第25話 柳沢倫太郎 ~青年時代 -2
あとから考えると、その少女をリンリンだと思ったのはただの勘違いだった。リンリンと共に過ごした屋敷を出てからこのかた、同年代の少女とは縁が無かった。ただ同じような年齢で、同じような雰囲気をまとった女の子、というに過ぎなかったのかもしれない。すでにリンリンの顔などもうはっきりとは思い出せなくなっていたのだ。似ているかどうかなど、この時の彼にはそもそも分かるはずはなかった。
しん、とひととき、静寂が訪れた。
よく耳を澄ますと、大通りのほうからは人々の話す声が漏れ聞こえてきた。彼は自ら築いた板切れのバリケードの隙間から通りを覗き見た。昼間よりはかなり人通りは減っているようであった。
ようやく脳味噌が眠りから覚めてきた。体は驚くほど軽くなっていた。腕やら頬の傷はすでに体が修復を終え、かさぶたができている。右足は相変わらずずきずきと痛んだけれど、出血は止まっているように見える。ただ、巻きつけた布切れを剥がしてみる気にはなれない。
ゆっくりと、右足を踏み込んでみた。まだ、痛みは来ない。そのまま、左足を上げてみる。まだ、大丈夫だ。おそるおそる、片足で跳んでみた。着地の瞬間、ぴりっと全身に電流が走ったように感じた。傷口が割れたような感覚だ。ずきん、ずきん、という周期的な鈍痛が広がっていく。
やはり傷は深い。ゆっくりと歩いて慣らしながら、軽率な行動を後悔した。と同時に、今後どうするか、という問題が頭をもたげてくる。
とりあえずは追手を撒いて逃げることには成功した。そのことで少し安心してしまっていたのだけれど、それはただの第一段階に過ぎない。本番はこれからどうやって生き延びるか。そして『龍の涙を受け止める花弁』へどうやって近づくのか。
残念ながら『声』は相変わらず具体的な指針を示してはくれない。ただ、空の高みから気まぐれにお告げが降りてくるのみだ。いったい、自分にどうしろというのですか、と何度も問いかけた。どうしてこれほど苦しめるのですか、と。その数え切れないほどの彼の懇願にも、『声』は応えなかった。
彼は考えるのをやめて前を見た。
穴がある。周りには板切れと毛布が散らばっている。ゆっくりと穴に近づいていく。
少女が出てきたのはつい先ほどのはずだったのだけれど、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。現実味がない。
幻覚ではないか、と自分の記憶を疑いすらした。けれど、穴の両端には誰かが手でつかんだ跡がくっきりと残っている。彼はそっとその手の型に自分の手を当てはめてみた。明らかに、彼よりも小さな手形。それは、少女が現実のものであることを証明しているような気がした。
おそるおそる中を覗き込んだ。と、かすかではあるが、遠くに明かりが見える。もう少し頭を奥へと突っ込んでみる。しだいに目が闇に慣れてきた。壁伝いに一定間隔で鉄の棒のようなものが突き刺さっているのが、ぼんやりとではあるが見えてきた。
選択肢は幾つかあったけれど、穴を降りてみる道を、彼は選択した。
思ったよりも早く、底にたどり着いた。昼間であれば、もしかしたら上から簡単に底が見える程度なのではないだろうか。これほど地面と目と鼻の先に地下道を作ってしまって、落盤のおそれはないのだろうか、といらぬ心配をしながら、先へと足を踏み出す。
ちょうど両手を左右に伸ばせば壁に届く程度の幅だ。目の高さに五メートルおき程度に電灯が設置されている。どこから電気を取っているのかは分からなかったけれど、石のようにもコンクリートのようにも見える地面と壁は、思いのほか頑丈に見えた。
天井までは光が完全には届いていない。おそらく背丈の倍程度だろう、と彼は推測して確かめるためにジャンプして思いっきり手を伸ばしてみた。案の定、その手は空を切る。着地の瞬間、右足にずきん、と電気が走る。反射的に「ぎゃっ」と叫んでしまい思わず口を押さえた。反響音がこだまし、奥へと吸い込まれていく。
地下道を発見したことで、彼は少し浮き足立っていた。右足の傷も、自分が今どういう状況に置かれているかということも、忘れていたのだ。
彼はただひたすら前に進んだ。壁には何度か扉のようなものがあった。そのたびに立ち止まり、慎重にノブを回してみたけれど、開く気配がなかった。
視界の先のほうで、電灯が途切れていることに気づいた。ひょっとしたら行き止まりなのだろうか? と漠然とした不安を感じながら、それでも歩き続けた。
行き止まりではなく、扉だった。ただ、今までと同じであれば開かない、というオチだ。そうすれば来た道をただ舞い戻るしかない。
八割方諦めながら、彼はノブに手をかけた。すっと抵抗なく扉が開き、逆に焦ってしまう。
少しだけ隙間を空けた状態で、様子を伺った。今までの地下道とは比べ物にならないほどの光と、複数の人の声が漏れてきていた。内容は聞き取れなかったけれど、何かを言い争っているようだ。中国語はすでにマスターしているとはいえ、早口になるとよく分からないこともある。さらに地方の訛りで四声が異なってくると、よほど集中してはっきりと聞き取らなければ意味を把握できない。
彼はそっと扉を押して隙間を大きくしてみた。声が少し明瞭に聞こえてくるようになった。
女の子の声が一つ――おそらく先ほどの少女ではないか、と彼は推測した――そして、大人の男の声が二種類から三種類。まだ内容が聞き取れない。
