第7話 柳沢倫太郎 ~少年時代 -1
今でこそ上海には日本人が溢れ、日本人向けに作られた食事処では客の多くが日本語を話し、現地の店員も日本語で対応するような状態だけれど、柳沢倫太郎が滞在していたその当時は状況が全く違っていた。とにもかくにも、まず中国語を話せることは前提条件だ。それがなければ話にならない。衛生状況、治安、環境、全てにおいて日本人が生活していくには非常に過酷な土地であった。
なぜ彼が十代の半ばにしてそのような異郷へと来ることになったのか。それを説明するためには、もう少し時代をさかのぼる必要がある。
彼の生まれは北海道の小樽であった。冬には降り続く大粒の雪で何もかも埋め尽くされる極寒の地である。小さな食堂を細々と経営していた両親のもと、何とか小学校を卒業し、中学校へと進学していた。そんなある日、突然彼の元に何かが降りてきたのであった。
「おれは芸術家になる」
彼がそう言ったとき、両親はほんの三秒ほどはぽっかりと口を開いたまま唖然としてわが息子を見ていたのだけれど、どちらからか、吹き出したのであった。そうして二人して笑いながら言うのである。
「なれるものならなってみせなさい。だいたいゲイジュツカって、なに? 絵を描くの? 音楽をやるの?」
絵とか音楽とか、そういう具体的な『手段』の話ではなく、芸術というものを『目的』にして今後は生きていくことにした、と彼は説明した。
はじめは笑い飛ばしていた両親も、彼があまりにも大真面目な顔でそんなことを言うので、心配になったのだろう。ある日の晩、普段は立ち入ることのない父の書斎に呼び出され、椅子に座るよう言われた。
居心地の悪さを感じながらも言われるまま着席して、父の言葉を待っていると、その父のほうから、
「おまえ、おれに何か言いたいことがあるんじゃないのか?」
と、いつものおちゃらけた父からは想像出来ないような、慎重な、そして覗うような視線を彼に向けてきたのであった。
「だから」
と父の問いの意図を量りかねた倫太郎は、おれは芸術家になる、ということから始まり、今までの言葉をそのまま再度父に説明した。
「そんなことじゃあねぇんだよ」
いつもの父の口調に戻り、彼の両肩をその大きな両手でわっしとつかむ。
それだけで、同級生の中でもいくぶん華奢な倫太郎の体はぐらぐらと揺れて頭が大きく前後にふらつく。
「誰かに何か言われたのか、それとも何か読んだ本に書いてあったのか、それはどっちでもいい話だ。だが、若い頃にはそういうことがよくあるんだ。そう、経験のないところにぽんっと世の中の真理めいたことが現れると、だな。なんというか、それが全てだと思っちまうもんよ。そりゃあそうだよな。自分の中にまだそれを否定するだけの材料がありゃあせんのだからな」
父親が何について何の話をしているのか全く分からなかったけれど、適当に相槌をうちながら、彼は黙って聞いていた。
「うまくいえねぇけどな、世の中ってのはそんなに甘いもんじゃあねえ。お前と同じようなことを言ってダメになっていったやつをおれはたくさん見てきた。そりゃあ惨めなもんよ。今どこで何をしているのか知らねぇけど、まともなメシは食えてないだろうよ。だから、な、そう……なんだっけ、ゲイジツカだっけか?」
「芸術家」
「そう、そのゲイジュツカってやつだ。それもいいけどよ。現実はそういうもんだってことだ」
その話のあとも、何度となく父に呼び出されては同じような話をされた。父からすれば色々な話をしているつもりだったのだと、子供心に気を使って聞いていたのだけれど、どうにもこうにも同じ話にしか聞こえなかった。
自分が子供の頃にも同じように悩んだけれど、けっきょくは否応無く今の仕事を父から引き継いでやっている。それで満足している。という話。また、戦後間もなく生まれた父にとっては、毎日食に困ることがないということがどれだけ幸せなのか、という話。
父の言っていることの意味は十分に理解できた。それが今の現実なのだろうということも、中学に入り二年が過ぎたそのころには何となくは感じていた。それでも、定期的に降りてくる『声』に逆らうことは、彼には出来なかったのである。
「『かの地』へと行くのだ。そして、そこに待つ『龍の涙を受け止める花弁』を見つけるのだ」
中学三年になり、そろそろ進路を決めなければならない段になったとき、このお告げが忽然と彼に降りてきた。そのまま両親に伝えても反対されるどころか、病院送りになりかねない。その頃になると、そのぐらいのことが分かる程度には世間ずれしていた。彼は家から一番近くにある公立の高校を受験することにして両親の目をごまかし、裏では着々と『かの地』へと赴く準備を進めていた。
受験勉強をしているふりをして自室に閉じこもり、図書館で借りてきた本を読み漁る日々が続いた。もちろん『かの地』と『龍の涙を受け止める花弁』について調べていたのだ。
『かの地』とはいったいどこなのか?
