第24話 柳沢倫太郎 ~青年時代 -1

 柳沢倫太郎はときおり背後を振り返りながら、全速力で走っていた。誰も追って来てはいないことは分かっていた。それでも足を止めることはできなかった。立ち止まってしまえば、それで全てが元の木阿弥になってしまうような気がしていた。

 背丈ほどの潅木帯が続く荒れた大地を、しゃにむに進む。

 どこまで行けばいいのかも分からない。少し前から、右足の裏がひどく痛む。少しぬかるんだ地面を踏みしめるたびに、ずきん、ずきん、と内臓を突き抜けて脳髄にまで響いてくる。何か鋭利なものを踏んでしまったのだろう。余裕がなかったとはいえ、靴を履かずに出てきたことが悔やまれた。

 デコボコと隆起したささくれた枝が、次から次へと倫太郎に襲いかかってくる。頬もおでこもがりがりと削り取られるような感覚を覚えた彼は、目を細め、両手で顔をかばいながら、歩を進める。

 そろそろ夜明けのはずだ、とふんで脱走を決行したのだけれど、その感覚があっているのかどうかは不明だ。彼を含めて、奴隷達――今の時代には正式にこのような身分はないはずなのだけれど、あえてこう表現しよう――の押し込められた部屋には、時計は無かった。与えられていたのは、一人に一枚の毛布、ぼこぼこの無骨な鉄のカップ、皿が一枚つずつ、そして蛇口が一つだった。


 共に脱走した仲間達はどうなっただろうか?

 体力の限界を感じた彼は、走るのをやめた。と、急激に右足の裏の痛みが気になってくる。再度、今度は軽く駆け足程度にリズムを取りながら進む。なんとか気を散らせて意識を痛みから遠ざけようと試みる。この程度の痛みは、この2、3年――正確な年数は分からない――の生活を思い返せばどうということはないのだ。


 一日の食事はカビの生えたパン一つと、あとは蛇口から出てくる黄土色にくすんだ水のみ。空腹をごまかすため、畑の仕事中に見つけた正体不明の爬虫類やら昆虫を食べた。雑草も食べた。作物に手をつけた仲間もいたけれど、その次の日には姿を消していた。数日後、ハゲタカについばまれる一つの死体が、いつもの仕事場に見せしめのように置かれていた。原型をとどめていないその顔からは判断できなかった。ただ、その死体は右の二の腕から先が無かった。消えた男も、同じ特徴を持っていた。それ以来、同じことをしようとする者は無かった。

 劣悪な生活に耐えかねて、仲間達は次々と目を回して倒れていく。死体は放置され、そのまま腐っていった。恐ろしいほどの腐臭に、最初は嘔吐したけれど、鼻が馬鹿になって気にならなくなった。


 いつのまにか薄い光が潅木に陰影をつけていた。顔を上げてみると、右斜め前から光の束が吹き出すように差し込んできている。ちょうどこの目の前、はるか先に日本がある。北海道はもうすこし左側か、と現実逃避にも似た感慨を覚えながら、少しずつ歩を進めた。

 潅木帯を抜けると、ぽつぽつと民家が見えた。泥を固めたような色の壁に囲まれたそれらの家の前には、洗濯物がつるされている。人がいるのだ。どこかに駆け込むか、という案が一瞬だけ頭をよぎった。しかしそれはあまりにも望みの薄い賭けだ。あれだけの大豪邸なのだ。おそらくはここら辺の住民のあいだでも知れ渡っているに違いない。下手に助けを求めてもまた捕まって連れ戻されるのがオチだ。それだけならまだいい。彼の脳裏に、ハゲタカに食い散らかされていた同胞の姿がよぎる。

