第6話 場末のバー『ルーマニア』 -3
おれがルーマニア伯爵に出会ったのは、この『ルーマニア』に通いはじめてからしばらく経ってからのことだ。
入口へと続く路地裏の黒いゴミ袋の群れにまぎれてしゃがみこんでいた伯爵。生ゴミだと勘違いしたおれが、それでも何か違和感を覚えて近寄ると、ゆっくりと顔を上げたのだ。その時の衝撃は今でも鮮明に思い出せる。
それは、初めて感じる知覚であった。味覚、触覚、臭覚、聴覚、視覚、そのどれにも当てはまららない異様な感覚。あえて言えば、漠然とした不安感覚とでも表現しうる、居場所の無さ。そして、痛覚を持たないはずの脳味噌の鈍痛。
「一度だけ、彼……と――あのルーマニア伯爵と普通に会話をしたことがある」
「ホントに? どんな声でした?」
知恵はくりくりとした瞳を輝かせて答えを待っている。
けれど、おれがそのときのことを思い出そうとすると、いつも決まって思考回路がショートするのだ。その記憶の部分だけ脳のシナプスにノイズが混線してくる。何者かによって意図的に記憶を消されたとしか思えないほど、きれいさっぱり、全くもって内容が想起されないのである。
ただ一つだけ、うっすらとしたモノクロの砂嵐に混じって「ドン・アンジェラに会うのだ」というフレーズだけが何度も何度もおれの頭の中でリピートされる。
「思い出せないって、どういうことでしょう?」
桃子は眉根を寄せる。
「私ですら何度かしか、伯爵とは会話をしていないわ」
場はすでに、完全な飲みの席へと移行している。ママ・キャサリンもおれの隣の席に腰を下ろし、会話に加わってきた。
おれの正面では、知恵がちびちびとアルコールに口を付けながら、時おり眠そうに目をしばたたかせている。
「でも、思い出せないってことは、ひょっとしたらもっと何度も会話を交わしているかもしれないってことじゃないんですか?」
「うん、そうなんだ」
予想していた質問ではあったけれど、だからといって何か気のきいた答えを用意しているわけではなかった。
おれはグラスを手に取ると、ジャック・ダニエルのロックを一気に飲み干す。喉が焼けるような、おれにとっては爽快な感覚のあと、胃の奥から熱気がこみ上げてくる。
「『ドン・アンジェラ』というキーワードは、梅田発なかもず行きの都市伝説研究家達の間では有名なのよ」
「都市伝説研究家……って、そんなにたくさんいるんですか?」
梅田発なかもず行き、という言葉に反応して目を覚ました知恵は、ママ・キャサリンに詰め寄る。
「さぁね。わたしが知っているだけで4人はいるからね。その4人ともが『ドン・アンジェラ』というキーワードを聞いている」
「そのうちの1人はおれなんだけど」
おれはジャック・ダニエルを手酌で注ぎながら、周囲へと目をやる。さすがに酔いが回ってきたらしく、目線を定めようとしてもぐらぐらと像がぼやけてくる。
「地下鉄御堂筋線『梅田発なかもず行き』電車の終着駅である『なかもず』には、実は次の駅がある。このことは有名な都市伝説だけれど、その割には真実の姿は謎につつまれているわ」
「その、次の駅、というのは言葉のあやで、実際にはその電車に乗ったはずの人間が行方不明になった事件から尾ひれがついて、今の都市伝説になった、と聞いていますけど……」
ママ・キャサリンの言葉にかぶせるように、桃子が口を挟む。いつも一歩下がって全体を俯瞰している彼女が、この話題になると妙に食いついてくる。その理由を考えようとして、すぐに諦める。なぜだかどうでもよくなってきたのである。おれはその感情をアルコールのせいにして、さらにグラスをあおる。
「さぁて、ね。どうかしら」
と含みのある返答をして、ママ・キャサリンは席を立った。
その後姿を見送ったあと、蔵元知恵、森本桃子、ロン・メイメイの順番で、おれのほうに視線を向ける。
「何を期待しているのか知らないけど」
おれは再度手酌でジャック・ダニエルをグラスに注ぐ。
「おれだってそれほど知っているわけじゃあない」
「でも」
と、知恵は軽くテーブルを叩く仕草をすると、
「この前もらった資料が全てってわけじゃないでしょ? あんなのネットでちょっと調べたら出てくるもん」
「だから、おれの知っていることなんてそんなもんなんだ――」
