第2話 梅田発なかもず行き -2

「彼のお姉さんは優秀でね。てっきり大学に残ってくれるものと思っていたのだがね」

 ネクタイを外しシャツの第一ボタンをあけ、リラックスモードに入った椋山教授が、知恵相手に楽しげに話している。いつになく饒舌だ。


「すると、竹田さんのお姉さんも、『梅田発なかもず行き電車』の伝説を卒論のテーマにされてたんですか?」

 興味深そうに身を乗り出す知恵の様子に、明らかに気を良くしているのが覗えた。

「そうだよ。彼女は特に統計処理が得意でね。資料は他の人と同じでも、画期的なアプローチをすることでまったく新しい解釈をしていたね。私たちのような頭の固い老人からするとうらやましいほどの才能だったよ。彼女はこの分野に新しい風を吹き込んでくれる、と僕は信じていたんだけどね」

「残念ですね。今はどうしているんですか?」


「東京にいるよ」

 教授の向かい合わせの席から口を挟むと、知恵はちらとだけおれに目を向けすぐに教授のほうを向き、ビール瓶を差し出す。教授は頭をかきながら嬉しそうにコップを差し出す。

「先生、大丈夫ですか? だいぶ顔が赤いですけど」

「あれ、先生ってあんまり飲めないんですか?」

「いや、まぁ、そうだね……だけど今日は気分がいいから大丈夫だよ」

 そう豪語した翌日に椋山教授が死んだマグロのような目をしているのを、何度か目撃している。


「そういえば、夢が関係しているって今日聞いたんですけど、それはどういうことですか? もしかして夢の世界に引きずり込まれるとか」

 知恵は一人身震いしながら勝手に想像を膨らませているようだ。

「いやいやそういうことじゃないよ。――ね、竹田君?」

 あとは任せた、という無言の圧力により、おれが説明する羽目になった。


 そもそも、『なかもず駅の次の駅』など、物理的に存在するはずはない。だがしかし、行方不明者はまぎれもなく存在する。これはどういうことかと考えたとき、どこか別の世界に連れ去られた、もしくは紛れ込んでしまった、というところまでは誰でも容易に考え付く。夢の世界へと取り込まれた、というのは最も大衆的で受け入れられやすいファンタジーであり、そのような噂が広まったのも無理はない。

 しかしほとんどの人はそこで思考停止に陥る。というよりも、はなから真剣に考える気などないのだろう。『夢の世界』に取り込まれるとはいったいどういった現象なのか。このことが分からなければただの空想で終わってしまう。


 うーん、えーと、それは、と適当に言葉を繋ぎながら、どうやって言い逃れようかと思案する

 夢を見るのは、レム睡眠といって体は休息していて脳だけが働いている時間である。起きている間に取り入れた情報を整理する重要な過程であり、たとえ覚えていなくても毎晩見ているものだという。

「僕は逆にノンレム睡眠が関係しているのではないかと思っているがね」

 ぽつり、と教授が口を出してくる。

「ノンレム睡眠というと、夢を見ていないとき?」

 知恵は視線を上のほうに向けながら、言葉を選んでいる様子。

「それって、世間とは違うことを言いたいだけ、っていう天邪鬼根性じゃないですよね」

 冷やかし気味に口を挟むと、知恵が睨みつけてきた。

 目の前のカブの漬物に箸を伸ばしながら、

「具体的には、どういうことですか? 脳が休んでいる間に体だけが誰かに操られるようにふらふらとどこかしら姿を消してしまったっていう話なら、おれも聞いたことがありますけど」

「まぁ……全然何の根拠もないから、今日はこの辺でとどめることにしておくよ。また機会があれば話そうか」

 ただの言い訳なのか、本当に何か考えがあるのか。おれには分からなかったけれど、いずれにしても聞かせてもらえないのなら同じことである。


「お、『なかもず行き』の話か?」

 どん、と肩を叩かれたおれは一瞬咳き込みそうになったけれど、喉までで何とか飲み込む。話に割り込んできたのは、準教授の中村大志である。教授に対しては腹に一物あるというのはもはや教授を含め、研究室の人間なら誰でも知っている。

