第18話 相変わらずの『ルーマニア伯爵』 -2

 思ったよりも遅くなってしまった、とおれは少し後悔しながら足を速める。

 

 母が亡くなったあと、実家に一人残されたおれは、その家を綺麗さっぱりと処分することとした。一人にしては広すぎることと、通学には少し不便な辺鄙な場所にあったことがその理由だ。

 面倒な手続きは姉さんと遠縁の親戚に任せて、おれは近くにアパートを借りることにした。家庭の事情で利子の付かない奨学金に当たったとはいえ、それほど余裕があるわけではない。出来るだけ安い場所を、とおれは妥協に妥協を重ね、今のボロアパートに移り住むことを決意する。

 最初のうちは同情もあってもともと近所に住んでいた人が差し入れを持って訪れたりということもあったのだけれど、半年後にはめっきり無くなってしまう。そもそも、おれ自身の付き合いが良かったわけではなく、母の人望がそれをさせていたのだから、当然のことだ。

 それから4年が経つ。

 実家には自転車でも何とか来ることが出来る場所だったため、ときおりふらりと訪れていた。そのこともあるけれど、久しぶりに来てみて、全く景色の変わらない町だ、という感想をいだいた。ここだけ時代の流れから取り残されたような、それでいて急速に古くなっていく、町の景色。数年ぶりに知った顔に会うと、やはり年月の重みを感じる。

 おれが十八まで暮らしていた実家には、大掛かりな改装がされたあとある若い夫婦が越してきたようだ。その後子供が生まれたのかどうか、おれは知らない。とくに興味もなかった。


 夜八時。不気味なほどに静まり返った坂道を、自転車で登っていく。

 所々に電灯は灯されているのだけれど、チカチカと鈍く明滅を繰り返すものや完全に切れてしまっているものもあり、それほど明るくはない。物理的な明度よりも、点かなくなった電灯を直そうとする気配が感じられないことに、おれは少し寒気を感じる。無気力で、うら寂しく、時の流れが感じられない町。ただ、ほんの少しの安らぎは与えてくれる、そんな故郷の風景。

 坂を登りおわるとT時路に突き当たる。おれは右におれて微妙な下り坂を進み、すぐに自転車から降りる。

 その目の前の表札に『新谷』という文字が記されていることを確認してから、チャイムを鳴らす。

「あら珍しい、和也君じゃないの」

「あ、どうも」

 出てきた初老の女性に頭をさげると、奥から男も現れる。

「おろろ、和也君、また会ったね」

「またって?」

「あれ、お前には言ってなかったっけ? ほれ、おととい、墓参りに言ったときに偶然、よ――今日はあの彼女さんは一緒じゃないんかね? 外国の」

「はぁ、まぁ、そうですね」

 また説明するのも面倒になり曖昧にごまかすこととすると、今度はおばさんのほうも「あらあら、ねぇ」と呟いて、曖昧な愛想笑いを浮かべながら、

「ごめんねぇ、うちの子まだ仕事から帰ってないんよ。昨日だったら家でごろごろしてたんだけれどね」

 新谷将史は幼馴染で、同学年だ。昔はよくつるんでいたものの、高校を出てすぐに就職をした将史とは生活が合わなくなり疎遠になっている。

「あ、っと、今日は将史君じゃなくて、おばさんとおじさんにちょっと聞きたいことがあって」

 むしろ、出てこられても話題に困る。居なかったことで内心はほっと胸をなでおろす。合わなくなったのは生活ではなく感覚のほうなのだろう、と今さらながらに思う。

「あ、じゃあちょっと待って、今準備を……」

「いやいいんです。ほんとにちょっと一つだけ」

 とおれはカバンから写真を取り出す。姉さんと母さん、そして件の謎の男性が写っている写真だ。

「この男の人に覚えはありませんか?」

「うーん……さぁ、ねぇ、――あなたどう?」

「ええ?」

 おじさんのほうがスリッパに足を通して、こちらに寄ってくる。しばらく首をひねりながら眺めて、うーん、とうなり声を上げ始める。

 やはり知らないか、と諦めて写真を引き上げようとしたそのとき、

「あ、そうそう、あれやないかね、あの小児科医の――」

「あ! 六本木先生」

 刹那、おれの脳内の回線がうなりを上げ、急速に繋がっていく。もう何年も動いていなかった部分だ。

「ありがとうございます!」

 挨拶もそこそこに、おれは自転車にまたがり、その場をあとにする。目的地は決まっている。六本木小児科医だ。姉さんが昔お世話になっていた小児科医の先生で、おれも母さんに連れられてよく一緒に通っていたことを思い出した。

 

 六本木医院はすでに閉まっていたけれど、中からは明かりが漏れている。まだ人は残っているのだ。おれは躊躇なくそのドアをノックする。そのあと、右手にチャイムが付いているのを見つけて、それも押す。すぐに、扉が開いた。出てきたのは若い女性の看護師だった。

