第15話 ガラス越しの姉さん -3

 整然と並べられた文庫本、新書、単行本関係は、以前に訪ねてきたときとあまり変化が無いように見えた。ただ、よく見ると最近出た小説もちらほらと目に付く。

「やっぱりお姉さん心理学好きだったんだね」

 ウォークインクローゼットを漁りながら、知恵が呟く。

 部屋の本棚には並べられていない本の群れが、クローゼットの中には堆く積み上げられている。岩波新書、朝倉書店、サイエンス社、等々出版社は異なるけれど今も大学の講義で教科書として使われているものや、今では内容が刷新されている本もある。

「これって、今でも使えるんじゃない?」

 教育・発達心理学、社会心理学、認知心理学、といった題名の本を次々に取り出しては部屋のほうへと排出しながら、知恵はこれも、これも、とまだ何か不満そうに一人ごちている。

「姉さんがどうしてもっていうから、けっきょくは同じ本をおれも買ったんだよ……資料だってそうだよ。一旦は借り受けたけど、けっきょくは全部コピーを取って姉さんに返したんだ。どっかに同じものがまだあると思うよ」

「ふぅん。好きなんだね……」

「好き、というか、まぁ仕事柄情報は出来る限り所有しておきたい、ということは言ってたけど、ね」

 それが本音なのか、ただのいい訳なのかは分からない。とにかく、姉さんの物持ちのよさは賞賛に値するほどだ。だからこそ、家捜しにも一定の意味はあるのかもしれない、とおれは考えた。思えば、今まで姉さん不在のこの部屋に居たことは記憶にない。

「お姉さんの専門って、社会心理学? あ、でも統計心理学の本も多いわね。むむぅ、分からなくなってきましたな~」

「両方だよ。基本的には社会心理学的な観点から今の『梅田発なかもず行き』の都市伝説について読み解いていったんだけど、そこに統計心理学的な手法をふんだんに取り入れたってことで、姉さんの卒論は非常に評価が高かったんだ」

 姉さんは昔から数字に強かった。高校時代、物理と数学は学年で一、二を争っていたという。

英語、国語、歴史、といったその他の分野もそこそこの成績を収めており、理系の国立大学に進学するものと周囲は信じて疑わなかった。その大方の予想に反して、姉さんが選んだのは社会学部だった。しかも、研究課題が都市伝説といういかがわしいものとあって、母は死ぬまで、姉さんのその選択にだけは理解を示すことはなかった。

 また、当時の担任の先生、そしてなぜか高校の校長先生までもが姉さんの説得に当たっていたらしいけれど、最終的には本人の意志が優先されたという。

 

 知恵がクローゼットの中で作業を続けるあいだ、手持ち無沙汰になった。さっぱりと片付いたリビングには何かを探す場所は見当たらない。あとは寝室だったけれど、どうしても勝手に入るのはためらわれた。きょうだいで何を、という気持ちがある反面、何か神聖なものを汚すようで、どうしてもふすまに手を伸ばせないのだ。

と、いうわけでキッチンで食材を物色することとして冷蔵庫を開ける。卵、豆腐、納豆、ピーマン、ニンジン、味噌、ドレッシング、マヨネーズ……一通り確認する。姉さんの生活の匂いを肌で感じているようで、心臓がどきどきと高鳴ってくる。

と、知恵の呼び声が聞こえた。はっと我に返って冷蔵庫を閉じると、奥の部屋へと戻る。

「アルバム発見! これは有力な情報ですぞ~」

 薄紅色のプラスチックケースに収められた五セットのアルバム。おれと姉さんと母さんの昔の写真が収められているはずである。おれですらもう5年以上見ていない。

 知恵はにやにやとしまらない笑みを浮かべている。

「ほんとにちゃんと探す気、ある?」

 そもそも、漠然と家捜しと言っても標的が分からない。

 アルバムにはおれが生まれる前の姉さんと母の写真、そしてまだ髪の毛が頭のてっぺん辺りにちょこんとかぶりもののように乗っかっているおれの写真へと続く。

「お父さんが見当たらないね?」

 知恵は軽い調子で口にしたけれど、それは竹田家ではタブーだ。まぁそれも今は昔の物語なので許そう。

「母さんが全部捨てたんだってさ。まぁもっとも、おれは父の顔なんて知らないんだけど」

「知らない? って――あ、ゴメン」

 と口に手を当てる知恵に、おれは笑いかける。

「いいんだ。死に別れただの喧嘩別れしたとか、そんな悲しいエピソードがあるわけじゃない。ただ、もともと、おれには父親はいなかったんだ。そういうものとして育ったんだから」

