第27話 柳沢倫太郎 ~青年時代 -4
突入してからは無我夢中だった。視界がほとんど利かないのだ。ただひたすら走って屋敷の中に侵入した。明かりをつけるわけにはいかない。どたどたと足音が聞こえては遠ざかっていく。手探りで前に進もうとしたところで、背後から肩をつかまれて腰を抜かした。じっと見下ろしてきたのは仲間の一人だった。
皆、混乱していたのだろう。屋敷の人間を締め上げて主人の居場所を吐かせる、というのが当初の計画ではあった。ただじっさいにはそれどころではない。彼は個人的に作戦を変更することとしてとにかく上へとつながっている階段を探した。
屋敷は三階建てのはずだった。そして、三階のある部屋の人影が何人もの従者に服を着せてもらっているのを何度か目撃した。その人物こそ、目的の大富豪に違いない。彼は自分にそう言い聞かせてただそのことだけに意識を集中した。
恐怖と不安が、次から次に押し寄せた。そのたびに、彼は足を速めた。急げば急ぐほど足は絡まって転びそうになる。なんとか体を立て直すと、それまでは高揚感で忘れていた疲労が、一気に倫太郎を攻め立ててくる。手足が重い。息ができない。
ぱしゃん、と一瞬、シャッターがきれるような音がした瞬間、視界が真っ白になった。
思わず目を閉じた。ゆっくりと、薄目を開けてみる。まだ、世界は白く輝いている。何が起こった? なにがどうなった?
誰かが間違って明かりを点けてしまった、という希望的な予想は、すぐに打ち破られた。
階段がずどんと全て吹き抜けになっており、倫太郎のいる踊り場からは、一階のフロアが全て見渡せた。
十数人はいるだろうか。ぴりっとした警官服を着て、おとりで逃げたはずの白髪交じりの男と小柄な男に拳銃を向けている。二人は完全に観念して両手を高々と掲げるのみであった。
ユェンファが、二階の一室から現れた。がっくりとうなだれて両手を上げている彼女の姿を見て、初めて自分達は失敗したのだ、と気づいた。
ユェンファが出てきたのと同じ部屋から、一人の男が現れた。その太った男を見た瞬間、警官らしき人たちがみな揃って頭を下げた。この屋敷の主人なのだろう。
「もっているものを捨てて、手を上げろ」
太った男が、ずっしりと野太いけれどかすれた声で言った。屋敷のなかで呆然と成り行きを見守ることしか出来ていなかった中間達が次々と男に従っていく。拳銃などを向けられれば仕方がなかった。
「そのまま、そっちに集まれ」
一階のフロアの一角に、中間達が集められた。体を寄せ合うようにして恐怖に耐えているように見えた。
ここまで観察してから、はっと気づいた。自分も両手を上げなければ、と少し慌てた倫太郎は、それでも残り僅かな勇気が状況を冷静に判断させた。
――気づかれていないかもしれない。
彼を除く全員が一階のフロアにいた。ユェンファだけが二階で大富豪と思しき人物の目の前にいるけれど、倫太郎はそれよりもさらに高い場所に、一人ぽつんと座っている形になっていた。彼は音を立てないようにそっと体を動かし、手すりの影に身を寄せた。警察も、大富豪の男も、彼の行動を咎めようともしない。気づかれていないことを確信した彼は、あたりの様子を伺う。武器になるようなものはないか、逃げ道はないか。
目的にしていた三階を通り越して、さらに上へ、屋上へと続く階段を登っていたようであった。いったん屋上に出てほとぼりが冷めるのを待つという手もある。
けっきょく、まずは状況を見守ることとした。このまま皆が警察に連行されれば、大富豪の男達が寝静まったあと、こっそりと逃げ出すことができる。
逃げ出す前に、大富豪の寝室と思われる部屋に隠れておいて、今までの恨みを思う存分晴らした上で金品を奪って逃走する、というシナリオまで思い浮かんだ。
「はい、こんなもんで、いいですかね?」
倫太郎が色々と画策していると、聞き覚えのある声で、誰かが気の抜けたような発言をした。そっと下を覗き見た。組織にいた白髪交じりの男だった。おとりになってつかまってしまったはずの男が、今さら何をいうのだ、とその言葉の意味を量りかねていると
「リー、裏切ったな!」
ユェンファの叫び声だった。今にも飛び出しそうになるユェンファに、警官たちがいっせいに拳銃を向けた。さすがの彼女も大人しく引き下がる。
「ユェンファよ。世の中はもっとうまく渡らねばならんぞ……ファンピン、もういいぞ」
白髪交じりの男は、隣で手を上げていたもう一人のおとりの男に顎で合図を送った。
その小柄な男はにやりと笑みを浮かべると、
「あー、肩が凝った。三文芝居もなかなか疲れるねぇ」
