第12話 牙をむく『魔物』 -3

 酒が飲みたい。それもとびきりきついやつを。アルコール度数は高ければ高いほどいい。味は二の次だ。

 こう言うとたいていの人は冷ややかな視線を向けてくるか、もしくは心配しているふりをして「やめときなさい」と口走る。体に悪いから、だそうだけれどそんなことは分かっている上に今さらおれの体が悪くなったところで困る人はいない。

 ただ、東京で働く姉さんのことだけが心残りだけれど。


「いわゆる、シスコンってやつですな。はぁ、やだやだ」

「シスコンってなんですのん?」

 ロン・メイメイと合流したあと、かなりまいっている様子の浩平は先に帰らせ、知恵の住むマンションに向かった。一人暮らしにも関わらず2LDKの部屋に住んでいる。ちょうど新築のときに入居したらしく、今年で築4年になるらしい。南向きの窓からは古墳らしき鬱蒼とした緑が見える。もちろんオートロックだった。

「シスコンはシスコンよ。シスターコンプレックス」

「あー、そうそう、それそれ。――で、その姉さんのことなんだ」

 相手をするのも面倒になったおれは受け流すこととして、勝手に話を続ける。

「まぁちょっとこれは内密にお願いしたいんだけど、いいかな?」

 知恵はよくしつけられた犬の様に居住まいを正しておれに向き直った。

「姉さんも、実は昔、行方をくらませたことがあったんだ」

 これには、ロン・メイメイも驚きの表情を浮かべる。

「まぁ、二日後には帰ってきたから、けっきょくは大した騒ぎにはならなかったけどね」

「それ、いつの話ですか?」

「十七年前の初夏、おれが五歳、姉さんが十歳のときだよ」

「それもひょっとして、なかもず駅で?」

 おれは小さく首をかたむける。

「梅田で電車に乗って、……まぁ、確かにその電車はなかもず行きではあったらしいな」

「らしい?」

「だって、おれは五歳だったんだ。うっすらとしか覚えてないよ」

「今でも覚えられないのにネ」

 というロン・メイメイの野次は無視して、続けた。

「ただおれたちの目的地はなかもず駅ではなかったけどね。あの日は親子3人、梅田で買い物をしたあと、だいぶ夜遅くに帰途についたんだ。慣れない外出で三人とも疲れきってた。電車に乗り込んで何駅か過ぎたあと、ようやく席について、三人とも眠り込んでしまったんだ。おれもただひたすら疲れていたことと、蒸し暑かったことだけは記憶に残っている。それで目的の駅に着いてもまだ母さんは目覚めなかったんだけど、偶然にもおれが気付いて母さんを起こしたらしい。それで慌てて電車を降りたんだ」

「なんだ、ちゃんと降りられたんだ」

「そう、おれたち二人は」

「二人って……お姉さんは」

 あのとき、ガラス越しに見た姉さんの顔は、今でも鮮明に覚えている。

 驚愕と恐怖の表情。そしてその一瞬後には、諦めと達観、無表情と無気力の仮面が姉さんの顔を覆ったように見えた。それはおれの脳にあとから捏造された記憶なのかもしれない。五歳だったおれにそこまでの感情の起伏が読み取れたはずはないのだから。

「一人残された姉さんは、そのまま電車に乗って行ってしまった」

「それで二日間帰ってこなかった、と……でも、十歳だったんでしょ? その程度なら何とか自力で帰ってこられるんじゃないのかなぁ」

「そうなんだ。当初は母さんもそう言ってそこまで心配していなかったんだ。でも、姉さんは帰ってこなかった。どこで何をしていたのか、けっきょくは分からずじまいだったんだけど、とにかく二日間姿をくらませていたことだけは間違いのない事実だ。それも、なかもず行きの電車に乗ってね」

