第20話 相変わらずの『ルーマニア伯爵』 -4


 知恵は、ママ・キャサリンへの挨拶もせず、開口一番「やっぱりここにいた!」

 とおれを指差しながらこちらへと入ってきた。

 浩平が、その後ろでママ・キャサリンにぺこぺこと頭を下げている。

「よぉ、早かったな」と、おれがとぼけて右手を上げると、知恵はモノマネのように低い声で「よぉ」と応じて、すぐに

「……じゃない! 何が『よぉ』よ。メール見たんでしょ? ずっと待っていたんだから」

「そんな、勝手に待っていられても困る。浩平に聞いてない? 今日おれ、体調不良」

「うそ! 酒飲んでるじゃない」

「体調不良だから呑んでるんだ」

 ぴしゃりと言い切る。知恵は反論しかけて、やめたようであった。ふぅ、と大げさに息を吐きだす仕草をする。

「まぁ、いいでしょう。あーあ、せっかくやよいさんも一緒だったのにな~」

「は? どういうこと?」

「スペシャルなお土産がある、って書いてたでしょ」

 確かに、今朝のメールにはそう書いてあった。気にせずに読み飛ばしていた部分だ。

「おれも久しぶりに会ったよ」

 浩平が口を挟んでくる。

 わざわざ休みをとったのかと思ったけれど、よく聞いてみると違っていた。出張で関西に来る用事があったとのことだけれど、おそらく用事があったのではなく、用事を作ったのだろう。

 今日はどこに泊まるのだろうか、と頭によぎった質問には、すぐにおれ自身から『ビジネスホテル』という解答が帰ってくる。

 下手にそんな質問をして、またシスコンだの何だのといわれては面倒だったので、訊かないこととした。

 と、おれが頭の中で以上のような自問自答を繰り返していると、知恵が唐突に質問してくる。

「写真の男って、分かった?」

「写真の男?」

 話に付いていけずに少し間を空けてから、応えた。

「ああ、分かったよ」

「ホント? 誰、誰?」

「六本木先生。姉さんが昔かかっていた小児科医の先生だけど、もう死んでたよ」

 それで今日、次の手がかりである門先生には会えなかったのだけれど、それは伝えないことにした。一緒に行く、と言い出しそうだからだ。

「姉さんからは何か聞き出せた?」

 話題を変えると、知恵はうーん、とうなったあと、

「分からない。聞けたような、聞けなかったような……でも、とにかくやよいさんはシロだと思います」

「シロ? ……ってことは、梅田発なかもず行き電車の都市伝説被害者ではない、ってこと?」

「少なくとも、本人に自覚はないことは確かかなーと」

「それはおれも何となく分かってたけど、ひょっとしたら本人も気付いていないうちに事が起こっていた可能性もあるとは思うけどね」

「そうそう」と知恵がおれの話に乗っかってくる。

「それでね、色々と聞いてみたのよね。昔のことを……そしたら、まぁちょっと体調崩していたような時期があったってことは分かった。それがちょうど、十歳の頃で行方をくらませた時期と重なってくる」

「そのときにお世話になっていたのが、あの写真に写っていた六本木先生だよ」

 ママ・キャサリンがビールを運んできて、知恵と浩平の前に置いた。そして滑らかな仕草で、おれの空いたグラスを手に取りお盆に載せ、

「料理はもうちょっと待ってね」

「あ、気にしないでください。すいません、声もかけずに」

 知恵が軽く頭を下げる。ママ・キャサリンは小さな微笑だけ残して、キッチンのほうへと去っていく。

「何歳ぐらいなのかしら? ママさん」

「さぁ、詳しくは知らないけど、たしかこの店が出来たのが十数年前のはずだから……けっこういってるでしょう」

「あの写真は」と浩平が壁を指差す。上海で料理人をしていたときの写真だ。

「あれが見たところで二十歳ぐらいだとすれば」と、おれが話を引き継いで推測する。

「帰国してすぐに店を始めたとしても、三十代半ばか、ひょっとすると四十すぎてるかもね」

「訊いたことはないの?」

「あるよ……永遠の二十歳なんだってさ」

 あ、そう、と呟いた知恵は、じっと壁の写真を見つめている。

 と、ぐらり、と視界が揺らめいた。続いて、眼球が左右にぴくぴくと痙攣する。

 シャッターを連続できっていったような感覚。

 そして、視野の端のほうから砂嵐になっていく。おれは必死で目をしばたたかせて、こらえる。


 ――ルーマニア伯爵だ。


 酩酊に似た陶酔と、漠然とした不安感。

 ルーマニア伯爵が、近づいてくる。ふわふわと、浮かんでいるようにも、ゆらゆらと左右に揺れているようにも見える。伯爵の透きとおった肌だけが、薄暗い空間に浮き彫りになる。頭痛がする。吐き気がする。刺すような痛みが、脳のいたるところを刺激している。おれ自身が回転しているような錯覚を覚える。体の力は全く入らない。ただされるがまま、回転している。上も下もない。いつもはすぐにブラックアウトするところだったけれど、今日は様子が違う。


 知恵が、ルーマニア伯爵と一緒にふわふわと浮かんでいる。そう見えているだけなのかもしれなかったけれど、今この空間にいるのは、こうして考えて――否、感じているおれ自身と、ルーマニア伯爵、そして知恵だけだ。テーブルも椅子も壁の写真も、浩平も、グラスも何も存在していない。十畳ほどの広さだったはずの部屋が、今は果てしなく広がる荒野のようにも、また逆に一メートル四方の立方体の中に全てが押し込められているようにも感じる。

 

