第10話 牙をむく『魔物』 -1
アパートから歩いて三十分程度の距離に、その墓地公園はあった。閑散とした田園地帯を抜けた、少し小高い丘の上である。
昨晩の雨でぬかるんだ地面を気にしながら、おれは歩を進める。
母の墓参りに来るのは、いつ以来だろうか、と一瞬だけ考えたけれど、すぐに諦めた。それが分かってどうする、というもう一人の自分が茶々を入れてきたのだ。その横槍を振り払うだけのエネルギーは、今のおれには無い。
「付いてこなくてもいいよ。別に」
長い黒髪をホラー映画の幽霊のように無造作に垂らしたロン・メイメイがしきりに足元を気にしながら、おれの隣を歩いている。
ピンクのピンヒールと、おれが貸したシャツとハーフパンツが、最高に不釣合いだ。ハーフパンツとはいっても、彼女がはくと膝下まで隠れている。
「小さいこと気にしないことョ」
けっきょく、『ルーマニア』で朝方まで飲んで、そのまま寝てしまったのだけれど、おれが目を覚ましたときにも、まだロン・メイメイとママ・キャサリンは呑み続けていた。
蔵元知恵は早々に目覚めて始発で帰宅したとのことで、その場にはほぼ酔いが覚めて気だるさが押し寄せてきているおれと、正反対に最高潮の盛り上がりを見せる二人とが残された。
「ようやく起きたみたいね。どう、一杯」
と虚ろな目をしたママ・キャサリンがおれのグラスにブランデーを注いだのであった。
固辞しようとするおれを無理やり押さえつけたロン・メイメイが、そのまま自分の唇をおれの口に押し付けてくる。一瞬の刹那だけ固まってしまったことが、おれの敗因となる。暖かい液体が流れ込んできた、と思った次の瞬間に押し寄せてくるアルコールの刺激にこらえきれずむせた。舌に残るピリピリとした痛み。
ケタケタと馬鹿笑いするロン・メイメイを睨みつけようと顔を上げると、ママ・キャサリンが唇を尖らせておれに顔を寄せてくる。おれはゴキブリ並みのすばやさで逃げ出した。背後では笑い声が響いている。
おれはそのまま帰宅しようと扉を開ける。階段を登り、通路を抜けて早朝の繁華街を横切り、電車に乗り――
寝ぼけていたのか、それとも酔っていたのか、何にせよ、『ルーマニア』を出たことで不覚にも油断していたのだろう。
背後から忍び寄るアルコールの気配におれが気付いたのは、アパートの鍵を開けてノブをひねったあとのことであった。
振り返ったおれに突然平手打ちを食らわせたロン・メイメイは、そのままおれの部屋に上がりこむ。呆気にとられるおれを尻目に、慣れた仕草で電気をつけ一通り室内を見回したあと、目的の物を発見したらしく、座り込む。飲みかけのジャック・ダニエルだ。おもむろにその瓶の蓋を開け、そのままラッパ飲みしようとしたところで、
「はい、そこまで」
とおれが瓶ごと取り上げる。
少しこぼれた琥珀色の液体がロン・メイメイの鼻にかかる。メイメイが、顔をしかめた。
「ベッドを空けてやるからそっちで寝てくれ」
「なにする気、この人」
とわざとらしくしなを作る中国人を、
「うるさい」と一言であしらって抱え上げてベッドに放り投げた。すると、十秒ほどばたばたと駄々っ子のように手足をばたつかせていたけれど、意外にもすぐに寝息が聞こえてきた。よっぽど酔いがまわっていたのだろう。
「いやはや、昨日はあたしもびっくりヨ」
胸元を大きく開いたくたびれたシャツの袖をまくりながら、菊の花の香りをかぐロン・メイメイは、さすがに疲れた表情を浮かべている。
「おれがルーマニアで寝ている間に何杯ぐらい飲んだんだ?」
「さぁてねん」
と指をおりながら上のほうへと視線を向けるロン・メイメイ。どうやら指5本では足りないぐらい飲んだようだ。
母の墓前にたどり着き、やかんの水を墓石にかける。昨晩の雨がようやく乾きかけていた表面に、黒い模様が広がっていく。
菊の花を活けようとしていたロン・メイメイが何かに気付いたように、あ、と小さく声を上げる。
そちらに目を向けると、すでに花が生けられているのが分かった。昨日の電話で姉さんが言っていた花か、と初めは思ったけれど、すぐに思い直す。
「まだ新しいな。昨日の雨でだいぶやられたみたいだけど、ここ一週間以内じゃないか?」
「うーん……あ、そうか」
「何?」
「造花」
と、自信満々に指を突き出しよく分からない反応をするメイメイから、菊の花を奪い取る。すぐに古い花とさしかえた。