 ここに来る前に、コンビニで一番安いウイスキーを調達してきた。おれはパンダの絵柄のついた小さなグラスに半分ほど注いで、ちびちびと口をつけていた。

「でも」と、知恵が手を上げて発言する。

「梅田ではお姉さんも一緒に電車に乗ったのよね?」

「もちろん」

「だったら、おかしくないですか? だって、桃子は昨夜電車に乗るところは誰も見ていない。だから『中津発』じゃなくて、『魔物』のいる『梅田発』に乗ってしまったってこともあると思いますけど……」

「まず」と、おれが口を挟む。

「あくまでも姉さんは『街で親とはぐれてしまった娘』で、『梅田発なかもず行き』伝説の被害者としてはカウントされていないんだ。研究家の間でもね。……と、それから、梅田で電車に乗った時点でその『魔物』に取りこまれるというのは、今おれたちが話の流れで勝手に作り出した憶測に過ぎない。今の時点では正しいとも間違っているともいえない。その可能性を消し去る証拠がない、という程度だ。ここまではいいね?」

 知恵が首肯する。

 ロン・メイメイは聞いているのかいないのか、とくに反応を示さず、ウイスキーのボトルにそのまま口をつけている。

「だから、姉さんも森本桃子も、二人とも『魔物』に取り込まれた可能性もある。そして同時に、二人とも全く無関係だという可能性もある。そもそも、姉さんは帰ってきているんだしね」

「あ、そうか……でも、一度行方不明になってから帰ってくる人もいるんだよね?」

「そう、それがまた分からないことなんだ。帰ってくる人がいるのであれば、その人の証言で全ての謎が解明していてもおかしくはない。でも実際には、そうはなっていない」

 ふうん、と何度か頷いた知恵は、何か言おうと口を開きかけてやめたようだ。

 

 しばらく沈黙が続く。

 

 ロン・メイメイが、ボトルを置いてその場に横になった。そのまま寝返りを打つようにごろごろと転がる。どうやらアルコールで眠くなってきたようだ。昨日から着ていて少しくたびれてきたチャイナドレスの隙間からちらちらと白い肌が覗いて見えた。その姿になぜか視線を逸らす知恵に、おれが言った。

「けっこう、落ち着いてるよね」

「え?」

「だって、友達が行方不明だってのに。普通ならもっと取り乱すとか泣きじゃくるとか、そういう反応があってもいいと思うんだけど、ナーバスになってるのは一人浩平のみ」

 ああ、と重大なことに今気付いたかのような反応をした知恵は、

「なんか、現実味が無いっていうか、桃子のお母さんも、ノゾミも、浩平君も、みんな浮き足立ってるのを見てると何か、ね」

 と、しばらく言葉を探したあと、

「とにかく、どうして自分がこんなに冷静なのかはよく分からない。うまく言えないけど、鈍いんですよ……私は昔から」

「昔から?」

 おれは相槌をうつ程度に訊いたつもりだったのだけれど、知恵は真剣な表情でメイメイが手放したウイスキーのボトルをぐびりと一口あおると、意を決したように口を開き、私にはね、悪魔がとりついているんです、と唐突に言った。

 おれが呆気にとられているあいだに、もう二口ほどウイスキーを摂取してから、続けた。

「人の心を持たない、残忍で情け容赦ない、暗黒世界の悪魔。体は小さくても、その指先に触れるだけで一寸後には物言わぬ骸に成り果ててしまう」

 何を言っているんだこの子は、というのがおれの正直な感想だったけれど、黙って聞くこととした。単純に『面白そう』というのがその理由だ。

「中学生のとき、担任の先生が来なかったことがあって、他の先生達もみんな方々探し回ってた。わたしたちも何人かのグループになって学校の周りを探していたら、道端に倒れている人影を見つけたの。白髪で小太りのその人が、私達の担任だった。悲鳴を上げる子やすぐに走り出して先生を呼びに行く子もいたけど、私はただその場でぼんやりとしていたことを覚えています。発見した何人かの生徒と教頭先生、そして倒れていた担任の先生が一緒に救急車に乗って、病院まで行った。けど、もうそのときには、死んでたの、先生」