 時間帯を考えると、人に見つかる可能性がそれほど高いとは思えない。隠れることよりも、少しでも遠くへと逃げる方を、彼は選択した。


 ずきん、と右足に強烈な痛みが走る。彼は思わずその場にうずくまった。足の裏を確認すると、親指ほどの大きさのプラスチック片が突き刺さっていた。抜き取ると、ぱっくりと開いた傷口から、どす黒い血液が流れ出した。上のシャツを脱ぎ去り手ごろな大きさに破る。幸いボロ布を継ぎ合わせたようなそのシャツは手でも簡単に破ることができた。傷口をそのボロ布でしっかりと押さえ込み、片一方を足首に巻きつけ、さらにもう片一方は足の指に挟みこんでそのまま巻きつけて固定した。立ち上がり、何度か跳んでみた。完全に痛みが無いわけではなかったけれど、耐えられないほどではない。彼はもう一度結び目を確認してから、太陽の方角――東へと向かう。


 ごみごみした町に出た。日はすでに高く昇り、少し汗ばむような陽気だ。行きかう人々にまぎれて、その日の宿を探すことにした。上半身裸で下は最低限の場所だけを隠す布切れ一枚、そして裸足といういでたちだったのだけれど、三人に一人ぐらいは大差の無い姿の住民が歩いていたため、目立つことはなかった。もちろん、お金を持っているわけでもなく、それに代わる物もない。ただ、夜露がしのげるような場所があればいい、とその程度に考えていた。

 三十分ほど歩き回って、その町の構造がすべて分かった。そのぐらい、小さな町だった。何箇所か夜を越せそうな穴場を見つけた倫太郎は、約半日ぶりに緊張から解放された。別人のもののようだった手足の感覚が戻っていく。と同時に痛みも襲ってくる。脈打つように規則的に、右足から、両腕から、頭から。彼は目星をつけていた場所へ戻ることにした。

 ちょうど家と家の間に歩幅ほどの隙間があって、そこを入っていくと奥にスペースがあるのだ。平らな石がちょうど座れる高さに積んであり、後ろにはぼろぼろの毛布が数枚と、大量の板切れが無造作に置かれていた。

 彼は板切れをそのスペースの入口にあたる通路に積み上げてバリケードとした。さらに石の上にも大き目の板切れを何枚か敷きつめ、その上に毛布を一枚被せて簡易的な寝床を作った。もう一枚の毛布を手に取ると、そのまま寝床に横になった。と、空腹感が襲ってきた。食べるものも何とかして調達しなければ、と考えているうちに、強烈な睡魔が彼を眠りへといざなっていった。


『安心するがよい。お前は選ばれた人間なのだ』


 夢の中なのか、現実なのか、判断できなかった。それでもはっきりと『声』を感じることができた。


『龍の涙を受け止める花弁を探すのだ。そしてかの地へと赴くがよい』



 ごりごり、という固いものが擦れあうような鈍い音で、目が覚めた。

 体を起こしてあたりの様子を伺う。

 と、もう一度、今度は体の下から聞こえた。驚いて飛びのくと、今まで寝床代わりに使っていた石がぐらぐらとゆれ、そのままごろん、と横へ一回転する。上に置いていた板切れと毛布も一緒に、彼の足元に転がってくる。思わず後ろへと跳びすさった。

 穴が開いていた。

 自然のものではない。石の形そのままに長方形にくりぬかれたようなその穴から、二本の腕が現れる。穴の両端をがっちりとつかんだ。かなり慣れた仕草のように見えた。

 ぴょこん、と飛び出してきたその顔を見た瞬間、思わず叫びだしそうな衝撃を受けた。ひょっとすると本当に声に出していたのかもしれない。

 その少女は、この地に来て初めて連れて行かれた屋敷にいた娘、リンリンに酷似しているように感じた。似ていた、というより、そのときはリンリン自身が現れたと思った。過去の屋敷での男に犯されたこと、リンリンとの初体験、そして次に連れて行かれた豪邸での奴隷生活、逃亡――走馬灯のように色々なことが頭の中を駆け巡り、なかなか意味のある行動につながらない。

 

 少女のほうも、穴から顔を出したっきり、動きがなかった。じっと倫太郎を見つめている。

 彼は一歩、前へ進み、少女のほうへと歩み寄った。と、少女は少し遅れて、あいや~と声を漏らした。口を開いて片手を頬にそえた。上目遣いで彼を見据え、舌を出して顔を小刻みに揺らす。何のつもりか分からず戸惑っていると、彼女はそのまま穴の中に消えてしまった。

「あ、ちょっと」

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