第29話 ある小児科医の証言 -1

 この日、土曜日にもかかわらず椋山研究室の談話室には、かつてないほどの張りつめた空気が漂っていた。少なくともおれが知っている限り、この部屋がこれほど逃げ出したい空間になったことはない。

 椋山教授、中村準教授、そして、芦高浩平と、おれ、さらに、なかもず女子大の古賀教授、衣笠希、がソファーに順番に座っている。

 その面々の逃げ道を閉ざしているかのように、入口に仁王立ちする陸奥と乙。


「まだ、彼女とは連絡つきませんかな」

「はい、なにせ夜の仕事で、次の日は夕方まで寝ているらしいので」

 おれが答えると、不機嫌そうに唇をへの字にまげて、そうか、と呟いた陸奥がちらと自分の腕時計を確認する。正午は過ぎていたものの、夕方と呼べる時間ではない。ロン・メイメイの起床時間にはまだ数時間あるはずだ。

「仕方がない。先に始めさせていただきましょうかな。皆さんに集まっていただいた理由は、分かっていますか?」

「はい」と椋山教授が代表で答える。

「昨日から行方が分からなくなっている蔵元知恵さんの件だと考えているのですが」

「そうだ……まぁそれだけではない。先日死体で発見された森本桃子の件もある。まったく無関係だとは思えないのでね」

「そ、それは、ひょっとして、蔵元さんも……」

 浩平が上ずった声で、陸奥に尋ねる。口元がひくひくと引きつっているようにも見える。

「いや、無関係ではない、ということは即、同じようなことになっている、と言うわけではない……そうだな。まぁありがちな例で言うと、友達が死んでしまったショックを自分の中で整理するために、しばらく世間との関わりを絶つ、とか、まぁそんなところかな」

 もしそれだけならどれほどいいか、とおれは心の中で反論する。自分の浅はかさに対する後悔の念も陸奥の楽観的な説明への反発を後押ししていた。

「しかし、まぁ……葬式にも顔を見せずに失踪するってぇのはちょっと解せないところではあるんだがね」


 森本桃子の死体が発見された日、ショックを受けていることを想像して、おれは蔵元知恵を『ルーマニア』に呼び出した。意外にも冷静な知恵の様子に、おれは安心しきってしまった。以前にも同じように「エムちゃん」という彼女の友人が亡くなった経験がある、という言葉も、おれの油断を助長した。

 あの日、梅田近辺のホテルに宿泊する姉さんと別れたあと、知恵とは駅の改札前で別れた。状況としては、森本桃子が失踪したときと酷似している。ただ、最後に見送ったのが、芦高浩平か、おれか、という違いがあるだけだ。警察が二つの事件の関連を疑うのも無理はない。


「もう一度聞きますが、木曜日の晩に一緒にいた、というのは間違いないですな? それで、改札前で別れた、と」

「はい、姉さんにも聞いてもらったと思いますけど……」

 何度目かの同じ質問に、首をかしげるおれに、乙がいつになく真剣な表情で帽子を取りながら、

「身内の証言は証拠にならないんですよ」

「馬鹿! 乙……」

 陸奥は、何か苦い草でも口に含んだように顔をしかめる。

 身内の証言は証拠にならない、と乙は確かに言った。なるほど――

「容疑者、というわけですか?」

 おれは極力作り笑いを心がけて表情を作る。

 乙は口に手を当ててくいっと首を前に押し出し、無言で陸奥に侘びを入れたようであった。そのまま後ろに引き下がる。

 陸奥はちらとだけおれを覗き見るようにしたあと、ぐるりと一周、談話室に視線を這わせて、

「我々としては、ですな。完全に事件が解決するまではあらゆる可能性は考慮に入れて、真相の究明にあたらねばらないのです。その辺はご理解いただきたいところなんですがね」

『あらゆる可能性』のなかに『梅田発なかもず行き』電車の都市伝説までは含まれていないようだけれど。

「くれぐれも言っておきますが、竹田さんだけではなく、関係者全員について今は調査しなければならないのですよ」

 関係者全員、と陸奥が口にした瞬間、浩平の肩がぴくりと反応したのが分かった。

 中村準教授はあからさまに不機嫌そうに唇を結んだまま、腕を組んでいる。ときおり部屋の時計に目をやる姿や、右足の貧乏ゆすりが「早く終わってくれ」という彼の気持ちを如実に表していた。