といつものように受け流そうとした矢先に「うそ!」という知恵の声がおれをさえぎる。
「ぜーったい、うそよ、そんなの。じゃあ、竹田さんはなかもず駅には本当に次の駅があって、行方不明になった人たちはそこに置き去りにされているとでもいうんですか?」
「その答えは、イエスともノーとも言える」
さきほどのジャック・ダニエルが効いてきたのか、自分でも何を喋っているのか分からなくなってきたけれど、おれは続けた。
「始まりは十五年ほど前だと言われている。言われている、というのも、正確なことの起こりははっきりしないということがあるからなんだけど……」
「まぁもっとも、だからこそ謎の都市伝説として注目を集めているんだけどね」
ママ・キャサリンが合いの手を入れる。
「記録に残っているのは、大学受験を控えたある高校三年の男子が、なかもず行きの電車に乗ったっきり、消息を絶ったという事件だよ」
「あ、それは知ってる。でも、それって……」
「そう」とおれは続けた。
「事件はけっきょく、その当時のその子の友人や先生の証言から、受験ノイローゼによる失踪だろうという結論となったんだ。母親も息子の様子がおかしいということには薄々気付いてはいたようなんだよ。ただ、最後までその子の行方は分からずじまい。十五年経った今となっても事件は闇の中からその姿を見せてはいない」
「えー、それって、なんだか納得いかない」
知恵は唇を結ぶ。
「それに、なんでそこから『なかもず駅に次の駅がある』ってことになるの?」
「そこなんだ」
間髪いれずに、おれは口を挟む。
「それだけなら、こういうと何だけど、ごくありふれた事件でしかない。時の流れの中で風化していってしまってもおかしくはない。でも風化するどころか、その事件はどんどんと彩りを増して行ったんだ。そして、我も我もと『梅田発なかもず行き』電車に乗って行方不明になった人を知っているという証言が雨後のたけのこのごとくに湧き出てきた。まぁそのほとんどは愉快犯的なノリで口からでまかせを言っていたんだろうけどね」
「それに対しては警察の方は何て?」
身を乗り出す知恵に、おれは首をふって答える。
「何も?」
「そう、何もしなかった。というか、出来なかった、と言ったほうが正しい。警察が動くには何らかの信頼できる情報が必要なんだけど、どれもこれも『知り合いの知り合いが言っていたらしい』だの、『クラスでそういう噂になっている』だの、とにかく決定的な証拠が何もなかったんだ。それでも、その噂は消えていくどころか、県外からなかもず駅伝説見学ツアーのようなものまで生まれて、なかもず駅周辺は一時観光地のような賑わいを見せていたらしいよ」
「へぇ~、観光地ねぇ……信じられないなぁ……あ、それじゃあ、ベビーカステラ売ってたのかな? それと、りんごあめ、わたあめ、アイスクリーム、イカ焼き」
ついさっき豪勢な食事を終えたとは思えないようなセリフを吐きながら、上の空で空想にふける知恵。
「それから一時は下火になっていったんですよね」
そのままどこかに意識を飛ばしてしまっている知恵の様子を見て、桃子が言った。
おれは、ああ、と頷く。
「地下鉄の関係の人が相当動いたらしいよ。なんでも、その噂が一番ひどいときには、『なかもず行き』のある電車の乗車率が、以前の半分にまで落ち込んだことがあったらしく、傍観しているわけにはいかなくなったんだろうね。だけど……」
おれは一息入れてグラスに口をつけてから、
「事態は収拾するどころか、関係者にとっては余計に困った方向へと進むことになるんだ。一部にかなり高圧的な情報統制がなされたり、そういう噂をしている人たちを駅で見かけたらなかば強制的に事務所に連れて行ったり、と、とにかくやり方が悪かったんだろうね。そのうちに、『梅田発なかもず行き電車』の伝説について、こんな噂が広まることになった。
『全ては鉄道関係者の陰謀で、実は行方不明になった人たちはなかもず駅でさらわれて、どこかに売られていった』
『知り合いの知り合いが、行方不明になった人物を旅行先の海外で見かけた』
『なかもず駅の始発電車が、何もないはずの方向から現れたのを見た、という噂を聞いたとクラスの友達が言っていた』
