第9話 柳沢倫太郎 ~少年時代 -3
体を拘束する全てのものから解放されたときには、すでに部屋の中にいた。
フローリングの床の上に目に痛いほどの毒々しい赤い花があしらわれたラグ、そして豹柄のソファー。それまでの彼の短い人生では最も大きな部屋に、それらのものがぽつんぽつんと配置されている。
よく見ると、ソファーの隣にはガラスのテーブルがちょこんと鎮座している。
おそらく鍵を閉められているであろう扉を除いて、外界との接点は正面の窓だけだ。レースのカーテンがかかっているため、外の様子は伺えない。
彼はそろそろと歩きだし、窓のほうへと向かう。自分の腰の辺りから上、一メートル四方ほどの大きさの窓だ。
カーテンを開く。
一枚のガラスがはめ込まれている。開けるような構造にはなっていない。軽く拳で叩いてみる。音から判断すると強化ガラスのようであった。
外の様子を覗いてみた。下半分が曇りガラスになっていたため、彼の身長では背伸びをしてようやく風景を見ることが出来た。
眼下に広がる光景に、一瞬目を疑った。それは彼が抱いていた中国のイメージとは全く異なっていた。
部屋の高さは三階程度なのだろう。目の前にはアニメに出てくるようなわざとらしい宮殿のような建物が建てられている。
周囲は有刺鉄線がはりめぐらされた柵に覆われている。人の気配は感じられない。ただ、どこまでも続く平原と、はるかに望む低い山脈が夕陽に照らされ、幻想的な絵画を連想させた。
つま先立ちのまま、自分の置かれた状況も忘れて景色に見とれていると、ふわり、という空気の流れを感じた。香辛料の香りがただよってくる。
彼が振り返ると、男が立っていた。
大柄で頭髪の禿げ上がった男だ。それが先ほど自分を拘束していた男だと分かるまでには少し時間がかかった。
そのとき起こったことは、後になると断片的にしか思い出せない。ただ男の吐く息の生臭さに嘔吐しかけたこと、覆いかぶさってきたその体重に息が出来なかったこと、それから、ほんの少しの刺すような痛みだ。
しばらくのあいだ、その屋敷で生活することとなった。
昼間は厨房で料理の手伝いをしながら、夜は毎晩のように男の相手をした。男は妻帯者であったけれど、それは表の顔で本質的には同性愛者であった。しかも、異国語を話す少年にしか性的興奮を感じないという極めて稀な体質なのだということが徐々に分かってきた。
料理を教えてくれたのは、男の妻と娘であった。
とくに娘のほうは彼に非常に良くしてくれた。はじめは萎縮していたけれど、年が近いこともあり一ヶ月もすれば打ち解けていた。言葉の壁はあったけれど、お互いの拙い英語でなんとか意思の疎通をはかった。単語が出てこないときには、意味を表す漢字を書いてみると予想外にすんなりと理解してもらえた。以後、英語と漢字での筆談を交えながら会話をして、ときにはお互いに冗談めいたことを言って笑った。
中国語を覚えたのも、この時期だった。
幸い、男の娘――リンリンは綺麗な北京語を話していたようで、中国の国内ではどこに行っても通用する言葉であった。彼女が学校に行っている様子は見られなかった。ただ、母親とは別の女性が来て彼女と一緒に奥の部屋へと消えていったのをときおり見かけた。そのことについて、一度何となく聞いてみた印象から、家庭教師のようなものだろうと推測できた。
リンリンはいつも髪をぴっちりと後ろで一つにくくりポニーテールのように肩甲骨のあたりまで垂らしていた。ぷりぷりと張りつめた肌と少し厚めの下唇が、年齢にそぐわない色気を放っていた。
夏には時々、半裸に近い格好で家の中を歩いていることがあり、目のやり場に困った。それとなく目を逸らしてそそくさと通り過ぎると、後ろから抱きついてきてきゃらきゃらと嬌声を上げる。
対応できずに固まっていると、リンリンは小さく首をかしげて微笑んだ。両手でゆっくりと彼の頭を引き寄せ、額にキスをしてきた。
そのときには、それだけだった。彼女の行為の意図も分からないまま数ヶ月が過ぎ、また厳しい寒さが肌を刺すようになってきた。
ある日の夕方、なんとなく窓の外に目を向けた。来たときには爪先立ちでしか見えなかった景色が、今では目の高さにある。この一年で彼の身長は急激に伸びていた。綺麗なソプラノボイスだった声も、今ではガラガラと喉に引っかかるような、不快なノイズが混ざるようになった。硬くなってきた喉仏をなんとなく触りながら、夕陽の中の山脈を眺めていると、急に故郷の雪景色が脳裏に浮かんできた。