『龍の涙を受け止める花弁』とは?
世界中の地名が詳細に記載されている地図帳に、隅から隅まで目を通した。
龍について、東西の色々な伝説、日本の八岐大蛇、そして龍を題材にしたファンタジー小説を片っ端から読んだ。その中で『龍の涙』に関する記述を全て抜き出しノートに書き写した。
花に関する情報としては、植物としての花の学問的位置づけに始まり、花を擬人化したような絵本まで、とにかく目に付くものは全て読んでいった。幸い、かなり大規模な図書館が近くにあったため、読むものが無くなることはなかった。
夢中で本を読むことは単純に楽しかった。それまでの人生でこれほど何かに没頭することはなかった。自分が何か大きな目標に向かって一歩一歩前進しているという充実感、達成感、そして高揚感。
受験まであと一ヶ月となり、同級生たちもそわそわと落ち着きをなくす時期にさしかかる。それでも、彼は相変わらず本を読み続けていた。その頃になっても充実感は感じていたものの、一抹の不安が脳裏をよぎるようになっていた。
龍に関する知識、花に関する知識は着々と身に付けていたものの、『龍の涙を受け止める花弁』とはいったい何なのかという肝心の部分はまったく分からないままだったからだ。
このまま時が過ぎ中学卒業を迎えてしまうのではないだろうか、という焦り。
とりあえず一ヵ月後の高校受験はカモフラージュとして受けることにしていた。学校の勉強には全く身を入れていなかった割には、彼の成績は中の上といったところで、まず落ちることは無いだろうと言われていた。しかしそのことが彼に与えるのは安心感ではなく、漠然とした不安であった。
このまま何もせずに高校へと進学したら、もう『声』が聞こえなくなってしまうのではないだろうか。もう自分には何も降りてきてくれないのではないだろうか。そう思うと恐怖感と焦燥で夜も眠れなくなりまた借りてきた本へと手を伸ばすことになった。
根を詰めて勉強しすぎなのではないか、体は大丈夫なのか、ということを、両親をはじめとして担任の先生、クラスメートから口々に言われた。自分では毎日見ていて変化に気付きにくかったけれど、それでも体重は激減していたし、鏡に映る顔は、げっそりと頬がこけていて見るからに病的に映った。
この頃から頻繁に、ある夢を見るようになった。彼の知識ではなんとも形容できないような、奇妙な空間に、彼自身が漂っている。それが彼自身なのかどうかは判断できない。
幽体離脱、という表現がまだしっくりきたけれど、本質的には何かが違うような気がした。そこに、縦に一本貫いているものがある。
その表面は見ようによってはささくれているようにも、光沢があるようにも見える。
その周囲を、中学校の校舎がぐにゃぐにゃと歪みながら旋回している。
サッカーのゴールが回転している。
蟻の行列が『龍』と『花』の字を描いて大きくなったり小さくなったりする。
擦り傷と冷蔵庫を中華なべで炒めているのは、一枚の紙に切り開かれた牛乳パックと、そこから四肢のように伸びる延長コードだ。
ぐるぐるぐるぐる、物という物が寄せては返し、寄せては返し――
視界が明滅する。黒い影が世界を覆いつくす。そして、何も見えなくなる。それでも、何かを感じている自分がそこに居る。
ひたり、ひたり、と不規則なリズムが徐々に大きくなっていく。
彼は走って逃げる。もどかしいほど手足が緩慢にしか動かない。疲れはない。それでも体が思うに任せない。四肢の方から、ゆっくりと飲み込まれる。その吸引力には抗いがたく、彼はなすすべなく吸い込まれる。
場面が転換する。
一人、校庭にいる。中学校ではなく彼がかつて通っていた小学校のグラウンドだ。ただし、そのグラウンドにはなぜか十人ブランコが所狭しと並べられており、漕ぎ手が二人ずつ配されている。
それは彼の両親であった。ゆっくりと、動き始める。彼は全てのブランコに一人ずつ乗り込む。その一人一人が、全て彼そのものであった。
ブランコは宙に漂っていた。目の前で漕いでいるのは母親だ。後ろには父親がいるはずであった。あらゆる物理法則を無視して、十人ブランコが空中で前進を続けている。
目の前にはささくれていながら光沢を放つ、縦に貫く存在が見える。もしかすると、見えていると思っているのはただの錯覚なのかもしれない。ただ、そこにあることだけは間違いのない事実だ。
目が覚めてからもしばらくは余韻が冷めない。宙に舞っているような、体がふわふわと浮いているような、逆に沈み込んでいるような、奇妙な状態が数分続いたあと、ゆっくりと覚醒していく。体の中心部位から、手の先、足先へと、徐々に感覚が戻っていく。
相変わらず体重は減り続けていた。起きていてもどこか現実味が感じられない。
両親は心配していた様子であったものの、それも受験までだと信じて見守ることにしたようであった。
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