第30話 ある小児科医の証言 -2
ロン・メイメイは今日もチャイナ服に身をつつみ、その上から薄いストールを羽衣のように巻きつけている。夕闇のなかでその厚い唇がてらてらと輝いている。角度によっては目の周りもところどころ光って見える。ラメ入りのアイシャドーだろう。
「今日も仕事か?」
「そうそう、最近ひとり辞めちゃってね~。けっこういっぱい入ってた子だったから、もうたいへんョ」
雑多な人間が集まる大阪の繁華街とはいえ、ロン・メイメイの姿は浮いていた。通り過ぎる人がちらちらとこちらを見てくる。もしおれとロン・メイメイと二人だけだったなら、どこかそういう店に同伴で行く途中だと大多数の人に思われただろう。
「その『ルーマニア』というバーは近いのかね?」
陸奥が、しきりに周囲の様子を気にしながら、おれに催促するように訊いてくる。若者が行き来する街に慣れていないのか、どうにも居心地が悪そうに見える。反面、乙はいつになく落ち着いた様子で、鼻歌交じりである。
「それほど遠くはないですけど……こっちです」
おれは先頭で歩き始めた。ロン・メイメイが、隣に並ぶ。陸奥と乙は、二人の後ろに付いて歩く形になった。『ルーマニア』のことは、森本桃子失踪の事情聴取のときにも軽く触れる程度には話をしていたけれど、そのときには聞き流されていた。ただ、今回また同じバーが絡んでいるということで、陸奥が興味を持ったようである。ロン・メイメイに詳しい話を聞くのも、その店がいいだろう、となし崩し的に『ルーマニア』まで案内することになってしまった。
いつも通りの道筋で、『ルーマニア』へと向かった。
昨日知恵に会った、というロン・メイメイの言葉を信じるとすれば、一昨日、おれと梅田で別れたあと、一度は帰宅して、次の日――つまり昨日、自ら行方をくらませたと考えるのが妥当な考えとなる。ロン・メイメイの勘違いだとすると、話は違ってくるのだけれど。
道中、ロン・メイメイは、珍しく無言だった。一度ちら、と表情を覗ったとき、それに気づいた彼女がおどけたように舌を出して応じてきた。おれは軽く微笑で受け流す。電飾が煌びやかなビルの間を抜け、チェーン店系のファーストフード店を横目に、十字路で立ち止まった。赤信号だった。
どこかから、ケタケタと馬鹿笑いが聞こえる。コンビニの前にたむろしている十代らしい男女数人だった。なんとなく眺めていると、すぐに信号が青に変わる。おれは横断歩道を渡り、繁華街の大通りよりも一本前の道を折れた。
「こんなところにあるんすか? 初めてっすね」
乙がきょろきょろと周囲を見回しながら、おれの隣に並んだ。怖がっているように見える反面、興味をそそられているようにも見えた。
地下へのドアを開ける前に、おれは立ち止まり後ろを振り返る。少し遅れて付いてきていた陸奥に視線を向けた。
と、きょろきょろと周囲を見回しながら陸奥が言う。
「おい、行き止まりか?」
「さっきの約束は大丈夫ですよね? 今日ここでは事件についての話しかしない、ってことで。それと――」
「心配するな……非合法でやってるところなんざ、ごまんとあらぁな。もしここがそうであっても、おれには関係がない。金輪際、おれたちがここに来ることもない……そうだな? 乙?」
「あ、ハイ。そっすね」
乙の軽い返事には若干の不安はあるものの、仕方がない。二人もの人間が行方不明で、そのうちの一人はすでに死亡が確認されたのだ。直前に二人とも同じ店に出入りしていたとなれば当然、調査対象になる。
おれは二人に背を向け、扉を横滑りさせて開けた。地下へ続く階段を下っていく。背後では、乙がかっけーかっけーと騒いで陸奥にたしなめられている。
「なんか……変?」
ロン・メイメイが呟くように言った。
おれはとりあえずそれには答えずに、少し急いで階段を降りていく。
いつもこの時間には灯されているはずの『ルーマニア』という文字をかたどった電飾が点いていない。
手探りでノブに手をかける。抵抗なく回り、扉が開く。中も真っ暗だった。
「おい、どうなっているんだ?」
背後から、陸奥の叫び声が反響して聞こえてきた。おれは無視して、うろうろと壁に手を這わせる。心臓の鼓動が早くなっているのが、自分で分かった。
一瞬、ひやりとした弾力のある物に手が触れた。思わず叫びそうになったけれど、なんとか飲み込む。