 そして、教授がそのことに気付いているという事実もまた、中村自身が知っている。それでもこうして表面上はうまくいってはいる。

 ビールの瓶を教授のほうへ差し出し、教授はそれを受ける。

「おいおい、おれにやらせるなよ。竹田、お前の仕事だぞ」

 教授からも社交辞令のビールを受けた中村は、次の目標に向かって去っていく。

 その背中を追っていくと、ちらと視界に芦高浩平と彼のテーマを選んだもう一人の古賀研究室所属、衣笠希の姿が入ってきた。

 

 少しアルコールが回ってきたようだ。次第に周囲の喧騒が遠のいていく。手足の動きも、頭の回転も緩慢になっているのが感じられた。

 ぼんやりとその浮遊感を楽しんでいると、中百舌鳥女子大の古賀教授がおれの隣に移動してきた。

「いい機会だから、君とも色々と話をしておきたいね」

「あ、はい。お願いします」

 普段は押し黙って難しい表情を浮かべていることが多い古賀教授が、予想外に気さくに話しかけてきたことで、おれは少し困惑してしまう。急にそう言われても何の話をすればいいのかが全く分からない。

「あの、椋山教授とは、かなり長い付き合いになるんですよね?」

「そうだよ。もう十五年以上になるね。学会で知り合ってね」

『梅田発なかもず行き電車』の都市伝説について、椋山教授――当時は助手と呼ばれる立場であったけれど――が、ある学会で発表したときに偶然居合わせたとのことである。都市伝説の発表などに興味を持つ人が少ないこともあり、余計に意気投合したようだ。

 古賀教授の昔話を聞きながらも、なんとなく椋山教授のほうに目を向けると、蔵元知恵に加えて椋山研究室の四回生数人とスタッフが数名、教授を囲んでかなりの盛り上がりを見せている。

「と、ちょっとお手洗いに」

 頃合を見計らって、おれは席を立ってその場を離れる。

 

 十五人分の座敷を貸切りにしていたのだけれど、そこに二十人近くが詰め込まれているため、足の踏み場もない状態である。

 背後から知恵の叫び声が聞こえてきたけれど、周囲の喧騒にまぎれて消えていく。

 おれは足元がふらつくのを必死でこらえながら、なんとか隙間を見つけて座敷の外へと向かう。


 途中でなんとなくケータイを手に取り開く。と、着信が入っていた。

 姉さんからであった。昨晩着信を残しておいたので予想はついた。

 とくに用事はなかったけれど、おれはいったん店の外に出て、姉さんに電話をかける。

 何度かのコールのあと一瞬だけ留守番電話サービスにつながり、ブツリとその案内が切れる。

「もしもし……姉さん?」

 しばらく待つ。

 と、ああ、カズヤか、と眠そうな第一声に続いて、

「そうそう、この前お母さんの墓参りに行ってきたんだけどね」

 昨日こちらから電話した件とは関係ないのかと一瞬だけ疑問符が浮かんだけれど、そのまま話の続きを促す。

「真新しいユリの花が供えてあったんだけれど、カズヤじゃないよね? ほんとについ最近っていう感じだったけれど」

「違うよ。もう一年以上墓参りには行ってないし……というか、この前っていつよ?」

「一週間ぐらい前かなぁ……」

「なんだよ、それ。大阪に帰ってきていたんならちょっと声ぐらいかけてくれてもいいのに。こっちはまだ学生だし時間の融通だってきくんだから」

 姉はここ数年とくに仕事が忙しいらしく、久しく会っていない。

「あら、だってあんたのアパートに泊まるわけにはいかないでしょ? もう実家も売ってしまったしどっちみちホテルになるんじゃないの?」

 そういう話をしているのではないのだけれど、と微妙なズレを感じながらも、おれは適当に相槌をうっておく。

「あ、そういえば、昨日あんたから電話あったわね……ひょっとして何か相談でもあったの? それならもうちょっと早めに言ってくれれば寄ったのに」

「いや、別に何もないよ。ただちょっと――」

 声が聞きたくて、と喉まで出てきた言葉を飲み込み、

「そう、寝ぼけていたんだよ。夜中だっただろ」

「ああ、いつものやつね」

 さらりと応える姉の気のぬけた声からは、何の感情も伝わってこない。

 話題は母の墓に誰が供えたのかという疑問へと移り、これといって心当たりの人物にも行き当たらないままうやむやになる。お互いに軽く近況報告をして、電話を切った。

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