第29話 ずっと支えてくれていたもの

 締め付けるように胃が縮んで耐え難い痛みに襲われてからようやく「腹が減った」と感じる。仕方なく外出して食べられるものとエナドリを買い込み、アパートへ戻って再び企画書作りに戻る。そんな日々が続いた。起きている時間は昼だったり、夜だったり、まちまちだ。その度に翠さんの声で『ちゃんと寝ましょう』とか『食事はしっかり摂りましょう』とか聞こえてくる。

 その声は俺を苦しめた。俺は翠さんの教えを蹴り飛ばして進もうとしている。消えてしまった愛しい人を取り戻せる可能性が残っている。だから命を削って彼女を取り戻す。 母さんが亡くなったときとは違う。俺は無力じゃない。俺だって、母さんのように愛しい人を助けられる。

 それなのにどうして翠さんは幻影になってまで俺の邪魔をしようとするのだろう。俺を死なせたくないから? けど、俺は死んでも翠さんを取り戻したい。

 俺たちは互いを想っているのに敵対している。憎くはない。愛しい。けれど目的を達するための障害でしかない。

 虚しい自嘲をしながらトボトボと歩く。

 気付けばいつもの公園に吸い込まれていた。ランニングコースにテニスコート、それから東家にベンチ。どれだけ世界が色褪せていても変わらないものもある。電灯の下のベンチに腰を下ろした俺は地面を眺めていた。買ってきた惣菜パンをねじ込むが、胃はなかなか受け付けてくれない。

(初めて翠さんに会ったのは学校の教室だったなぁ。でも、ここはそれ以上に記憶に焼き付いている)

 未来の俺が投稿したボヤイッターを見てここにいることを確信し、待ち伏せをしていた翠さんは自らがエロゲのヒロインだととんでもないことを言い出したのだ。

 あれから俺の世界は変わってしまった。エロゲを完成させるためだと指導されてちゃんと寝て、エナドリは控えて……

 毎日のように押しかけてきた翠さんと一緒に食事をした。翠さんは料理ができなからスーパーかコンビニ飯だったけど、カロリー控えめで野菜ばかり選んでいたなぁ。俺の身体に気を遣ってくれたことを思い出して、涙が出てきた。

 それから企画書の書き方に、計画の立て方に、俺に足りないものを教えてもらった。果ては声優までやってくれた。

 涙が止まらない。この公園から歯車が動き出した。

 今、その場所に座っているのはダメなだけの黒沢ヒロキだ。情けない。

 いい作品が書けるなら死んでもいい。翠さんを取り戻すためだったら躊躇いなんて一切ない。

 けれど俺は、企画書ひとつ満足に書けなくなってしまった。翠さんが登場する作品がどうしても思い付かない。

 足元にスーパーのビニル袋を置いたまま、俺はベンチに寝そべった。休んでいる暇なんてないのに身体は言うことを聞かない。気付けば意識が遠退き、眠ってしまった。



 目が覚めたとき、ベンチと頭の間に柔らかくて温かいものがあった。くっ付いたまま離れない目蓋をどうにか開くと、夜空が見える。街の明かりに照らされてぼんやりとしていた。どうやら俺は膝枕されているらしい。頬に当たるスカート越しの太ももは華奢だった。

「マリア?」

 視線を移動させると癖っ毛で眼鏡をかけた女の子が目に入った。普段着のマリアは「まだ寝ていてもいい」と言うが、俺は身体を起こして立ち上がる。すぐに食料の入った袋を持ち上げ、黙って去ろうとした。

 しかし、俺の行く手を遮るようにマリアが立ち塞がる。いつもよりもずっと大きく見えたのは気のせいだろうか。

「退いてくれ。忙しいんだ」

「退かない」

「……どうしてここにいるって分かった?」

 断固たる意志を感じ取った俺は、少しだけマリアとの会話に付き合ってから逃げることにした。フラフラの状態で荷物を抱えていてもマリアよりは早く走れる。お互いに運動は苦手だが、それでも体力の差は歴然としているのだ。

「澪が片棒を担いでくれた。ヒロキがアパートから出てくるまで見張って、教えてもらった」

 いつから名前で呼ぶような仲になったんだ、志島と。それにしてもマリアが俺以外の人間と距離を詰めるなんて妙なことが起きたものだ。しかも志島のやつ、こんな不規則な生活をしている俺を見張るだなんてよくやる。

「教えて。ヒロキはどうして苦しんでいるの?」

「苦しんでなんかいない。俺がやることは決まっているんだ」

「わたしはずっとヒロキと一緒にいたから分かる。すごく苦しんでいる」

「お前なんかに何が分かるんだよ!」

 反射的に大声を出してしまい、すぐに自己嫌悪で気持ちが重くなった。

 十年以上も付き合いがあって、初めてマリアを怒鳴りつけてしまったのだ。マリアは平坦な顔を崩して、涙目になっている。肩を震わせて、みるみるうちに身体が小さくなっていった。

 頬から流れる涙を拭う様子もなく呆然としている。

(いけない)

 マリアが泣くところを二回だけ見たことがある。一回目は、マリアが親に画材を全部取り上げてられて絵を描くことを禁止されたとき。あのときガキだった俺は白石家に乗り込んで猛抗議し、マリアがいかに才能があってすごい奴なのかを熱弁した。その甲斐あってかマリアは絵を描くことを許されている。

 二回目は今だった。絵を描くことを禁じられるのと同じくらいのショックをマリアに与えてしまった。なんてバカなことをしでかしたのか……

 もう、どう取り繕えばいいのか分からない。本当に惨めだ。翠さんを消してしまい、マリアを泣かせた。

 踵を返し、立ち塞がるマリアに背を向けて逃げようとした。けれどその背中に温かいものがくっ付いてくる。両腕を俺の腰に回し、いつものようにマリアが抱きついてきたのだ。

「充電…… ヒロキが元気になりますように、って」

 一体、どんな顔をしているのだろう。まだ泣いているのか、それとも……

 容易く振り解けそうなのに俺は動けないでいた。

 同じだけど、違っていた。これはマリア自身が『充電』されているわけじゃない。俺を『充電』してくれているのだ。翠さんと同じように……

「わたしはヒロキに何度も助けられた。『一緒に紙芝居を作ろう』って言ってくれたから、わたしの絵は意味を持った。足りなくなったクレヨンを分けてくれた。面白い漫画を教えてくれた。映画に連れていってくれた。美術館に誘ってくれた。わたしが描くことを取り上げられた時、ヒロキだけは本気で怒ってくれた」

「……」

 背中でモゴモゴ喋られるとくすぐったい。

 なのに声はよく通って耳に残る。

「ヒロキを助けたい。ヒロキが苦しんでいるなら、その苦しみをわたしにも分けて」

「なんで、そこまで……」

「わたしはヒロキを愛している。ヒロキが幸せになるようにがんばる。ヒロキがわたしにそうしてくれたように」

 俺はゆっくりとマリアの腕を解いた。そして彼女に向き直ってそっと抱き締める。

 ずっとマリアのことを尊敬し、憧れていた。俺もマリアみたいにすごいものを作りたいと考えていたけど、いつからかそれは敵わないと悟った。絵と文章の違いはあれど天の上の存在がすぐ近くに居る。せめてどうにか役に立てないかと必死だった。それはマリアが好きだったのか、それとも愛だったのか、俺にはどちらだか分からない。

「笑わずに聞いてくれるか?」

「聞く」

「頭がおかしくなったと思われるかも」

「本当におかしいと思ったら病院に連れて行く」

「病院はちょっとイヤだな」

「話してくれるの?」

「うん」

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