第28話 柳沢倫太郎 ~青年時代 -5

 手の震えが、止まらなかった。

 どきんどきんと猛スピードで打ち鳴らされる心臓の音が、誰かに聞こえてしまうのではないかと心配になるほど大きく聞こえた。

 焼けるような臭いと、吐き気をもよおすような生臭さが次から次へと押し寄せてきて、ともすれば気を失いそうになった。

 いっそのことこのまま失神してしまったほうが楽なのかもしれない、とふと思ったけれど、昂ぶった感覚は、よりいっそうはっきりと彼の脳に状況を伝えてくる。逃げ場は無いのだ。


 警官たちが死体の片づけを始めた。ずるずると引きずったあとには、赤いレールのような筋が残る。幾本も積み重なっていくうちに、一階のフロア全体が赤いまだらの絨毯を敷きつめたような状態になっていた。

「ちゃんと綺麗にしておくように」

 大富豪ロンと裏切り娘ユェンファが、寝室へと消えていった。


『芸術こそが、至高のものなのだ』


 唐突だった。はじめは誰かに見つかって声をかけられたと思い冷や汗が吹き出した。


『芸術以外に価値のあるものなど、この世には存在しないのだ。何もかもすべては芸術のためにある』


 ここまで聞いてから『声』が降りてきたのだ、と気づいた。

 今までには一度も聞いたことのない内容だ。芸術家という生き方をしろ、という意味のことは何度も降りてきていたけれど、芸術についてそれ以外の言葉が降りてきたのは、初めてだった。


『龍の涙を受け止める花弁を探すのだ。そしてかの地へと向かうのだ』


 視界が揺れた。ぐらりぐらり、と恐ろしいほどゆっくりと、目の前の景色が八の字を描いて、回っている。

 手を伸ばす。自分の手が、磨硝子越しに見ているかのように、非現実的に意識された。手が景色と共にぐらぐらと揺れている。

 一筋、縦にジグザグと黒い筋が入る。その瞬間、視界が破れた、と思った。

 徐々に太くそして果てしなく黒く闇色に染まっていくその筋から、さらに細かい亀裂が広がっていく。直線を描くもの、曲線の途中から蛇行し始めるもの、割れ方は千差万別だったけれど、それらの亀裂からも、次の割れが広がっていき、もはや視界が蟻の行列に埋め尽くされたような、テレビ画面の砂嵐を早送りにしたような、極微細な黒い縞模様に覆われていく。


『目に頼るな』


 色が消えた。光も消えた。闇が訪れた、と初めは思ったけれど、暗いというわけではないことに気づく。光も闇も、何もないのだ。


『耳を切り捨てろ』


 目の部分がただの空洞になっている人の顔が、脳の中でイメージされた。その口角が裂けていき、粘着質な液体の隙間から、歯が覗いている。鋭利な物体が降りてきて、すぱん、と顔の両脇を削ぎ落としていった。


『鼻はいらない。口は邪魔だ』


 ドクロのイメージが浮かんで、消えていく。


『何もいらないのだ。ただ、存在していることだけで十分だ。お前という存在を、極

限まで研ぎ澄ますのだ。鋭利も鈍麻もない。ただ、研ぎ澄ますのだ』


 シン、という硬質な静寂が耳を貫いた。

 倫太郎は飛び起きた。

 思わず、自分の目と耳に手を持っていき、そこにあることを確認した。唇に触れ、最後に鼻を確かめた。何も変わっていない。

 ここまではっきりと『声』を聞いたのは初めてだった。その意味は、じっくりと考えなければならない。ただしそのためには、今ここを生きて出なければならない。


 小さな照明だけが点けたままにされていて、歩く程度なら問題はなかった。彼は立ち上がり、下の階を覗き込んだ。先ほどまでの騒ぎが嘘のように、一階のフロアは綺麗さっぱり片付いていた。無数に積み上げられていた死体はどこかへ移送されている。警官たちの姿も見えない。おそらく事態は収拾したと見て、撤収したのだろう。

 彼は一度一階まで降りて、あたりを確認した。何もない。逃げ出すにしても何か武器になるようなものは必要だと考え、警官たちの忘れ物を期待したのだけれど、当てが外れた。

 がしゃん、と陶器か何かが割れるような音が、聞こえてきた。思わず音が聞こえてきた方角へ目を向ける。二階――大富豪とユェンファが入っていった部屋だ。

 ドア越しにでもこれほど大きな音が聞こえたということは、相当大きなものが破壊されたはずだ。彼は反射的に逃げようと身を翻す。外へと続くドアに手をかけた瞬間、背後で、きききと扉が開く音が響いた。ぺちゃり、ぺちゃり、と粘着質で場違いなほどに落ち着いた足音が続く。