この噂が流れ始めたのが、ちょうど十二年ほど前、最初の行方不明者が出てから三年以上が経過している。ことここに至ったところで、警察関係者、鉄道関係者は、噂の揉み消しを諦めたようなふしが見受けられるんだ。もっとも、この頃には一部のマニアや若い人たち以外にはもうただのおとぎ話程度にしか認識されなくなっていて、地下鉄にしても実質的な被害がなくなってきていたこともあるけどね」
おれは、はっとして周囲を見回す。
酔いのせいか、いつになく饒舌になっていたことに気付く。
知恵はテーブルに突っ伏して寝息を立て始めていた。
「もう、寝ちゃいましたね。どうしましょうか?」
森本桃子は、時計を気にしている。
最終電車の時間が迫っているのだろう。
「ああ、彼女のことなら、まぁ大丈夫だよ。おれは始発までここで飲むつもりだし」
「え、でも……」
言いにくそうに口ごもる桃子に、
「心配しないでちょーだいな。彼女の貞操はわっちがちゃーんと死守しまんがな」
「貞操って……」
けたけたと下品に笑うロン・メイメイ。
こんな女にいわれると余計に心配になるというものだろう。おれの予想通り、桃子は一層困惑した表情を浮かべて言葉をなくしている。それでも、気を取り直したのか、小さく会釈して椅子から立ち上がると、
「では、よろしくお願いします。彼女、一回眠りに付くとなかなか起きないと思いますけど……あの、竹田さんも……」
「ああ、まぁ、ママもいるしね」
さすがにここで『おれに任せてくれ』で安心してくれるほどには信頼されてはいないだろう。
桃子がいそいそと身支度を整え、軽く会釈と笑みを見せて歩いていく。
と、唐突に『ルーマニア』の入口が開き「お疲れ~」という聞きなれた声が聞こえた。
「おぅ、もう来ないかと思ったよ」
「まさか」
と、こちらの部屋へと入ってきた芦高浩平はおどけたように体をくねらせる。
「ま、遅いことには変わりないけど」
まさに今帰途につこうとしていた森本桃子が、申し訳無さそうにぎこちない笑みを浮かべている。
おれは立ち上がり、浩平のほうへと足を進める。けれど、思うように体は動いてはくれず、時おりぐらりとよろけてしまう。
「というわけだ」
おれは浩平を正面から見据え、続けていった。
「森本桃子さんがお帰りだ。駅まで送っていってあげたまえ。浩平クン」
3オクターブほど上位階層へ昇ったような感覚、とでも表現できるような場所だ、と少女は考えていた。
そして、『考えていた』のが過去なのか現在なのか未来なのか、それすらも曖昧な、のっぺりした世界に身をゆだねながら、驚くほど平安な気配に包まれている。ここがどこなのか、少女には分からないような、最初から知っているような、どこかにあるような、どこにもないような、そんな異質な場所。
「泣いているの?」
少女が訊ねる。
と、無秩序に広がっていた霧は急速に形を整え始め、
「泣いているのではなく、鳴いているのです」
「そう、鳴いているんだね」
いつのまにか霧が晴れている。
さらに1オクターブ上昇する。
「もう何も考えたくない。そうでしょう?」
少女なのか、老婆なのか、それともアンドロギュノスなのか、その区別はもう無い。ただ、そこにはある秩序だけは明確に残されている。赤は赤、緑は緑、黄色は黄色だ。
さらに上昇する。
どのぐらい昇ったのか、または昇っていないのか、それすらももう判断できない場所に、それは存在している。いや、『存在している』という表現はおかしいのかもしれない。もうそこには五感で認識できる存在はいないのだから。
その世界を扁平に、縦に貫く存在があることには、人は気付くことが出来ない。
人が人である以上は、それはいかんともしがたい事実である。ただし、同じように縦に貫いてしまえばどうだろうか?
扁平でなくても、表面がささくれていても、多少強引な方法を使ってもかまわない。ただ、擦り切れる前にその場所にたどり着ければいいのだ。
ああ、ああ、ああ、と感嘆詞が漏れる。
少女は急速に落ちていく。
自らの五感を取り戻しながら、落ちていく。
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