 途切れ途切れではあるけれど、淡々と話す知恵。

 おれは頷くだけで、特に言葉を挟むことはしなかった。

 ロン・メイメイがもう一度寝返りを打ってこちらに背を向ける形になる。本当に寝ているのかどうかは不明だ。

「でもね」と、知恵が続ける「周りで泣きじゃくるクラスの女の子達の中で、私だけ泣かなかったんです……泣かなかったんじゃないね。泣けなかったのね。それだけじゃない。悲しまないといけない、泣かないといけない、と自分に言い聞かせているうちに、なんだか無性に可笑しくなってしまって……ついに笑い出してしまった」

 その場がどれほど気まずかったか、想像に難くない。

「あのときもそう。友達のエムちゃんが亡くなったときも」

「えむちゃん?」

「ああ、絵画の絵に、夢とかいて、絵夢。エムちゃんは、幼馴染で小学校から高校までずっと一緒だった。そのエムちゃんがあるとき、急に失踪したのね。はじめはただの家出だろうとみんなあんまり取り合わなかったの。……まぁなんていうのか、エムちゃんその頃ちょっとアレだったからね……」

「グレてた」

「そうそう、髪も茶色でところどころ赤いメッシュを入れたり、スカートも丈をいじったり、それで悪い男友達をいっぱい引き連れて……両親もだいぶ手を焼いてたらしいわ。そのころでも私とは今までどおり付き合いは続いてた。なんていうか、そのへんも私はちょっと鈍かったのかもしれない。で、ある日……それが後から考えたら失踪の前日だったんだけど、妙に真剣な表情で私に言うの。『高校、辞めなきゃいけないかもしれない』って。そんなエムちゃんのいつもと違う様子に全然気付かなかった私は、いつも通りのノリで、『どうして?』って、聞いちゃった。と、エムちゃんはすぐに笑い出して、『ウソウソ、なんでもない』と笑い出したの。私もなんだか分からずに一緒に笑ってた」

 ズボンのポケットから、マナーモードの携帯電話の振動が伝わってくる。おれは無視することとして、適当に解除ボタンを押す。

「失踪してから三日後だった。エムちゃんが、ある廃屋の一室で、遺体で発見されたの。一酸化炭素中毒。いわゆる練炭自殺ってやつ。その前には睡眠薬も飲んでたらしいけど、それより何より、エムちゃん妊娠してたみたいなの。けっきょくはいつもつるんでた男友達の一人との子供だったらしいんだけど、私にとってはその男友達が憎いとかいう前に、どうして気付いてあげられなかったんだろう、と思ったわ。それで思い出してみると、失踪前日の『高校辞めなきゃいけない』という発言もSOSの合図だったんだなー……って。だけど、そのときも私は笑ってた。なにがなんだか分からなくて、悲しくて悔しいんだけどなぜだか無性に可笑しくて、それで……笑ってしまったの」

 そう言って卑屈な笑みを浮かべる知恵の後ろに、確かに黒い影があるのが見えた。背筋を通り過ぎる悪寒から逃げるため、おれは目を逸らして窓の外へ目を向ける。そろそろ日が暮れるようだ。

「そろそろ帰るョ」

 と口火を切ったのはロン・メイメイだった。すでに起き上がり身支度を始めている。

「そうだな」とおれも立ち上がった。

 知恵は二人の様子をぼんやりと観察していたようだったけれど、じゃあこれで、と曖昧な挨拶で部屋を辞そうとすると、弾かれたように立ち上がり、

「じゃあ、次は東京ね!」

「東京? ……って、捜索は警察に任せて……」

「違う違う! そうじゃなくて、お姉さんに直接会って事情を聞かないと」

 知恵は当たり前のように言っていたけれど、おれは賛同しかねていた。今まで散々聞き出そうとして空振りに終わっているのだ。

 と、おれの肩をちょこんとつつくロン・メイメイ。

「いってくるよろしヨ。あたしは勘弁してネ」

「竹田さんのお姉さんに会うの楽しみ」

 と知恵はにこりと微笑んだ。

 あいかわらず子犬のようだ、と最前は悪魔の影を見たその顔に、不釣合いな感想をいだいた。

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