 ノブにかけていた手を離して、ゆっくりと振り返った。二階の先ほど盛大な音を立てていた部屋の扉は開け放たれていた。そこから、出てきたのはユェンファだった。ゆっくりと歩を進め、階段を降りてくる。

 逃げなければ、と頭では分かっていたけれど、体が動かなかった。

 広い空間でユェンファのほっそりした体だけが、ふらふらと動いている。機械仕掛けのようなその動きに恐怖を感じ、虚ろに濁ったそのまなこに、戦慄を覚えた。

 薄い明かりに照らされた彼女は、全裸だった。ぺちゃり、ぺちゃり、と真っ直ぐにこちらへと向かってくる。

 一歩近づくごとに、足音が倍になってくるように感じた。

 

 ぺちゃり

 ぺちゃり、ぺちゃり、

 ぺちゃ、ぺちゃ


 倫太郎の視線は、その足元に釘付けにされていた。顔を見るのが恐ろしくて、自分からそうしていたのかもしれない。

 

 どす黒い、足。

 

 初めは泥の中にでも入ってきたのか、とありえない推測をした。

 彼女との距離が遠めに見積もっても二、三メートルの今、はっきりと分かる。

 黒く見えていたのは、実は深い赤色だった。それは、つい先ほどこのフロアに盛大にぶちまけられていた液体と同じように見えた。

 よく見ると、足首だけではなく、体中、いたるところに赤い斑点がこびりついている。うっすらとではあったけれど、生臭い臭いが鼻腔に届いた。


「りんたろう、生きていたんだね。良かった。こっちへおいで」

 さらに一歩、血まみれの少女は足を踏み出す。

「さぁ」

 ぺちゃり、とさらに一歩、近づいてくる。

 倫太郎は一歩、後ろに下がった。

 と、それまで不気味な無表情を貼り付けていた彼女の顔が、みるみるうちに歪んでいく。眼球が飛び出しそうなほど目を見開き、口角は耳まで裂けるのではないかと思えるほど、左右に引きつった。

「なぜ! なぜ逃げる!」

 倫太郎は少し視線を逸らし、ちら、と二階の、彼女が出てきた部屋を見た。

 ほんの一瞬だけだったのだけれど、彼女はそれに気づいたようだった。急にもとの虚ろな無表情に戻る。ただ彼にとっては、そちらの顔のほうが恐ろしかったのだけれど。

「心配しなくても、殺したわ」

「殺した? なぜ?」

「なぜ……なぜって、そんな分かりきったことを聞くの? おかしな子ね」

 くつくつと、喉の奥だけで笑っているように見えた。目はまったく笑っていない。

「さぁ、こっちへ……来なさい!」

 最後は叫びだった。飛びかかってくる。見開かれた目が、倫太郎の目前に迫る。彼は後ずさろうとして、後ろ向きに倒れた。ぐるり、と視界が回転する。足が言うことをきかない。

 と、腹に強烈な圧迫感を感じた。反射的に声が漏れる。息ができない。顔にも激痛が走る。途切れがちな意識の合間をぬって赤い肌が見えた。血走った眼球。獣の牙のような血に染まった前歯、どす黒い口腔。

 このままでは駄目だ、と彼は全身に力をこめる。とにかく動くところは全て思いっきり動かした。腕、足、腰、頭――

 いったい何がどうなったのかはまったく分からない。ただ、気がついたら絶叫しながら転げまわっている自分がいた。そしてそんな自分を冷静に観察しているもう一人の自分。

 彼は落ち着きを取り戻し、なんとか上半身を起こした。体の至るところで、激痛が走る。彼は無視することにして立ち上がった。

 血だまりの中で、ずりずりと悶えるように体を動かす生き物がいた。ユェンファなのだと分かっていた。しかし、彼はそれをただの獣だと見なした。

 ちょうどかたわらに設置されていた金属製の巨大な壺を両手でかかえ上げ、血だまりへと向かう。

 まだうろうろとその場でうごめいているその獣の上に、壺を持っていく。

 一瞬だけ、ユェンファがこちらに目を向けた。そして口を開いて何かを言いかけたとき、壺が落下した。

 固いものと柔らかいものが同時に押しつぶされたら、こんな音がするのかもしれない。

 壺を持ち上げ、もう一度、血だまりの獣へ向ける。すでにぴくぴくと痙攣のような動きしかしていないその生物に、今度は力いっぱい壺を叩き付けた。


 壺を持ち上げて、叩きつける。

 壺を持ち上げて、叩きつける。

 

 自分でも何をやっているのか、わからない。

 ただ、壺を持ち上げて、叩きつける。

 

 彼は絶叫していた。

 日本語でも中国語でもない。

 それは、獣の咆哮だった。

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