「でも、そんなことって……」

「そう、生物学的には人間はオスとメスがいないと子孫を残すことは不可能。科学が進んだ未来はどうなるかわからないことだけど、少なくとも今はそれが厳然たる事実。そしておれも母も、そして姉さんも、そのことを知っている。知っていて、あえて言うんだ。『この家にはもともと父はいなかった』とね」

 知恵はふぅん、と口ごもりながら、何かを言いかけてやめ、ちらりとこちらをうかがう仕草をする。

「何か聞きたいことがあれば、遠慮なくどうぞ」

「どうして、って、聞いていいですか?」

「どうして、って、――どうしてそんな風に考えているのかってこと?」

「いえ、どうして居なくなったのか、ってこと。ひょっとして、例の時とその父が居なくなったときとが重なっているとか」

 ここにはあくまで『梅田発なかもず行き』の都市伝説を調査しに来ているんだ、ということを思い出して身の上話をしかけていたおれは少し恥ずかしくなる。

 表面的にはおどけて楽しんでいるように見える知恵の頭の中には、常に友人の身を案じている部分があったということなのだろう。

「残念ながら、というか何というか……ちょうどおれが生まれた頃だったらしいよ。だから、おれの父にあたる人がおれの顔を見てから去っていったのか、それとも自らの遺伝子を受け継ぐ生き物の姿も確認せずじまいだったのか、それすらおれは知らない」

 その質問を受け付けるような雰囲気が、竹田家にはなかったのだ。それは姉さんと二人っきりになってしまった今でも変わらない。

 聞いてもいいのではないか、と思える瞬間もあるのだけれど、どうしても母の顔がちらつく。厳格で何ごとにも手を抜かず教師の仕事にひたすら熱を注いでいた母。炊事、洗濯、掃除、片付け、全てにおいて完璧にこなし、テレビはNHKしか見ない。そしてそれでいて子供の教育にも人並み以上に熱心だった。箸の持ち方から洋服の着こなし、敬語の使い方まで、一通り指導され、出来合いの物もお菓子もジュースも全く与えられずに育った。そのおかげか、母が死んでからこれだけ不摂生を続けているおれが、まだ生きながらえている。そんな母のたった一つの欠点は、自分の健康状態に無頓着だったということだ。

「ちょっと、これは?」

 そういって差し出されたあるページには、姉さんと母さんが写っていた。そして、その隣には少し髪に白いものが混じっている老齢の男性の姿。

「お父さん発見! と、言いたいところだけど、違うよね? どう見てもおじいちゃんって感じ」

 確かに年齢的にはそこに写っている母より二十歳以上は上に見える。ただ、その当時には祖父ももう他界していたはずであるため、別の男ということになる。おれは知恵からアルバムを取り上げ、しばらく眺めるが、なかなか頭の中のアルバムは開いてくれない。ぱらぱらとその前後何枚かめくってみる。おれの写真がちらほら見られた。3~4歳だろうか、すると、このときの姉が9歳ぐらい――ちょうど、失踪する前にあたる。

「他にこの人が写ってる写真はないね」

「うん……もう喉のあたりまでは出かかっているんだけど、誰だったかなぁ……何せ物心付く前だからなぁ」

「顔は覚えているってこと?」

「そうなんだ。だけど、どこの誰かってことが全く出てこない」

「でも、そうだとしたら、逆にけっこう頻繁に会ってた人だってことは考えられないかな?」

「どうして?」

「だって、そんな小さい子供のときに、たかだか何回かだけ顔を見たってぐらいじゃ、ぜったい覚えてないわ」

 それもそうだ。

 おれはもう一度頭をひねる。やはり出てこない。そればかりか一瞬、目の前に鎮座している少女の顔が誰だか分からなくなってどきりとする。半分クローゼットの中にいるためか、知恵の姿はほの暗い中で座敷わらしのように浮き上がって見えた。

「ちょっとアルコールを……」

 と、カバンからジャックダニエルの小瓶を取り出し口をつけた。

「アル中め」

 知恵が、いーと顔をしかめる。

 無視を決めこんで再度アルバムのほうへと視線を落とした矢先、ケータイがぶーぶーと振動音を発する。姉さんからだった。

『もうすぐ着きま~す。早過ぎかな?』

 思わず時計を見る。まだ五時前だったことで油断していたけれど、姉さんは自分のことを半自由業だと言っていたことを思い出す。

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