もう少し、扉を押してみた。かちん、と小さな音がして、開きかけた扉が押し戻される。と同時に、今までの喧騒が嘘のように、ぴたりと声が消失した。
しまった、と思う間もなく、扉が勢いよく開けられた。
でっぷりと太った中年の男と、白髪交じりの初老の男性が目の前に立ちふさがっていた。中年の男が、早口で何かをまくし立ててくる。意味が分からずただ呆然としていると、もう一度、今度はゆっくりと話し始めた。どうやら、誰に言われてここに侵入したのだという意味のことを訊いてきているようである。腕を組んでこちらをけん制している様子からも、警戒していることが伺えた。
誤解を解くため、これまでのいきさつを全て包み隠さずに説明した。部屋の中には先ほどの男が二人と、その後ろに隠れていた少女が一人、倫太郎を取り囲むように無言で立ち尽くしていた。
自分が日本人であること、騙されてある屋敷に連れて行かれたこと、さらに別の大豪邸――この豪邸のことは三人とも知っているような反応であった――に移って奴隷のような生活を強いられたこと、脱走に成功してこの町までたどり着いたことなど、かいつまんで説明していく。
ときおり白髪交じりの男が、詳細の説明を求めてきた。はじめに行った屋敷には何人ぐらい人が居たのか、次に行った大豪邸にはどのぐらいの同じように捕まっていた同胞が居たのか、そこでは具体的にどのような仕事をさせられていたのか、といったことだ。
その質問の一つ一つに何か意味があるのか、と最初は訝しく感じていたけれど、ひょっとしたら彼自身を試しているのかもしれない、と思い直した。もし彼がどこかからこの地下道のことを探るために送り込まれたスパイだとしたら、経歴も作られたものだ。それならば、どこかでほころびが出てくるはずだ、と踏んで色々とどうでもいいと思われるような質問をしてきているのかもしれない。
深読みかもしれない、とは思いながらも、意識すると余計に緊張してくる。日本語で説明していたら、逆に疑われたかもしれない。自分の母語ではないことで、その緊張が言葉にまでは反映されていないような気がした。そして、多少たどたどしくても許されるのではないだろうか、と開き直ることが出来た。
数十分だったのか、一時間ほど喋っていたのか、それともほんの数分だったのか、時間の感覚が曖昧だった。それほど必死で説明していたのだ。
「ダオラ」
と、それは少女の言葉だ。分かってくれたのか、とほっとしかけたけれど、手で『待て』の合図をされた。そのまま奥の部屋へと連れて行かれ、しばらく待つようにと言われて扉を閉められた。鍵のかかる音がした。
それからが長かった。じっさいには十分程度だったはずなのだけれど、監禁状態にされたことで反射的にこの二年ほどの生活が脳裏によみがえってきたのだ。自然と冷や汗が吹き出した。このまま永遠に閉じ込められるのではないだろうか、またどこかに売られてしまうのではないだろうか。
居ても立ってもいられなくなって薄暗い部屋の中でうろうろと歩き回ったり、ときどきノブに手を伸ばしては扉が開かないことに小さな失望を覚えたり、とにかく落ちつかない。それだけに、扉が開いて目に痛いほどの光と共に笑顔の少女が立っていたときには、体の力が抜けて崩れ落ちそうになった。
それから数日間は地下で英気を養っていた。久しぶりのちゃんとした食事――それは何年ぶりかに感じられた――にもありついた。風呂に入り、今まで身に付けていたボロ布よりはまだマシな服も着せてもらった。右足の裏の切り傷は彼が予想していたよりも酷かったらしく、もう少し放置していたら足を切断しなければならなかった、と言われた。正式な医師ではないけれど、この『組織』で病気や怪我を診ていた男がいて、腕は確かだ、とのことである。その男に治療してもらい、一週間も経てば痛みは無くなった。
当然のことではあったけれど、すぐに疑問が浮かんでくる。なぜ、彼にこれほど良くしてくれるのか。かわいそうな人に対する善意にしてはやりすぎである。ある日、たまたま少女と二人っきりになる機会があり、そのことを訊ねてみた。
「そろそろ話そうと思ってたの」
と、少女がゆっくりとした、そしてびっくりするほど綺麗な北京語で話し始めた。ふと、リンリンのことを思い出す。彼女も同じように流麗な言葉遣いをしていたのだ。
その少女はユェンファと名乗った。同じぐらいの年だろうと推測していたのだけれど、聞いてみると二十歳を越えている、とのことだった。本当かどうかは最後まで不明だった。
彼女達の組織は、ここら辺いったいを牛耳る大富豪の不当な搾取に対するレジスタンスなのだという。その大富豪とは、倫太郎達を奴隷としてこき使っていた人物であった。数年間その屋敷に居たという倫太郎の話から、内部の構造には詳しいだろうということで是非仲間として迎え入れたい、と提案してきたのであった。
屋敷に居たとはいえある一室に監禁されていたため、全体像は全く分からない。さらに、遠目で何度か後姿だけは視界の隅にとらえたことはあったけれど、主人の顔を直接見たことはなかった。そのことは断っておいたけれど、ユェンファの意思は変わらなかった。
選択の余地は無かった。ここで提案を断ったとしても路頭に迷うことは明らかだった。それに、一宿一飯の恩義もある。彼は了承の返事をした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます