現職国会議員 毒ガス暗殺事件 結果報告

 車のテールライトが光の川となって夜の高速道路を流れていく。それを高架下の車線から横目に眺め、メタルはスーパーカブをのんびりと走らせていた。

 

 やがて住宅地を抜けて河川に架けられた橋の中腹でエンジンを止め、歩道に寄せて停車したところでヘルメットを脱いでふうっと息をつく。

 肩紐に両腕を通して背負っていた鞄を広げて現場から回収したガスマスクを取り出すと、ベルトに鉄の分銅を結び付けて川に投げ捨てた。

 重りによって水中へと沈み、完全にその姿を消したところでポケットのスマホが着信音を鳴らした。


「もしもし?」

『私だ。首尾はどうだメタルよ』

「俺に聞かなくてもワイドショーかツイッターを見ればいいだろ。もうニュースになってるよ」

 言いながら欠伸をして軽く首を鳴らす。電話の向こうの男は、不可解そうに唸っている。


『しかし分からないな……硫化水素を使った毒殺自体は例がある。だがどうやってターゲットだけをピンポイントで殺害できた? それもガスマスクをしているターゲットを』

「なんだよ。仕事の出来を疑われているのか?」

『そうではない。だが単純に分からないのだよ。そもそも毒物を使用した暗殺なら臭気の発生しない一酸化炭素や足のつきにくいポロニウムなど、いくらでも使えそうなものはある。なぜ今回わざわざ硫化水素を使った?』

「……」


 電話の向こうの男はメタルにとっての雇用主であり、仕事の結果を評価する見分役でもある。本来ならば前原の写真を送り付けた段階で既に向こうの仕事は終わっている筈なので、これは純粋に好奇心からくる質問なのだろう。


「……二つ目の疑問から答えると、今回の仕事に匂いは必須だった。だからあえて臭気が強く毒性の強い硫化水素を選んだんだ」

『……? どういうことだ』

「硫化水素の腐卵臭はかなり有名だし、その毒性の強さと生成の簡単さから練炭に次いでポピュラーな自殺のお供だ。やろうと思えば中学生でも作れる。そういう前提がある中で暗殺を警戒している連中が密室で腐卵臭に気づいたら必ず硫化水素に発想が届くと思った」

『何故そんなことをする必要がある? 部屋の中の毒ガスに気づかれてしまっては意味が……』

「使ってないんだよ。そもそもあの部屋そのものに毒ガスなんて」

『は?』


 人通りの少ない橋の上、欄干に体を預けながらメタルは言葉を続ける。

「仕込みを始めたのは四日前だ。俺はこのホテルの従業員の一人に成り代わって部屋に侵入した。その上で清掃に見せかけて天井裏の空調ダクトに仕掛けを施した」

『仕掛けだと?』

「スポンジだよ」

 言いながらつまらなそうにため息をつく。春の風が小さく肌を撫でていく。


「卵液を浸透させた状態でスポンジをダクトに設置した。四日間常温で放置された卵液は強烈な腐臭を放ち、前原が部屋に入って空調を動かした時点でダクト内に滞留していた匂いが室内に充満する。つまり室内に満たされていた匂いは硫化水素なんかじゃなくて本当に卵が腐った匂いだったんだよ」

『だ、だったらどうやって殺した? まさか悪臭で死んだとでも言うつもりか?』

「そりゃ硫化水素に決まってんだろ」

『メタル貴様……馬鹿にしているのか』

「してねえよ。俺はあくまでガスとして使用したんじゃなくて、前原だけに毒が盛れる形で使用しただけだ」

『……?』

「言い方を変えようか。あの部屋の中でVIP待遇の前原だけが使用できて、毒ガスの存在が危惧されれば必ず口元に近づける設備、それに俺は硫化水素の発生源を塗布した。だから前原だけが死んだんだ」

『ッ! あ!』

「気づいたか?」


 そう、腐卵臭はあくまでブラフ、目的は有毒ガスを警戒したターゲットにそれを装着させる事。

 

 仕込みはガスマスクの方だった。


「ガスマスクには致死量相当の硫化水素を発生させるための薬品液と、刺激臭を抑えるための活性炭を仕込んでおいた。即死させてもよかったんだが、ホテルから出てきてからじゃないとマスクが回収できないからな。わざと少し抑えたんだ」

『なるほど……』


 要人の為にガスマスクを常設した部屋などそうそうあるもんじゃないし、一番いい部屋に泊まることもあいつの遊説のスケジュールから把握していた。万が一前原以外の人間が宿泊してしまった場合に備えて念の為現場まで来ていたが、それも結局はいらない心配だった。

『確かにその方法なら前原だけを狙い撃ちで殺すことも出来る。だが……』

「だが?」

 電話の向こうで男は分からないという風に唸る。


『トリックは理解できた。だが少々これは回りくどくはないか? それにこの方法ならわざわざ活性炭で臭いを消してまで硫化水素を使わなくとも他の毒を使えば良かっただろうに』

「……」


 お前は本当に暗殺を生業にしている人間か、という言葉を喉の奥で呑み込む。

「硫化水素の匂いがして、本当に硫化水素で死んでいることが重要なんだ。現場を調べればいずれはダクトに仕込んだ腐卵臭の発生源も見つかるし、腐敗した卵からは微量に硫化水素も自然発生することも確認している。つまりは誰かのいたずらで設置されたそのスポンジから、偶然硫化水素が発生した……事故の線が残るという事だ」


