第5話 場末のバー『ルーマニア』 -2

 カウンターでママ・キャサリンが料理をしているあいだに、とりあえず人数分のアルコールをセルフサービスで用意することとなった。

 ロン・メイメイとおれはコロナ・ビールを瓶で、そして桃子にはジーマを――その口の部分にライムを一かけらそえておく。

「わたしは何か強めのお酒がいいなー」

 という知恵に対しては、少し迷った結果、ウォッカにドライ・ベルモットを少し垂らしたものを出した。

「何これ?」

「ウォッカ・マティーニの『ルーマニア』バージョンさ」

「『国家』のルーマニアは関係ないんだけどね」

 右手に二枚、左手に一枚、巨大な皿を載せて現れたママ・キャサリンがおれの言葉に付け加える。

「あのジェームズ・ボンドが飲んでるやつよりもキツいと思うよ」

 若鶏香味揚げの衣の表面では残った油がジリジリと踊っている。その脇に添えられたパプリカマーマレードはママ・キャサリンのオリジナルだ。二枚目の皿は海老とホタテのオリーブ焼きだった。小さなオリーブの実がトッピングされている。

「と、こっちのお皿は……冷奴ですか?」

「いえ、そう見えるけど、実は違うの。なんだと思う?」

 珍しく若い人に囲まれて嬉しいのだろう。今日のママ・キャサリンは機嫌がいい。心なしか、いつもより料理にも手が込んでいるように見える。

 知恵はしばらくうなったあげく、

「分かりません。とりあえず食べていいですか?」

 その応えに、ママ・キャサリンは含み笑いをしながら曖昧に頷き、カウンターの方へと消える。

「あ、カボチャか……いや、でもちょっと違う風味があるような……」

 知恵に続いて、桃子とロン・メイメイも、その冷奴様の料理に箸を伸ばす。

「蟹味噌、ね」

 ロン・メイメイが確信めいた口調で、言った。

 桃子も頷く。

「すごいすごい! ママさん」

 知恵が他の料理にも手を伸ばしながら、大げさに頷いている。

「ママ・キャサリンはもともと上海で料理人だったんだ……若い頃にね」

「若い頃って、今も十分若いんじゃ――」

 と、言いかける桃子を制して、おれは壁の方を指差す。

 コック帽を頭に頂いた二人の男が肩を組んで微笑んでいる写真が、大理石調の額におさめられている。一人は中年のアジア系の男。そしてもう1人は二十歳過ぎぐらいには見える青年である。その背後には忙しそうに野菜を刻む中年の男や、皿洗いに精を出す少年のような顔立ちの男が写っている。