「わたしわたし」
というロン・メイメイの声で、それが彼女の手だったことに気づいた。どうやら彼女もおれと同様、電気のスイッチを探しているようだ。
と、ふわっと明かりが灯った。乳白色の柔らかい明かりだ。
「おお」と乙が感嘆の声を上げる。
おれが足を踏み出すより先に、陸奥が無言で歩き始めた。キッチンを抜けて奥へと歩いていく。おれは慌ててその背中を追う。
ルーマニア伯爵による『ゴミの部屋』へと続くドアが、うっすらと開いている。陸奥は迷いなくそちらへと足を向けている。
やめてくれ、そこには入らないでくれ、と心の中で誰かが悲鳴をあげていた。おれであって、おれではない誰か。それでも胸の中を容赦なく引っ掻き回されているような、胃袋がひっくり返りそうな不快感。
その痛みは、陸奥が一歩踏み出すたびに大きくおれに降りかかってくる。冷や汗が吹き出す。自分の心臓の音しか聞こえなくなる。思わず手を伸ばす。陸奥の肩にその手がかかる直前、ばたん、というその音だけが、おれの世界の全てになって、体の動きが止まった。何も動かない。だめだだめだダメだダメだダメダダメダ。思考がぐるぐると循環する。手も足も、瞼も唇も――
「陸奥さん……何が……あ!」
乙の叫びで、おれは我に返った。
目の前には依然見たゴミの山――あの時よりもさらに量が増えているように感じた。そして、その山のふもとに位置する部屋の入口付近に、ひときわ赤い物が横たわっている。それを、新しいゴミが一つ増えた、とおれの頭が判断した。ただの赤いゴミだ。そう思いたい、というおれの願い。
「ママさん!」
ロン・メイメイがおれを押しのけて、その赤いゴミの前に崩れ落ちる。それに触れようとしたところで、陸奥に体をつかまれた。乙が慌てた様子で陸奥と同じようにロン・メイメイを取り押さえる。と、すぐに大人しくなり、ぺこりと一礼だけして、ロン・メイメイが立ち上がった。その彼女の肩にぽんと一度だけ手をやった陸奥が、こちらを振り返った。
「どうやら、さっきの約束は守れそうにない……申し訳ないがね」
陸奥の姿はおれの視野には入っていたけれど、本当の意味で見えてはいなかった。輪郭だけが、残像のようにちらついていた。意識は全て、その赤いモノに注がれていた。
――ママ・キャサリンが、死んでいる。
おれのなかで、正確にこう認識できたのは、日が変わってからのことになる。
今はただ、赤黒い粘着質な液体の上にうつ伏せに寝ている人の姿と、その液体を使って何かを描きかけている右手が、映画のワンシーンのように脳裏に映し出されているだけである。
「ドン……アン……ラ? なんだこれは?」
陸奥の呟きに、おれは思わず『ドン・アンジェラ』だ、と返答してしまった。
その死体の右手が、描く文字のことだ。何文字かは踏み荒らされたようになって消えていたけれど、頭の中で当てはめてみると、確かにそう読めた。
「ダイイングメッセージ?」
乙が、なぜか嬉しそうに訊いてくる。
陸奥も、おれの方に目を向け、
「『ドン・アンジェラ』とはいったいなんですかな?」
状況がまだ整理できていないこともあった。そして『ドン・アンジェラ』について陸奥に話しても一笑に付されることは容易に想像できた。
しばらく黙っていると、
「いずれにしても」と痺れを切らしたのか、陸奥がまとめに入った。
「後日、改めて事情を聞かせてもらいましょうかな。そのときには是非『ドン・アンジェラ』のことも教えていただきたい」
ルーマニアを出て陸奥と乙、そしてロン・メイメイとも別れ、一人家路についた。
梅田で電車に乗り、最寄り駅で降りる。ふらふらと何となく歩いていたら、アパートにたどり着いた。どこをどうやって帰ろう、という自分の意思はなかった。ただ漠然と歩いて、いつの間にか部屋にいた、という印象だ。その自然な流れのままジャック・ダニエルの瓶を手に取り、口へと持っていく。無意識に、飲み下す。二口、三口……すると、不思議と頭が冴えてくる。酔いが回ってくると意思がはっきりしてくる。今日の出来事がぐるぐると脳裏を駆け巡る。
それを振り払うように、さらに瓶を傾けてぐびぐびと飲み下す。正常な思考が出来なくなるまで、ただひたすら琥珀色の液体を体内へと注ぎ込んだ。
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