第16話 ガラス越しの姉さん -4

 まだアルバムを見つめている知恵を促して、片付けに入る。こうなったら無造作に放り出してしまった専門書の類が重くのしかかってくる。

「ねぇねぇ、よく考えたら」

 と手早く本を元の状態にしまいながら、知恵が言う。

「自分のお姉さんの家なんだから別にちょっとくらい勝手に見ててもいいんじゃないの? 私だって実家に帰ったらけっこう弟の部屋から勝手にマンガ取って来たりするけど」

「なんていうか、別に怒られることはないと思うけど、ちょっと申し訳ないというか」

「つまり、姉さんに嫌われたくない、っていうことだね」

「何とでも言ってくれ」


 おれたちの努力もむなしく、半分も片付かないうちに、姉さんの帰宅を知らせるチャイムが鳴る。即座に玄関に迎えに出たおれは、靴を脱ごうとする姉さんに待ったをかける。

「ごめん、ちょっとまだ買い物にも行ってないんだ。知恵と一緒に行ってきてくれないかな? お疲れのところ申し訳ないんだけど」

 ぴょこん、と奥から顔を覗かせて、ちわーす、と変なノリで現れて、よろしくです、と知恵が自分のスニーカーに手を伸ばす。

「もぅ、いったい二人っきりで部屋で何していたんだか……お姉さん早すぎたみたいね」

「いいから行ってきて!」

 思わず姉さんを玄関から追い出すようにとん、と手で小突き、その勢いで知恵も一緒に押しだす。まだ片方しか靴を履けていなかった知恵はケンケンをしながらそれでも体勢を整えて、酷い酷いと大げさに姉さんに訴えている。おれはスニーカーのもう片方をぽんっと外に放り投げてやる。

 受け取った知恵はそそくさと靴を履き終わると、べーと舌を出してすぐにドアを閉めてしまった。

「姉さんに変なこと言わないだろうな。あの子」

 自分の思いつきで時間稼ぎのために二人で行かせたとはいえ、一抹の不安が頭をもたげる。しかし終わったことはもうどうしようもない。

 おれはまだ乱雑に本が散らばっている部屋へ戻ると、まずは再度アルバムに目を通す。全てを精査するヒマはないけれど、おそらく例の男が写っているのは先ほど知恵が見つけた一枚だけだろうと目星をつけてその写真を抜き取る。さすがにこの量の中から一枚ぐらい写真が消えていても気付かないだろう。念のため、その何ページか前に二枚重ねて保存されていた写真のうち裏の一枚を抜き取って、その空白を埋めておいた。これで気付いたら相当のものだ。

 心理学関係の書籍のほか、マスコミ関係の業界本、今後のメディアの行方についての本、インターネット関係の雑誌類、仕事に関係するものばかりが目に付く。おれは一つ一つを読み込んで一歩でも姉さんに近づきたい欲求に駆られたけれどなんとか我慢した。


 全てを片付け終わってほっと一息入れる。と、色々とあって神経が昂ぶっていたためか、手の震えを感じる。思わずかたわらの小瓶に手が伸びる。その琥珀色の液体は、いつでもおれに安らぎと自信を与えてくれる。それが依存症の一歩手前、もしかするとすでに罹患している可能性も脳裏にちらついてはいる。それでもおれにストップをかけるものが無い。心配する親もなく、将来の自分から、そろそろやめておいたほうがいいぞという大人の声が届くことも無い。30才以上は信じるな、と、誰かが言っていたのを思い出す。

 その日はナベのはずだったのだけれど、いつの間にかピザパーティに様変わりしていた。バジルソースのピザ、各種チーズがちりばめられたピザ、ミックスピザ、そしてチェダーチーズにスモークチーズ、ドリンクはカルベネ種の香りが心地よく残る赤ワイン。さらにキッチンの戸棚から姉さんが出してくれたブランデーに心酔しながら、時間を忘れて、ついでに隣に知恵がいることも忘れて、姉さんに見とれていた。

 パンツスーツを脱ぎ去りトレーナーとジーパンというラフな服装になったその姿も、また一段と輝いている。

 台所に立つ姉さん。包丁を持つ姉さん。笑う姉さん。

 こちらを向く姉さんの瞳のなまめかしさにどきりとする。髪を後ろで一つにしている姉さん。うなじに少し色の薄い産毛、笑う姉さん。口を開く姉さん。ほおばる姉さん。唇、ピンク色の舌。火照る頬から滴る汗、開いた胸元、鎖骨の凹凸――