「これでよし、と」
目を閉じて、ひとしきりその場で合掌。
ロン・メイメイも隣で大人しくしているようだ。
この瞬間だけ、いつも昔のことを思い出すことにしている。かつて、おれと姉さんと、母と三人で暮らしていた頃のことだ。母の顔を思い出そうとするといつも、姉さんがセットで付いてくる。教育熱心だった母は、特に姉に対して特別な思い入れがあったように感じた。どこの家でも長男長女というのは過剰にかまわれるものなのかもしれないけれど、竹田家ではそれがあまりにも極端だったように思う。
「お、和也君じゃないか?」
おれは振り向く。
「あ、新谷さん」
「久しぶりだね。元気そうだね……えっと、そちらの方は……ひょっとして彼女さん?」
ちらりと視線を向けると、ロン・メイメイはにやにやとしまらない笑いを浮かべている。こんなときの彼女はいつも何かよからぬことを企んでいる。間違いない。
「いえいえ、めっそうもない」
と大げさに否定してから、
「通りすがりの見知らぬ中国人ですよ」
「ま、ヒドイこと言うネ」
「……と、まぁあれですよ。大学の研究室の同期ですよ、ただの」
「へぇ」
と新谷氏は少し白いものが混じってきた顎髭をさすりながら、
「外人さんね。ほぇ、やっぱ大学っちゅうところはすごいとこやね」
と二人の関係にはもはや興味がないのか、ロン・メイメイのほうに視線を向けたまま、じろじろと上から下まで舐めるように観察している。
「そういえば」とおれが切り出す。
「誰か、うちの母の墓参りに来ていた人、知りませんか? ユリの花が活けてあったんですけど……まだけっこう新しい感じでした」
「ああ、そういえば……」
「知っているんですか?」
「いやいや」
新谷氏は両手を振って否定しながらも、
「ただ、最近はよく新しい花が活けられているのは見たよ。てっきり、和也君か、やよいちゃんか、どっちかだと思っていたんだけれど……」
「やよいちゃんって?」
と、ロン・メイメイ。
「ああ、和也君のお姉さんだよ――そういえばもう何年も見てないけど、元気にしているのかい?」
「あ、はい。と、言っても僕も最近はたまに電話するぐらいで、全然会ってないですね」
このあとしばらくは近況報告に始まり、さらに昔話へと移る。内容に入ってこられないロン・メイメイが、ケータイをいじり始めたのを横目に見ながら、そろそろ切り上げようかと画策していた矢先、ぴぎゃ、という聞いたことの無い悲鳴が上がった。おれも新谷氏も話すのをやめて声の主へと視線を向ける。
「あいや~。よぅうぇんてぃヨ、それはあんぱん」
と興奮しているからか何を言っているのか分からない。
「どうしたんだ?」
「桃子が」
桃子、と聞いてすぐには脳のシナプスがつながらなかったけれど、
「桃子と連絡が取れないんだって」
という続きを聞いて、森本桃子のことだと分かった。
「昨日はちゃんと終電で帰ったんだよな? 寝ているだけなんじゃないのかな……」
なかば独り言のように呟きながらポケットを探りケータイを取り出す。ディスプレイを確認すると、浩平からの着信が入っていた。
じゃあ、おじさんは行くから、という新谷氏に軽く挨拶してからおれは浩平に電話をかけた。
メイメイもケータイを耳にあてて、
「あ、チエちゃん?」と、どうやら蔵元知恵に電話をしたようだ。
いつのまに電話番号を聞いたのか、と考えていると、おれのほうも電話がつながった。
と、前置きもなにもなく、
『おれじゃないぞ、和也』
と唐突に切り出す浩平。
いつもよりいくぶん高めの声音だ。
「は? 何が?」
『おれはちゃんと送ったからな、駅まで』
かなり気が動転している様子である。
「当たり前だ」とおれはあえていつもの軽い調子で言うと、
「今大学か?」
『いや、なかもず駅前のジョニーズだ』
「おれも今から行くから、ちょっと待ってろよ」
通話中にすでに駅へと歩を進めるおれの隣に、ロン・メイメイも走り寄ってくる。
「……さすがのあっちも、このかっこで電車のるのはちょっとなんなんですケド」
男物のシャツとハーフパンツにピンクのピンヒール。そしてノーメイクの顔にはぼさぼさのロングヘアーがのっかっている。
「一緒に乗る方がもっと恥ずかしい」
おれはそう突き放して、アパートの鍵を手渡した。
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