一年前に見た景色と重なったからなのか、単純なホームシックなのか、それは分からなかった。とにかく無性に寂しさがつのり、ここに来てから、初めて涙が出てきた。
声にはするまいと口を押さえてこらえようとすればするほど、余計に感情が高まってくる。北海道で会った男に騙されたことを悟ったときにも、この屋敷の男に犯されたときにも、これほど感情が動いたことはなかった。どこか現実味を感じていなかったのかもしれない。
堰を切ったようにあふれ出した心身の悲鳴は、その晩朝方まで続いた。幸い、この晩男は来なかった。
いつ眠りに落ちたのかは分からなかったけれど、次の日いくぶん遅めに目覚めたときには、きれいさっぱりと心の中が洗い流されていることに気付いた。
この少し前から、夜に男の相手をする頻度が徐々に減っていた。そのときは気に留めていなかったけれど、後から考えると重大なことであった。夜の男の相手、というのは彼の存在意義そのものだったのだ。少なくとも雇い主である屋敷の男にしてみればそれ以上でも以下でもない。
一週間ほど男が家を空ける、と聞いたときも、それほど気にならなかった。家に居たとしても、その程度の期間、男が部屋に来ないことなどざらにあった。男の妻は、仕事で街のほうに行く、という説明をしていた。彼もその説明をすんなり受け入れた。
その日の晩、寝床に入っていつものように中国語の本を読んでいると、扉が開いた。反射的に電気を消して本を置き、布団に潜り込む。男が来た時はいつもそうしていたのだ。少ししても男が来ないことで、ようやく仕事で留守にしていることを思い出した。ゆっくりと上半身だけ起き上がり、扉のほうに目を向けた。
リンリンだった。
バスローブが、白いドレスのようにぼんやりと月明かりに映えている。普段は後ろで一つに束ねられている髪は左右に均等に下ろされている。
リンリンが両手を広げた、と思った次の瞬間にはバスローブがはだけて、その体の線があらわになった。固まっている彼に向かって何ごとかを早口で呟いていたけれど、動転していたせいなのか、それとも難しい言葉遣いをしたのか、彼には理解できなかった。
その晩が、彼の男としての初体験となった。
一週間後、男が帰って来た。傍らにはまだ幼さの残る少年を連れていた。目隠しをされ、手をくくりつけられたまま、落ち着きなくひょこひょこと歩いている。
彼は男に話しかけようとした。男は彼を無視した。そこには何もない、とでも言うかのように、男はそのまま通り過ぎた。そして、それまで彼が使っていた部屋にその少年を押し込んだ。
と、後ろから肩を叩かれた。振り返ると、そこには二人の男がいた。有無も言わさず目隠しをつけられた。何事か叫び声を上げたような気もするし、ただされるがままになっていたような気もする。車に乗せられ、揺られながら、状況を理解した。
彼の少年時代は終わりを迎えたのだ。そして、あの屋敷の男にとって用済みとなった彼が再度売りに出された。ただ、それだけのことだ。
もう何も感じなかった。
車中で故郷に思いを馳せようとしてみたけれど、うまくいかなかった。涙はもう枯れ果てていたのだ。
次の瞬間『龍の涙を受け止める花弁』というフレーズが突如として彼の脳裏に瞬いた。これまで一度も思い出さなかったことがむしろ不思議だった。そもそも彼は『声』にしたがってこの地に赴いたのだ。騙されたとはいえ、彼の生きる意味であるはずの『龍の涙を受け止める花弁』を探すことを、一年のあいだ、全く行わなかったばかりか、思い浮かべることすらなかったのだ。
彼は自問自答する。
芸術家という生き方をする。その決心については今も何の揺るぎもないことを確認してほっと胸をなで下ろした。
と、その一瞬の隙間をぬうようにして、数日前に体感したリンリンの顔――ではなく、体が脳裏にちらついた。次第に大きな位置を占めてくるそのイメージが、どうにも離れなくなった。たった一度だけであったけれど、柔らかな感触が未だに肌に残っていた。
焦燥感に似たいたたまれなさを覚えた彼は、その感情をごまかすため、少し体をゆすった。そして体勢を変えてみたけれど、イメージは逆に鮮明になっていくばかりであった。
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