「それって、ストーカーじゃん!」

 は、っと顔を上げた。

 声の主へ目を向ける。知恵だった。そうだ、二人ではなかったのだ、と気付いて一瞬いらっとしてしまう自分をたしなめた。

「だれがストーカーだよ」

「は? さっきのお姉さんの話、聞いてなかったの? 誰がどう見てもストーカーじゃない」

 耳には入っていたものの、意味を認識できていなかった。

「そんなに大げさに騒ぎ立てるほどのことじゃあないのよ。ただ、ちょっとたまに視線を感じるなー、と思うことがある程度で」

「ところがところが」知恵が身を乗り出す。突き出した指がワイングラスに触れ、倒れる寸前でなんとか持ちこたえる。数センチ前のほうへと移動しただけですんだ。

「それが、甘いのですよお姉さん。世間の風はもっと冷たいのです。マッチ一本が火事の元になるのです」

 右手でグラスをつかもうとして空を切る。そしてもう一度空を切る。自分の指が当たってグラスの位置が変わったことに気付いていないのだ。

 五回目でようやく異変に気付いたのか右手のほうへと視線を向け、自分の感覚とは別の場所にグラスがあることに気付いた様子。と、なぜかおれのほうに目を向け「おヌシ、謀ったな」とでもいうような表情を浮かべた。とんだ濡れ衣だったけれど、もうおれのほうがどうでもよくなった。今はそれより姉さんのストーカーの話である。

「視線って、誰の?」

「誰って、よく分からないわ」

「よく分からなくても、顔は全く見てないの」

「なんとなく、背丈はそこそこで体格もまぁまぁかしらね……いつも黒っぽい服を着ているような気がするでもなし、しないでもなし」

「ふぅ……ん。で、何か取られたとか、家に侵入されたとか、無言電話が鳴るとか……」

「うぅん。そんなことあったかしらね……」

「お姉さん。何でもいいから思いついたことがあったら言ってみてください。その黒衣の男に心当たりはないのですか?」

 知恵の一存で『黒衣の男』と命名されたそのストーカーの話は、おれも初耳である。そのことになぜか嫉妬を覚える。誰に対して、そして何に対して嫉妬しているのかは自分でも分からない。

「今のところ実害は何もないんだね?」

 戸惑いながらではあったけれど頷く姉さんにほっと胸をなで下ろして、ブランデーを一気にあおる。

「まぁただの私の気のせいかもしれないからね。ただちょっと最近頻繁だったから、ちょっと、ね」

「最近ってことは、その『黒衣の男』が現れたのはもっと前ってこと?」

「そうね、就職して少ししてから、ちょくちょく感じるようになったかな……」

「5年も前から!? どうして言ってくれなかったの? そんな大事なこと」

 言ってしまってから、はっとして姉さんを見た。困ったような、それでいて優しげな笑み。しかし、その本心はおれにも見えない。

 ひょっとして――、

 とおれは可能性を考える。大事なことだからこそ、おれではなく、もっと身近な人間に話していた、とか。いや、自分を騙すのは止めよう。姉さんに恋人が居るとしたら――

 ねっとりと粘度の高い底なし沼に引き込まれているおれを尻目に、

「しかしこれは引き続き調査が必要ですなぁ」

 と、知恵は楽しそうだ。

「なんにしても、和也には関係ないことよ。学生は学生らしく、学業に集中しなさい」

「……そんな母さんみたいなこと言うなよ」

 和也には関係ない、と言われてしまったら仕方がない。どのみち明日の月曜日は朝一でここを出て、昼前には研究室に顔を出さねばならない。そして不祥事で駆り出された企業の社長のようにただひたすらに謝罪の言葉を述べねばならない。あの論文はまだです。土日は休んでいましたので――

 亀のように這いつくばって研究室の門をくぐるか、それとも誰かが出入りするときを見計らって気配を悟られぬように侵入するか。ゴキブリのように。

 軽快なテレビの音声が聞こえる。軽いバラエティ番組だろう。呼応して笑っているのは知恵なのか、姉さんなのか――体を横たえてそんなことを考えていると、そんな自分の姿が何か別のものと重なってくる。

 何だろう? 仕事に疲れ果て性も根も尽き果てた木っ端役人? いや、そんな月並みなものではない。『黒衣の男』? いやめっそうも無い! そうではなくて、もっとエキセントリックで、非人間的でそして悲しさもさびしさも通り越したようなそんな存在だ。

 その瞬間、おれの脳裏に浮かんできたのはうずくまるルーマニア伯爵の後姿――もしくは、日曜日の早朝、うち捨てられた路地裏の生ごみ袋だった。

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