「夜分すいません、六本木先生、いらっしゃいますでしょうか?」

 突然のことに驚いた表情の看護師は、それでも気を取り直したのか笑顔を見せてきた。

「申し訳ありません。本日の診療は終わってしまっているのですが――」

「あの、診療というわけではなくって、ちょっと六本木先生に用がありまして……以前お世話になっていたんですがちょっとそのことで……」

「少々お待ちください」

 しばらくしてから看護師に案内され、奥の診察室へと入る。

「お待たせしました。それで、用件というのは?」

 銀縁眼鏡をかけた四十歳前後の男がそこにいた。写真の人物と違うことで、ひょっとして早とちりだったか、と冷や汗が吹き出したけれど、

「ああ、ひょっとして、用事があるのは父でしたか?」

 そのエリート然とした口調とは裏腹に柔和な笑みをうかべ、

「父は、――えと、六本木院長は、昨年に他界しました……長いあいだ癌を患っていてね。それで、私が跡を継いだんです。六本木光男、と申します。もし私でよければ用件をお聞きいたしますが?」

 他界した、ということに対するショックと、間違っていたわけではない、という安心とがない交ぜとなって、思わず「すいません」と口走ってしまう。

「ま、ちょっとあまり長い時間は取れませんが」

 六本木光男は、時計を気にする仕草をする。

「聞きたいのは、姉さんのことです」

「姉さん」

「あ、自己紹介が遅れました。私は竹田和也、と申します。それで、実際にこちらの医院にお世話になっていたのは、私の姉さんで竹田やよいなんですが、その姉さんのその頃のことをちょっとお聞かせ願いたいのですが……」

 小さく頷きながら聞いていた六本木は、

「その、それはいいのですが、なにぶん個人情報に触れる部分もあるのでね……いや、疑っているわけではないのだけれど」

「あ」

 それもそうだ。おれは財布から学生証、運転免許証、その他身分証明になりそうなものを全て取り出して示してみせる。

 若い院長は、その中から運転免許証を受け取り、少々お待ちを、と言って席を立って奥へと消えていく。と、すぐにそれはいつ頃の話なのか、と質問が飛んできた。

「おそらく、十七年ぐらい前だと思います」

「十七年前……1990年代前半だね」

 カルテを探しているのだろう。ガラガラと引き出しを開け閉めする音が聞こえる。

 戻ってきたときに手元にあったのは、紙切れ一枚だった。それもカルテといったものではなく、簡単な手書きの報告書のようなものだ。

「残念だけど、カルテの保存期限は5年、と医師法で決まっていてね。申し訳ないけどもう残ってなかった。もっとも、何を知りたいのかがいまいち分からないから、残っていても力になれなかったかもしれないけれどね」

「そうですか……仕方ないですね」

「いったい何を知りたいんだい?」

「いや、まぁ大したことではないんです」

「そんなことはないだろう……少なくとも君にとっては重要なことなんだろう?」

 こんな時間に突然訪問してくるという異常な行動をとることから、そう判断されても仕方がない。

「ちょっと、あまり全部お話しするわけにはいかないんですが」

 と、ちら、と時計を確認する仕草をすると、

「気にせずにどうぞ」と話を促された。

「ちょっと最近、知り合いが失踪しまして」

「ほう」

 唐突過ぎたか、と思ったけれど、最初から説明する気にはなれない。というより『梅田発なかもず行き』の都市伝説の話をしてまともにとりあってくれるとはどうしても思えなかったのだ。

「その頃の姉さんの様子が、その失踪と関連がある可能性がありまして、それで調べているんですが」

 我ながら支離滅裂だ、と自嘲の笑いが浮かんでくる。

 しかし、予想外にも六本木院長はそれに対して訝しがることもなく、

「ま、いずれにしても、私が力になれることはないことだけは確かなようだ」

 と言うと、先ほど持ってきた手書きの紙を差し出して来て言った。

「君の姉さんはここに来る前に別の小児科医にもかかっていたみたいなんだけれど、君はそれは知っている?」

「いや、初耳です」

「まぁそうだろうね。姉さんが7歳ぐらいのときにこちらに移ってきているから、その当時だと君は……」

「2歳ですね」

「それじゃあ知らないのも無理はないな。あれ、でもご両親は……」

「父はいません。母は死にました。もうだいぶ前のことですけれど」

「失礼、で、その以前かかっていた病院というのが、ここだ」

 その紙に書いてある住所を確認する。自転車を使えばそれほど遠くはないけれど、それでも今日このあと行くことは現実的ではない距離だった。

「門小児科医。私も父を通じて知っているけれど、なかなかいい先生だと思うよ。もうだいぶ高齢のはずだけれど、まだ現役でがんばっているよ。私よりも門先生に聞いたほうが、君の知りたいことは分かると思うけどね……とりあえず明日早朝にでも門先生には電話で君のことを伝えておくよ。昼頃に一度行ってみるといい。先に連絡を入れても入れなくても、まぁあの先生の性格的には門前払いされることはないだろうしね」

 六本木院長は門小児科医の住所と電話番号を書いた紙をおれに差し出してきた。

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