 それに、とメタルは言葉を続ける。

「犯行の証拠であるマスクはもう回収してしまっている。臭いの発生源をいくら調べたところで、直接的な凶器がすでに無くなってしまってるんだから、そこから俺に結びつくことがない。結びついたところで悪質ないたずら扱いさ」

『……素晴らしい。よくそんなことを思いついたな』

「ふん……」


 犯行方法が同じならいつかは目をつけられてしまう。面倒でも毎回トリックを変えていくのはこの世界で長く生きるためにメタルが編み出した処世術でもある。

 だからメタルは絶対に同じトリックを二度と使わない。この硫化水素のトリックも二度と使う事はない。


『よしそれではこれで聞き取りは終了だ。ご苦労、それで次の仕事だが……』

「……なあ、ちょっと相談があるんだけどいいか?」

『相談だと? 私は忙しいんだ。後に――』

「そろそろこの仕事辞めたい」


 しばらく、川のせせらぎの音だけが辺りに流れた。電話越しでも分かる、絶句している様だ。


『おい待てふざけるな。一体何のつもりだ。何が不満だ? 貴様にいくら払っていると思うんだ!』

「いやそんなには払ってないだろ。調べたら大卒五年目ぐらいの額だったぞ」

『それの何が不満だ⁉ 十分に食っていけるだけの報酬を受け取っているだろうが!』

「世間一般の連中は人なんて殺さずに同じぐらいの報酬を受け取っているんだよ!」

『ぐ、うう……っ』


 何を論破されているんだと言いそうになった。

 今の組織に拾われてから十年。親に置き去りにされたゴミ溜めのアパートから救い上げて、殺し屋として生きる術を与えてくれたことに対して、例え親の借金をその子供で回収する為にやった事だったとしても一応の感謝はしている。


 だがそれでもメタルは殺し屋稼業の中で五十九人の人間を殺してきた。しかも今回のターゲットは現職の政治家、これからもっと依頼がエスカレートしていっては最早割に合わない。


「潮時なんだよ。あんたらの組織にとっての邪魔者だって粗方片付いた筈だ。俺は抜けさせてもらうぞ」

『……馬鹿を言え。抜けるだと? 抜けてどうする。殺し屋としての生き方しか知らない貴様が表舞台で生きていけるものか!』

「いやまあ確かに不安はあるけどさ、別に無理って決まったわけじゃ――」

『いいや無理だな! おとなしく戻ってこい! 貴様は殺し屋が天職なのだ! 今日だって実に生き生きと仕事をしていたではないか!』

「あ?」

 若干イラっとした。


「待ておい、俺が好き好んでこんな仕事してると思ってんのか。仕事だから殺していただけだクソが」

『嘘だな! 貴様は他人の臓物を引っ張り出すことが大好きな悪魔なのだ! 私には分かる! 私にははっきりと見えている!』

「何が見えてんだよお前」

『それに今更この組織を抜けることなど出来ん! 組織には面子というものがあるからな! 足抜けなどしてみろ、山狩りをしてでも捕まえて殺してやる!』

「あのなあ……」

 平行線だ。一応世話になった組織だったので最低限の筋だけは通しておこうと考えたが、それがそもそも間違いだったのかもしれない。


「ああそうか。なら好きにしな、俺は勝手にやらせてもらう」

『ま、待て待て待て! 貴様に抜けられると穴がデカすぎるんだ! そうだ、報酬をアップしてやろう! 大卒五年目レベルの収入が不満なら課長クラスぐらいの収入が出るように上に掛け合って――』

「そういう問題じゃねえんだよ」

 電話を問答無用で切り、重くため息をつく。


 次いでスマホのSIMカードを抜き取ってスニーカーの踵で踏みつけた。グリグリと入念にすり潰し、スマホ本体は川へと投げ捨てる。

 もともと組織から渡されていたスマホだ。少々惜しいもするが追跡アプリでも入れられていれば厄介である。


「さて、どうするか……」

 口座を止められかねないので貯金の1200万円は既に全額卸しておいた。スマホも別名義で格安SIMフリーを用意してある。その他、鞄には最低限寝泊まりする為のサバイバルグッズ。とりあえずは生きていけるだけの備えはある。あとはどこで生きていくかだ。

「東京にはいられない……北海道は、住みやすそうだけど寒い。そもそも関東圏は組織の縄張りだし……となると」

 メタルははるか先、国道沿いに続く空の向こうに目を凝らす。


「京都、行ってみたいな」

 ひと先ずの行先を定めてスーパーカブに跨る。エンジンを回すと小さな車体は大荷物を載せてのっそりと走り始めた。

 今日この日をもって殺し屋は廃業だ。それに伴いメタルという名前は役目を終えた。だが殺し屋になる前の名前はもう名乗れない。だから彼は自分で自分に名前を付けた。


「矢代鋼……名前を言い間違えないようにしないと」

 殺し屋という単語をローマ字にして組み替えただけのアナグラム。適当と言えば適当だが、そのいい加減につけた名前を結構気に入っている。


 年齢は十七歳。もはや同年代の人間と同じ人生は取り戻せない。だが追いかけることはできる。

 目指すは京都。そして殺し屋をしなくても生きていける世界。目的へ向かって矢代はスーパーカブを走らせた。


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