 沈黙が場を支配しそうな予感を覚えたおれは「そうなんだ」と、唐突に言ってから、

「その右の若い方がママ・キャサリンだよ」と出来る限り感情をこめず、『ついでに言うと』という程度のノリで付け加えた。

「へぇ……そうなんですか」

 と、明らかに愛想笑いでごまかそうとする桃子。その気持ちを踏みにじるかのように、知恵が一度おれのほうを一瞥したあと、

「オカマさんじゃない」といつもと変わらない口調で言うと、グラスを乱暴に手でつかんで、半分ほど残っていたウォッカ・マティーニを一気に飲み干す。

 桃子が、ちらりと厨房のほうを見たのが分かった。おそらく本人に聞かれるのを気にしているのだろう。

「そないに気にすることないョ」

 とロン・メイメイ。だいぶ酔っているらしく、頬が赤く色づいていつも以上に呂律がまわっていない。

「彼……じゃなくて彼女ぐらいになるともう超越しちゃってるからに~」

「それと」とおれは小声で口を挟む。

「断っておくけど、ママ・キャサリンはオカマさんじゃなくて『アンドロギュノス』だからね」

「あんどろぎゅのす?」

 知恵は近くまで顔を寄せてきて、ささやくように言った。

「そう、日本語では半陰陽ともいうかな」

 もっとも、医学的に言えば性発達障害ということになるけれど、だからと言って人として何か重要なものが欠落しているというわけではない。


 コトッという小さな音と共に、次の料理がテーブルに並べられた。

「上海風パスタのサラダはオリーブオイルかあっさりバジルソースで。にんにくとオニオンのフライは死海の塩かケチャップで」

 これまでの会話を聞いていたのか、ママ・キャサリンは左側の口角だけを上げる。

「『第三の性』よ」

「そうですよね」

 しばらくは存在感を消し去って細々と料理に箸を伸ばしていた桃子が、会話に入ってくる。皆の視線が桃子に集まる。

 え、と、と少し言葉に詰まる桃子には我関せずといった様子の知恵が、オニオンフライにケチャップをべったりとつけて自分の口へと運び、うまいうまいと独りごちている。

「『第三の性』説にあなたは賛成派?」

 ロン・メイメイとママ・キャサリンが見つめるなか、こくりと小さく頷いた桃子が、ちらとだけおれのほうに視線を向けてから、ママ・キャサリンに向き直る。

「例えば血液型、ですね。A型、B型、AB型、O型、と四つの、いわば科学的にも異なる種類があって、どの血液型だから何かが欠けているとか、ある血液型が他より劣っているだとか、そんなことはないですよね」

「あったりまえじゃないの。ただ、血液型が『異なる』だけじゃない?」

 知恵が憮然として言い放つ。

「じゃあ」

 と桃子はひと呼吸ついて、

「A型を男性、B型を女性と見立ててみたら、その両方の要素を併せもつAB型は?」

 ママ・キャサリンがなぜかくつくつと口の中だけで笑いながら、人差し指を自分に向ける。

「ただ」と桃子は続けて、

「血液型については、AB型もある一定以上――日本で言えば一割の人がその類型に属するという事実が、性別とは違うところなんじゃないかと、思います」

 思います、の語尾がいくぶん小さく消えていったけれど、十分皆には伝わっているようだった。

「正常も異常もすべてはおれたちが勝手に決めたことだからね。まぁ日本で血液型占いがもてはやされるのも、性に対する偏見がなかなか無くならないのも、根っこは案外同じところにあるのかもしれないね」

 と、その刹那、おれの脳裏に何かがまたたいた。脳味噌を取り囲む堤防が、一瞬にして決壊したような感覚。そしてそこから何かがあふれてくる。

 一寸後、体中の毛穴から冷や汗が吹き出してくるのが感じられた。目の前がちかちかと瞬く。映像がコマ送りで脳に送り込まれてくる。ブラックアウト――

「性別『O型』の人が来たわよ」

 というママ・キャサリンの言葉でおれは生還する。

「O型?」

「そう、A型の要素も、B型の要素も持っていない。AB型とは全く異なる存在」

 ふらり、とその『存在』は闇の中から突然現れたように感じられた。

 実際にはおれたちと同様、この『ルーマニア』の入口を経由して店内に入ってきただけのはずなのだけれど、どういうわけか誰もそのことに気付かなかったのだ。

 その『存在』はまるで最初からそうであったかのように、唐突にその場所に存在していることもある。そしてときおり感じる脳細胞の違和感、そしてブラックアウト。


「ルーマニア伯爵」


 おれは思わず呟いていた。

 その言葉を聞いたのか、それとも無関係なのかは不明だったけれど、とにかく足を止めたルーマニア伯爵は眠そうな目でゆっくりとおれたちが座している部屋をひとしきり見回したあと、とくに何も語ることなくのそりのそりと、無言で歩を進めはじめた。

 ところどころ光の加減で赤色にも見える無造作なロングヘアー、そして白い、というより青白い顔色からは、何の感情もうかがえない。肌の露出はいつも顔と手の甲だけなのだけれど、透かしてみれば向こう側が見えるのではないかと思えるほど、その素肌は人間離れしている。

 ルーマニア伯爵はそのままさらに奥の扉の前まで進むと、自然な仕草でノブに手をかけて少しだけ開く。

 と、その一瞬後には、かすかな精油の芳香が、料理の香りに混じってきておれの鼻腔をくすぐる。かなり薄められてはいるものの、イランイランの匂いであることはかろうじて判別できた。

 皆が動きを止めて注視する中、ルーマニア伯爵はその扉の奥に消えていった。

 知恵が、鼻の頭を縮めるような仕草をしている。イランイランに対する不快感だろう。

「なに、今の人?」

「だから、性別が『O型』の人だよ」

 おれが言うと、ロン・メイメイはママ・キャサリンにカクテルの注文をつけてから、

「わたしもあんまりよく知らないんだけれども、とにかくそゆことよ。男でも女でもない、という」

 ふぅん、と何度か小さく頷いて引き下がる知恵のその口元はへの字にゆがめられている。明らかに納得はしていないのであろう。

 それは当然といえば当然だ。おれ自身、その『存在』を理解できているかと問われると心もとない。

「で」

 と知恵はぐるりと全員に視線を巡らせてから、

「けっきょくどうなの? 男? 女?」

と切り出すと、小首をかしげた。

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