と、首を鳴らす仕草をしてたあと、ぐるぐると両肩を回してみせた。
「おい、警官! この大悪党から何を吹き込まれたのか知らないけど、捕まえるのならこいつらの方だ!」
ユェンファは片手は上にあげて、もう一方の手で大富豪、さらに今まで仲間だと思っていたリーとファンピンのほうを指差し、さらに声のトーンを上げる。
「証拠なら、ちょっと調べたら、すぐに――」
唐突に、少女の言葉が途切れる。その同じ口から、舌打ちと共に何やら倫太郎には理解できない中国語のフレーズが漏れる。スラングなのだろう。
警官の様子がおかしいことに、彼女も気づいたのだろう。彼女が話し始めてから、妙ににやついていたり、お互いに顔を見合わせて首をかしげたり、と不可解な動きを繰り返していた。
「分かっただろう。わたしが吹き込んだのは言葉ではなく、金だよ」
警官は全て、大富豪に買収されていたのだ。
太った大富豪は、警官に「やれ」と一言呟くように言った。爆発音のような銃声が轟く。思わず耳を覆った。おそるおそる下へ視線を向ける。煙幕のような白いもやに混ざって、中間達の居る一角から、どす黒い液体――血液が大量に流れ出していた。
ふひゃひゃひゃ、とひきつけのような笑い声を上げているのは、ファンピンと呼ばれていた小柄な男だ。
「これは傑作だ……血が、血が、血が」
気がふれたように血という言葉を発するファンピン。その様子を横目に見ながら、白髪交じりのリーが、言った。
「ロンさん、約束は守ってもらいますよ」
「約束?」
「はい」と今度はファンピンが話に割り込んでくる。
「その女、ユェンファは我々が好きにしてもいいって、うひゃうひゃ、約束でしたよね」
人でなし、と思わず叫び出しそうになったけれど、なんとか自制した。今ここで自分に出来ることは何もないのだ。
「さぁて」
ロン、と呼ばれた大富豪の男は、そのでっぷりと肥え太った腹を大儀そうに揺らしながら廊下を進み、2階の踊り場へと進む。壁際にしつらえられている椅子に腰を下ろす。
その後ろを、ユェンファが付いていく。ただ、どこか様子がおかしい。何か違和感を覚える。
と、よく見ると、警官が誰もユェンファに銃を向けていない。守るべきロンの目と鼻の先にいるにもかかわらず、まったく警戒されていない。当のユェンファはそっとその手を椅子の背もたれにかけた。顔には、微笑が浮かんでいる。酷薄で、いかにも楽しげな、笑みだ。
「どうするよ、ユェンファ?」
言うと、ロンはユェンファの腰をそっと引き寄せ、椅子のひじ掛けに座らせる。
ユェンファはふふふ、と声を漏らし、
「死んでもらいましょ」
ロンがくいっと顎を前に出して、警官に合図を送る。
警官たちの銃口が、いっせいにリーとファンピンのほうへと向く。
二人はまだ何が起こったのか分からないようだった。奇妙な静寂が、その場を包み込んでいた。かたわらに累々と積み重ねられた死体の山からは、とどまることなく血液が流れ出していた。それはまるで、いくつもの支流が合わさって大河になっていく様を彷彿とさせた。
「どういうことだ、ユェンファ。何をやっている?もう、芝居はいいんだよ」
リーが、静寂を切り裂くように、叫んだ。
「そうだ、今がチャンスだ、やれ、やってしまうんだ!」
ファンピンの声は震えている。
そんな二人の様子をあざ笑うかのように、大富豪は高らかに笑い声を上げた。
「お前達のたくらみなど、このわたしに見抜けないとでも思ったかね? 全部分かっていたよ。お前達が寝返ったふりをしてわたしに近づこうとしていたこと。それからユェンファともども、逃げようとしていたこともな……しかししかし、ああ、やはり金の力は偉大なり、偉大なり」
大げさに頭を振りながら、ユェンファの臀部をさする仕草をする。ユェンファは、やんわりとその手をつかんで自らの下腹部へともっていく。
「ユェンファ! なぜ!」
「ユェンファ――」
ぱらぱらぱら、とまばらな破砕音が響く。思わず目を閉じて耳を覆った。
少し遅れて、どさどさ、と何かが倒れるような音がした。
目を開けた。ゆっくりと視線をめぐらせる。二階の踊り場には、相変わらずゆったりと腰を下ろしたままの大富豪ロンと、その隣で微笑を浮かべているユェンファが、じっと一点を見つめていた。
その視線の先には二つの人間の姿があった。倒れたままピクリとも動かない。すぐに、じわじわ、と赤黒い液体が滲み出すようにして流れていく。
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