 こういった空気の中にいるだけでストレスになってしまう。そういう意味ではおれも早く終わってくれ、という意見に異存はない。ひととおり皆の様子を確認したあと、陸奥に目を向けた。

 こちらの思いに気づいていないのか、それとも気づかないふりをしているのか、どちらにしても彼はこういった状況には慣れているのだろう。一度咳払いをしてから、陸奥が言った。

「それでは、ひとりひとり、別々に話を聞きたいのですが」

 視線を向けられた椋山教授が、応じた。

「それなら教授室を使ってください。わたしはしばらくこちらの部屋におりますので」



「彼女とは連絡つきませんかな?」

 陸奥と乙の待つ教授室に入ると、まずこう訊ねられた。彼女、という言葉を初めは行方不明になった蔵元知恵のことだと勘違いして、探りを入れられているのかという疑心暗鬼に囚われたけれど、

「学生にも関わらず夜の仕事とはね……まったく……」

 と続いたことで、ロン・メイメイのことだと気づいた。

「もうそろそろ起きるころだと思いますけど……今もう一度電話してみましょうか?」

「これが終わったら頼む」

 どうやら、陸奥が質問して乙が全ての記録をメモするという役割分担になっているようである。ただ、陸奥の目の前にも自分のメモ帳が置いてある。おそらく重要な部分は自分でも記録しておくのだろう。乙に対する信頼度はそれほど高くないようだ。

「もう君と話すことはあまりないのだけれど、まぁ形式的に一応聞いておきますのでね」

 陸奥はこういって笑顔を浮かべたけれど、おれは少し緊張を感じてしまう。まったく身に覚えがないとはいえ、疑われていることは事実である。気持ちがいいとは言えない。

「森本桃子さんが失踪したときの状況から一通り、説明してもらってもいいですか? その前後数日の行動から、昨日、蔵元知恵さんと連絡がつかなくなるまで……かいつままなくてもいい。時間はあるから詳細に語ってくれるとありがたい」

 何から話そうか、とおれが少し考え始めたとき、携帯電話のバイブ音が鳴り出した。おれはポケットから取り出し、ディスプレイを確認した。ロン・メイメイだった。陸奥に向き直ると、おれが訊くよりも早く、どうぞ、と電話に出るように促してきた。

「もしもし、起きた?」

 起き抜けだったのだろう。しばらくは中国語らしき呟きが続き、

『はいはいな。何か用事かいな?』

 いつも通りの口調だった。彼女はまだ、蔵元知恵が行方不明になったことを知らない。説明しなければならないと考えると、気が重くなる。それでも、言うしかない。

「あー、と。ちょっと驚かずに聞いて欲しいんだけど……蔵元知恵、いるだろ?」

『蔵元知恵……って知恵ちゃんのこと? それがどないしたン?』

「えーと、な。何て言うか……まだ決まってるわけじゃないんだけど……」

 口ごもるおれに業を煮やしたのか、陸奥が手を差し出してきた。代わってくれ、ということらしい。

『知恵ちゃんって言えば、偶然昨日知恵ちゃんに会ったヨ』

「ちょっと待って。昨日会ったって?」

『そう。なにやら変な感じやったョ。こっちに気づいたら逃げるように走り去ってしまったネ』

「昨日って……本当に昨日? 昨日のいつ?」

 傍らで、乙がメモを取り始めた。

『う~ん。正確には分からないョ、たぶんふぁ朝8時ぐらいかナ』

 どこで、と聞こうとした瞬間、陸奥がおれの手からひったくるように電話を奪い取った。

「お久しぶりです。陸奥です……えーと、警察のものですが」

 何度か受け答えはなされたようだったけれど、けっきょくは今からすぐに会うことに決まったようであった。陸奥は最後に、

「じゃあ、梅田駅前で。着いたらこの携帯電話に連絡ください」

 と確認するように言うと電話を切った。おれのほうに携帯電話を差し出し、軽く頭を下げてくる。奪い取ったことに対する謝罪なのか、それとも、新情報提供に対する感謝なのか、判然としない。ただ、着いたら『この携帯電話に』連絡するように、と言っていることからして、おれも当然一緒に行くものと決めてしまっているらしい。

「続きは道中で聴きましょうかな」

「他の人はいいんですか?」

「優先順位の問題でさぁね」

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