第19話 相変わらずの『ルーマニア伯爵』 -3
『今日の昼過ぎには大阪に帰りま~す。また色々とおごられちゃいました! お姉さんはいい人ね~。和也さんと違って(笑) というわけで、状況報告と今後の方針打ち合わせのためにも、夕方にはそちらの研究室に行ってみマース。よろしくでゴザル! なんちって☆ PS・竹田さんにスペシャルお土産有り!』
翌早朝七時半、このハイテンションなメールに睡眠を妨げられたおれは、その不快感を解消するためにケータイを叩きつけるように閉じる。
いつものように嘔吐感と倦怠感が襲ってくる。今回はそれに睡眠不足と酷い二日酔いがミックスされ、余計にいらいらがつのる。
おれはもう一度携帯電話を手に取り、ロン・メイメイと芦高浩平をあて先に選び、『本日』と題名を打ち『体調不良のため、我休養す』とだけ本文入力して送信した。これでどちらかが研究室に行ってその旨を伝えてくれれば万事解決だ。
と、すぐに『我』という題名で返信してきたのはロン・メイメイだ。
『昨日も今日もミナミで仕事。人気商売につき休めず。以上!』
大阪ミナミの怪しげなバーで働いているというメイメイ。かわいい服がいっぱい着られて時給も三千円以上、ときにはお客に一万円札をもらえたり、と嬉しそうに話していたところから、堅気の店でないことは容易に想像がつく。
おれは残る浩平に全てを託すこととして、再度眠りに落ちた。
次に目覚めたのは昼過ぎであった。薄々予想は出来ていたけれど、軽く舌打ちが出た。急いで身支度を整える。携帯電話、財布、そして昨夜六本木医院でもらった紙があることを確認する。
念のため電話を入れると、門院長本人が電話に出て、午後は病院が休みなのでいつでも来なさい、とのこと。
電話を切ったあと、ほっと胸をなでおろす。なんとなくカーテンを開けてみる。と、外は雨だった。しかも、風も少し吹いているようで、横殴りの雨粒が、窓を叩いている。
「マジかよ……」
門医院までは自転車だと二十分以上かかる。タクシーを呼ぶという選択肢も一瞬だけ浮かんだけれど、すぐにかき消して、押入れから古いレインコートを取り出す。
「仕方ないな。覚悟を決めるか」
おれはアパートを出た。
この町には異様に坂道が多い。
もともとは小高い丘であった土地を高度経済成長の勢いにまかせて切り開き宅地としたためだ。しかし、この道のアップダウンを今ほどうらめしいと感じたことはない。力をこめてペダルをこげばこぐほど、大粒の雨が顔の表面を叩く勢いも増していく。
レインコートを身に付けているとはいえ、隙間から入り込んだ水滴で髪はしっとりと水分を含んでいるのが頭皮越しに感じられる。額に張り付いた前髪から垂れてくるしずくが鼻の横を伝って口へと入ってくる。生ぬるく、気のせいか腐臭すら感じられる。ゴムの緩んだ袖口から少しずつが水が入り込んできているらしく、腕のあたりに気持ち悪さを覚える。
十分もすると、レインコートを着ている意味があるのかどうか疑わしいほどの状況に感じられた。いくら一着五百円の使い捨てに近いものだとはいえ、あまりにも酷い。いっそのこと脱ぎ去って全身全霊で自然の恵みを体感してやろうか、という考えがふっと浮かぶ。
何度か道を間違えたけれど、ようやく目的の門医院にたどりついたときにはすでに午後二時を回っていた。
病院、というよりも、由緒ある旧家――もっと言えば、数十年前にうち捨てられた廃墟、と例えるのは少し大げさだろうか。おれ自身、もしかしたら子供時分にお世話になっているのかもしれない。記憶にはないけれど。
何度かノックをしてから、扉に手をかける。引き戸だった。妙に立て付けが悪く、開けるだけでも一苦労だった。もし子供が一人で来るようなことがあったら難儀するだろうな、とどうでもいいことを考えながら中を覗う。照明は点いていたけれど、なんとなく薄暗い。
「こんにちは」
おれはおそるおそる声をかけた。
と、奥のほうから返事が聞こえ、すぐに足音が聞こえる。黒くくすんだ木造の床が、みしみしと鈍く軋んでいる。
「あら、あなたが竹田さんね」