 と、知恵が何かを叫んでいる。内容は聞き取れない。音声として耳にははっきりと入ってきていたけれど、意味として結実しない。

 ばたん、という音と共に我に返る。いつものように、伯爵が奥の部屋へと消えていったのだ。イランイランの香りが、鼻腔に届く。

 テーブルの上にグラスが載っていることを確認して、ほっと息をついて手を伸ばす。と、知恵もグラスに手を伸ばそうとするところであった。その手が不自然に震えているのに気付く。おれは視線を上げて知恵の顔を見た。

 薄い明かりの中でもはっきりと分かるほど、蒼白だった。唇まで色を失っているようだった。不釣合いに、額には玉の汗が浮かび、目は焦点を失っているように見える。グラスへと伸ばした右手の震えを抑えようとしたのか、左手をもっていったけれど、その左手も同じように震えている。

「どうかした?」

 不審そうな様子で声をかける浩平に、ちょっと、と気のない返事をしながら、ゆっくりと視線を彷徨わせて、最後におれのほうへと目を向ける。

 おれを見つめながらも何も言わない。おれのほうからの説明を求めているのが、明らかに分かった。

「感じたんだね?」

「この前会ったときはなんともなかったのに……なんか、よくわからないけど、今ここに居たのに居なかったような、そんな感じが……」

 首をひねる浩平をちらと一瞥だけくれてから、おれは言った。

「おれはいつもそうなんだ。ルーマニア伯爵が視界に入ってから、その奥の部屋へと入っていくまで、そんな感覚に襲われる」

「いつも?」

「最近はね」

「だって……なんというか、変じゃない? なんなのこれ?」

「結論から言うと、分からない」

「分からないって……」

 知恵が両手を頭に持っていって髪をつかんで引っ張ったりくしゃくしゃにしたり、落ち着かない様子を見せた。

 ママ・キャサリンが入ってくる。その手には湯気をあげる料理が二皿載っている。

「慣れたらどうということはないわ」

 皿をテーブルの中央に置きながら、ママ・キャサリンが言う。

「でも、不気味だわ。ほら、まだ手が震えている」

 知恵は引き下がらない。両手を前にかざしてアピールしている。

「一つ、科学的な解釈をするならば、ルーマニア伯爵が何らかの香水のようなものを使っている可能性があるわね」

「香水? でも匂いはしなかったんですけど」

「香水、と言ったら語弊があるかしら。人をそういう精神状態へと導くための薬。但しその効果には個人差がある」

 ああ、と一応は納得したように頷いたあと、今度はルーマニア伯爵が消えていったドアへと視線を向け、

「あの奥にはいったい何があるんですか? 前来た時も気になっていたんですけど」

「ゴミだよ」

 すぐにおれが応える。

「ゴミ? って、表においてあるような黒い袋?」

「ああいう生ゴミ的なものじゃあなくて、粗大ゴミやら家電製品やら……具体的には、バネのむき出しになったソファー、ダンボール、ラジカセ、弦の切れたクラシックギター、何かよく分からない金属の棒、ビニールのヒモ、熊の置物、ペットボトル、洗濯ばさみ、カラーボックス、ブラウン管テレビ……」

「ええと、それって、けっこう広いの? この奥の部屋」

「おれも一回入っただけだからなんともいえないけど……」

「この部屋と同じ、十畳くらいはあるはずよ」

 ママ・キャサリンが助け舟を出してくる。

「へぇ、でも、もったいないですよね。そんな大きなスペースをゴミで埋めてるだけだなんて……」

 知恵の意見はもっともだ。普通の店舗ではありえない。

「いいのよ」とママ・キャサリンは笑いながら、応えた。

「そんなにお客さんが来るわけじゃないし、そもそもこの店自体が闇で営業しているだけなんだから」

「え? そうなんですか?」

「そう、お客は口コミで広まるだけ。たまたま流れてきたのは……ほんとに和也君ぐらいじゃないかな。だから信用できる人だけ連れてきてね」

 知恵はこくこくと二度ほど頷く。

「それに、彼にあの部屋を提供しているのではなくて、逆に、わたしがこちらの部屋を彼から借りているだけなのよ。法的には何の拘束力もないけれど、もともと彼がその奥の部屋を今みたいに使っていて、こっちの二部屋――ここと、キッチン兼カウンターの部屋を店にする許可を貰って営業することにしたの」

「へぇ。そんなにも前からゴミを集めてたんですね」

「そうね……もう十六年前になるかしら」

 はっきりと年数を聞いたのは、初めてのような気がする。

「じゃあ、ママ・キャサリンは四歳のときにこの店を開いたんだね」

 おれが冷やかしたけれど、そうなるわね、と受け流された。あわよくば本当の年齢を聞けるかもしれない、というおれの思惑は見事に打ち砕かれる。

「へぇ、そんな長いあいだ、よくバレずに営業できてますねぇ」

「案外、誰も気にしないものよ。目立つようなことをしなければね」

 少し笑いながら、ママ・キャサリンは続けて言った。

「もしかすると、こんな得体の知れない店には誰も関わりたくないのかもしれないけどね。それに、こんな感じで適当にやっている店なんて、ひょっとしたら無数にあるのかもしれないわよ。日本中の地下に空間があって、そしてそこかしこに住人がいて……って考えると楽しくない?」

 冗談なのか、それとも何かを知っているのか、それは判断できなかった。

 ママ・キャサリンはおれの隣の席に腰を下ろした。


「まだまだ、世の中にはあなた方はもちろん、わたしでも知らないことはたくさん――それこそ星の数ほどあるわ。今あるこの世界の常識からはとても理解できないことなんて、いくらでもあるのよ」

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