の時間が続いた。また寝ているのか、とロン・メイメイを覗うと、その様子はなかった。
「眠くないのか?」
「大丈夫。三十分で回復する女とは私のことョ」
「それはそれは……」
「で、次はどこに行くつもり?」
「さぁ」
メイメイがこちらに視線を向けてくる。おれは知らぬふりで通す。と、左手にカフェが見えてきた。早朝にも関わらず営業中のようだ。おれは左折のウインカーを出す。
「じゃあちょっと休むか」
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