と、言って出てきたのは中年の看護師らしき女性だった。
「先生から話を聞いているわ。でももうあと三十分早かったらねぇ……申し訳ないんだけれど、先生ちょっと急用、というか患者の親御さんから連絡があってね。ちょっと子供の調子が悪い気がするから診に来てくれないか、って……そんなの居留守でも何でも使って断っちゃえばいいのに、ほら、先生ってああいう人じゃない? だから飛んで行っちゃったのよ。でもあれよ。あなたのことを忘れてしまったわけじゃなくて、また明日の午後にでも来てくれるように伝えておいて、と……ほんとにごめんねぇ」
昼の4時前。そろそろ呑みはじめてもいい頃合だとおれは言った。ママ・キャサリンは何も言わずグラスにビールを注いでくれる。
「今日のおれは十分がんばった」
昼間の雨が路面のコンクリートに染みこみ、そのまま気体となってこの『ルーマニア』にまで漂ってきているような、そんなありえない想像をしてしまった。それほど、今のおれの心の湿度は高い。湿り気を通り越して粘り気すら感じられる。脳味噌も、思考回路も、首も肩も腰も、どこか重力の大きな別の星に迷い込んできたかと思うほど、重くのしかかってくる。
開店前のこの時間、まだ客の姿はなく、キッチンで作業するママ・キャサリンと、こうしてくだを巻くおれだけしかいない。
と、バックミュージックとして流れるバド・パウエルのピアノに混じって「実際、どうなの?」と唐突な質問が飛んでくる。
後期のバド・パウエルのピアノは、本人と同様、呂律が回っていないときがある。おれはそんなことを考えながら、ママ・キャサリンの問いを無意識のうちに聞き流していた。
「やっぱり、『魔物』のしわざ?」
今度は声のトーンを一段階上げてきた。
「どうでしょうね」
と、おれも隣のキッチンまで聞こえるように、叫ぶように言った。
「案外、『ドン・アンジェラ』のしわざかもしれないですよ」
「まさか」
おれの冗談を本気にしたのか、それともそれはそれとして受け流してくれたのか、どちらとも判断つかない。
「だって、『ドン・アンジェラ』が唯一の救いの神だっていう定説には、何の根拠もないでしょう」
なかもず駅の次の駅に迷い込んでしまったものが、こちらの世界に帰ってくるための唯一の方法、それが『ドン・アンジェラ』に会うことだ、ということなのだけれど、会ってどうするのか、どこに行けば会えるのか、そもそも『ドン・アンジェラ』とは何者なのか、男か女か――そういった細かい情報は皆無なのである。
「そんなことないでしょう……現に帰って来た人がいるぐらいなんだから」
「帰って来た人が『ドン・アンジェラ』に会ったのかどうか、ということですよ」
「だから、帰って来た人が向こうで出会ったのが『ドン・アンジェラ』なのよ」
何を言っているんだ、と反射的に反論しようとして少し引いてみた。
『ドン・アンジェラ』に出会ったから返って来られたのではなく、帰って来た人が向こうで出会ったのが『ドン・アンジェラ』だ、という理論。なんとなく言いくるめられたような、明らかに何かをすりかえられたような。
ドアの開く音と、聞き覚えのある男の声がした。渋いバリトンの声だ。
「あら、久しぶり」
いつの間にか開店時間を迎えていたのだろう。ママ・キャサリンが応対に出た。以前たまに見かけていた常連の一人だ。たしか、商社に勤めていて海外を飛び回っているという話だったはずだ。
男はカウンターの席に陣取る。おれはそのまま奥の部屋のテーブルで呑むこととした。彼とも一度『梅田発なかもず行き』関連の話をしたことはあったけれど、とりたてて新しいことを知っているというわけでもなかった。ただ、海外にも同様の都市伝説がある、といくつか例を挙げてくれた。本当なのか嘘なのか、彼がでっちあげたのか、その真偽のほどは分からないけれど、物語としては面白くまとまっていた記憶がある。
また、扉が開く音が聞こえた。
今度は、蔵元知恵と芦高浩平であった。
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