現職国会議員 毒ガス暗殺事件 2
「おい! 何度言わせる!」
広々とした室内に精緻な細工の施されたアンティーク調の家具。ホテルの一室にあるにも関わらずジョギングができてしまいそうな広い部屋と、併設された浴室にはわざわざ源泉をくみ上げ、東京の夜景を湯船に使いながら一望できる。
一泊にして120万円。その超高級ホテルの一室で前原源十郎は不機嫌を隠そうともせずに怒鳴り散らす。
「前原様、落ち着いてください。一体どうし」
言葉が終わる前に持っていたワイングラスを中身ごとSPの顔に叩きつける。甲高い音と共にガラスが砕けて赤い液体がSPのシャツと顔をべっとりと濡らした。
「グッ⁉」
「臭いんだよこの部屋は! 何度言わせれば気が済む⁉」
ガラスで額が切れたSPを、侮蔑の表情と共に見下ろしながら前原は歯噛みをする。
今日の昼、後援会の会員に前原好みの女がいた。丁度火曜日の愛人が空いていたので、あくまで善意から声をかけてやった。だがあろうことか前原に対してセクハラなどと宣ったのである。
当然すぐに女は脱会させた。それに加えて秘書に命じてその女とその親の両方の会社の人事部へと圧力をかけておいたし、処理に困っていた献金の受け取り名義も押し付けておいた。一か月も立たない内に女の人生はめちゃくちゃに壊れるだろう。だが前原の腹の虫は収まらない。
「ちっ! 一昔前なら地回りのヤクザを使って地獄を見せたものだが、時代だな……この程度で納めてやらなければならないとは!」
部屋の中には四人のSPがいる。前原の挙動におびえる彼らを順番にねめつけて大きく舌打ちをした。
「第一何で今日のSPに女がいない⁉ 私の警護には必ず女を入れろと言ったはずだ!」
「も、申し訳ありません……」
「ふん! 使えん連中だ!」
脳髄から苛立ちが後から後から湧いてくる。仕方がないので秘書に女でも呼び出させようかと思った、その時だった。
「っ、前原様、この匂いは……」
「さっきから言っているだろう馬鹿ども!」
匂いに気づいて、SP達の顔が見る見る青ざめていく。先ほどから鼻につく饐えた様な匂い。
卵が腐ったような匂いである。
「前原様! 今すぐ姿勢を高くして口元を抑えて!」
「あん?」
「密室空間での腐卵臭! 可能性は低いですが暗殺の可能性があります!」
「……は?」
古くよりそれは、多くの人命を奪ってきた。
火山地帯に多く発生し、僅か一吸いで体の自由を奪い、多くの人々の命を奪い続けてきた見えない猛毒。
「毒ガスの可能性があります!」
その名を、硫化水素という。
「な、なあ⁉」
「姿勢を高くしてください! もしも硫化水素なら低い位置に滞留するはずです! 絶対に頭を下げないでください!」
硫化水素は、本来硫酸を基に発生する毒ガスであり、活火山の多い日本国でも地域によってはごく普遍的に存在する気体だ。一見すれば都市部では縁のないように思われる。だが実際には都市部における硫化水素の死亡事故は驚くほどに多い。
自動車などのバッテリーには蓄電用に硫酸が組み込まれている。本来であれば内部の物質が反応しきった電池はそれ以上電気を蓄えないが、その状態で外部電源によって強引に給電を行った場合中の硫酸から稀に硫化水素が発生するのである。
凄まじいまでの毒性と、材料さえそろえば簡単に生成できてしまうその性質から古くより暗殺に転用されてきた。それが硫化水素だ。
「ひっ、ひい! ひいい!」
ベッドに駆け上がり、できる限り口を上に向ける。体中から毛穴が凍るような冷たい汗が噴き出して止まらない。
死ぬかもしれない。そう考えたその時、このVIPルームに常設されたある特殊なアメニティの事を思い出した。
瞬間的に体が動いた。ベッド横、デスクライトの隣に備え付けられた金属の箱を開き、中に入っているそれを急いで取り出す。
この部屋は政治家御用達の宿泊施設だ。当然ガラスは防弾、壁も5センチの鉄板で補強されている。そしてそれに加えて今回のような事態に備えて部屋に常設されていた。
ガスマスクである。
「はっ、あばば!」
冷や汗でべったり顔を濡らし、震える手でマスクを装着する。ベルトを固定して完全に密閉されたところでようやく前原は安堵した。
「お、おい貴様ら! 何をしている早くせんか!」
「え?」
「馬鹿か! この部屋は毒ガスが充満しているんだろうが! 早く外へ避難させろ!」
「え⁉︎」
硫化水素の存在が疑われる密室。一人だけガスマスクを着けて喚く、こちらの危険など考えてもいない前原にSP達の間に不満が走る。
だがそれも一瞬だった。要人警護という自分の職務に徹する事を決意し、四人は迅速に動き始める。
「……分かりました。前原様、緊急用の車両をエントランスに手配します」
「二人が先行します、こちらへ!」
「いいからさっさとしろ!」
二人のSPが通路をクリアリングしつつ先導。その後ろをガスマスクを着けた前原がエアフィルター越しにくぐもった声で罵声を浴びせる。敬語の人間の安全もまだ他の部屋で毒ガスの脅威に晒されている人々の命も、一顧だにする事なく前原は進んでいく。
自分の命は地球より重く、その他の人間の命は空気より軽いのだ。だから自分は生き延びて当然である。
――そうだ、これはむしろチャンスだ。馬鹿な連中の刺客を跳ねのけて私は英雄となる! 私に対する批判的な意見を一掃する為の踏み台だ!
護衛に囲まれながらエスカレーターで通路を下り、今後の青写真を想像して思わず破顔する。
そしてエントランスを出てSPの用意した車に向かおうとした、その瞬間だった。
「げほっ」
それは小さな咳音だった。それが自分の喉から出たと感じたと同時に前原はその場に倒れ込んだ。
「……⁉……⁉」
声を出そうにも喉が動かない。息を吸うことも、立ち上がることも、指一本動かすことすらできない。SP達が何かを叫んでいるが明瞭な言語として脳が受け取らない。
それは高濃度の硫化水素によって脳神経が破壊される重篤な中毒症状だった。
「ぁ……ぉぉ……」
訳が分からない。自分は確かにガスマスクをしていた。だが同行していたSP達は何ともなく、自分だけが倒れ込んでいる。それが全く理解できない。
白くぼやけていく視界の中で、倒れ込む自分を見世物のように馬鹿な一般市民達が写真を撮っている。ふざけるなと思ったが、もう既にそれ以上の思考をする力すら殆ど残されていない。
ただそんな、消えゆく意識の中で妙にくっきりと見えたものがあった。
好奇心の現れた表情を浮かべて写真を撮っている野次馬の中で妙に冷めた表情で写真を撮る、目に隈のあるボストンバックを肩にかけた少年。地面に転がるガスマスクを拾い上げて野次馬の中に消えていく。
なぜその思考に至ったかは分からない。だが前原ははっきりと確信した。
――こいつが、私を……?
それが前原の最後の思考だった。
その日、前原源十郎は硫化水素中毒によって死亡しワイドショーを数週間賑わせることとなり、その事件の特異性から様々な憶測が飛び交う事となる。
なぜならその日、前原の体内以外からは一切の硫化水素は検出されなかったからである。
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