第4話 場末のバー『ルーマニア』 -1

 初冬の真夜中、背後からすすっとすきま風が吹き込んできたような、そんな寒気をもよおすホラー小説、ホラーサスペンス映画。さらに身の毛もよだつような、思わず顔をしかめてしまうようなスプラッタ映画――

 そんなものを愛でるということ自体を理解できないという人もいるかもしれない。ただ、大半の人はそのおもしろさは「理解して」はいないけれど、「感じて」いることは事実であろう。世間では「怖いもの見たさ」と表現されている感情なのかもしれない。

 鬱蒼とした森の中で、苔むした墓場を発見したら、誰しも恐怖を感じる。ただし、それだけでは終わらない。好奇心も同時に芽生えるはずである。

 おれが初めて『ルーマニア』の入口を発見したときも、それと同じような感覚だったと思う。


 大学一年のある飲み会の帰り道、何を思ったのかいつもの帰り道からふっと反れて、ある路地裏へと足を踏み入れたのだ。

 理由は「なんとなく」としか言いようがないけれど、実際におれがそちらへ行くという判断をしたからには何らかの原因はあるはずである。それが、生理的欲求からくるものなのか、それとももっと大きないわゆる神の意志とでもいうものが関わっていたのか、そこまでは分からない。個人的には後者であると信じたいのだけれど。


 その路地裏にはまず、ゴミがあった。繁華街の裏の顔とはかくあるべし、とでも主張するかのように、これ見よがしに一定間隔おきに巨大な真っ黒いゴミ袋が並んでいる。中身はおそらく生ゴミが大半を占めているのであろう。人の汗と吐瀉物を混ぜて一晩熟成させたような、えもいわれぬ悪臭が鼻につき、思わずえづいてしまったことだけは今でもはっきりと覚えている。

 それで尻尾を巻いて逃げだしてしまえば、おれは一生『ルーマニア』にたどり着くことはなかっただろう。そのときのおれを支配していたのは、少しの恐怖心、嫌悪、そして圧倒的な好奇心だった。好奇心が生存本能を押しのけて生物の行動を規定するのは、もしかしたら人という生き物だけなのかもしれない。


「こんなところに入るの?」

 路地裏へと足を踏み入れた瞬間に、知恵が立ち止まってしまう。

 鼻の頭――よく見るとそれは眉間だったのだけれど――に皺をよせて不快感をあらわにしている。

「来ないなら、いいさ……おれ1人でも行くから」

 ロン・メイメイと、意外にも森本桃子も、とくに躊躇する様子もなく、付いてきている。少しだけ嫌そうに唇を曲げていた知恵も、諦めたのか元通りおれの傘の中に入ってくる。

 しばらくそのまま歩き続ける。と、さらに通路は狭くなり、T字路が現れる。おれは迷わずに左に折れる。

「行き止まりじゃない」

 人が二人ぎりぎり通れる幅の道だった。両側は高い塀で囲まれている。そして、目の前にはのっぺりとした白い壁が立ちふさがる。

「まぁ見ておくョ」

 と、ロン・メイメイはその壁に右手のひらを押し付けて、

「開け、ゴミ!」

「ゴミ……じゃなくてゴマ、だよ、それを言うなら」

 がたん、と何か引っ掛かりが外れるような音がしたあと、メイメイがそのまま横に壁を動かす。古い滑車が回るさび付いた音とともに、その「壁」が開いた。

「へぇ、すごいすごい!」

 さっきまでのしかめっ面はどこにいったのか、急にテンションを上げる知恵。

「『開け、ゴミ』っていうのね。覚えておくわ!」

 それを言うなら――と最前と同じセリフを言いかけて、やめた。そもそも、そんな暗号を使う必要などなく、ただ押して横に転がせば開く扉なのである。

 背後で「閉じよゴミ」と得意げに声を上げる知恵には真実を告げないことにして、目の前に現れた階段を下る。


 扉が閉じられたとたんに周囲から光が消えうせ、暗闇と共に静寂がおとずれた。

 コッコッコッ、ざっざっざっとそれぞれの足音だけが耳に届いてくる。

「あそこ?」

 と、桃子の声。

 視界の中にぼんやりと浮かび上がる赤とピンクの電飾。そして紫色にチカチカと瞬く『ルーマニア』という電光掲示板。

 その扉を抜けると、まず白が目に飛び込んでくる。暗闇に順応したあとの圧倒的な光が、全てのものを白く輝かせているのである。何度来てもこの白に慣れることはなかった。おれは目を細める。しばらくすると、そこに何があるのか認識できるようになってくる。

 木製の床にテーブル、カウンター、そして不釣合いにも椅子だけは強化ガラスで出来ていて、赤とピンク、そして緑色の背もたれのものがある。

 フロアにはカウンター席が5席分、その背後に3人がけのテーブルが1つ。奥にはさらに十人弱が座れる大テーブルが設置されているはずである。

 部屋の四隅にはそれぞれ異なる姿態をしたシーサーの置物が鎮座している。人の膝程度の大きさである。統一感がないようで、それでも不自然に感じないのは、すべてのものにワックスがけされているような光沢があるからではないだろうか、とおれは考えている。


「わぁ、……意外」

 知恵が間延びした声を出す。


「あら、なにが意外なのかしら?」

 声の主はカウンターから出てきて、こちらへ歩いてくる。

 嘘のようにしなやかに腰まで伸びる黒髪、そしてすらりとしたその体をつつんでいるのは、ロン・メイメイと同様、チャイナ服である。青紫色のそのチャイナ服には、肩から腰の部分にかけて、金色のラメが流星群のようにちりばめられている。

 と、何かを言いかけて口をつぐんだ知恵。

 ママさんのヒミツに気付いたのかもしれない、とおれは頭の片隅で考えながら、とりあえず放っておくことにする。

 それを取り繕うかのように、桃子が前に出た。

「あの、竹田さんの研究関係の同僚です。初めまして」

「初めまして。お嬢ちゃん」

「今日はまだ来てないんですか?」

 おれは奥の部屋を覗き込むが、人の気配はない。

「ああ、『伯爵』ね。まだみたいよ」

 ロン・メイメイが軽くママに会釈してそのまま奥の部屋へと入っていく。続いて、桃子と知恵も入っていく。

「そうね……ひょっとしたらまた表でゴミでもあさってるんじゃないかしら?」

 ママが、その尖った顎をさすりながら、誰にともなく呟いている。

 おれはそれを聞き流して奥の部屋へと進みながら、言った。

「ママ・キャサリン……また髭の剃り残しがありますよ」

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