第27話 永別

 台所に母さんが立っていた。その背中を見て「あぁ、これは夢だ」と落胆する。

 母さんが死んだのはもう十年も前だ。アクセルとブレーキを踏み間違えて突っ込んできた車に轢かれ、亡くなった。そのとき俺は母さんの隣を歩いていた。母さんは車道側にいて、俺の顔のすぐ横をタイヤが横切った途端に姿が見えなくなった。そのことだけはハッキリと覚えている。目玉に焼き付いてしまったと言っても過言じゃない。ほんの十センチの差で、俺はかすり傷だけで済んだのだ。

 ブレーキの音に気付いた母さんは咄嗟に俺の身体を突き飛ばしたのである。だから、みんなが母さんを褒めた。自分の子供を命懸けで守ったのだと。悲しかったけど、俺はそれが誇らしくもあった。

 身寄りのなくなった俺を親父は引き取ろうとした。その頃、親父はとうに再婚していてた。けど、新しい母さんと新しい妹とは馬が合わず仲良くできなかった。だから中学に入る前には家を出て一人で暮らすようになった。それから親父も干渉してこなくなった。

 あのとき、思い知ったじゃないか。現実にいる人間は簡単に消えたり居なくなったりする。永遠不滅の二次元こそが至高の存在である。だから三次元はダメなんだ。ずっとそう考えていたのに、二次元のキャラだった翠さんも消えてしまった。例えようのない痛みだけが俺の中に残っている。



 スマホに電話がかかってきて目が覚めた。受話器の向こうには、きつねソフトの古村さんがいる。怒っているのか困惑しているか判断できない声音だった。

『ちょっと、黒沢くん! 一体どういうことなんだい!? うちへの内定を蹴るって』

「すいません、メールした通りです」

『あのね! せめて理由くらい話してくれてもいいじゃないか』

「他人に言えないことなんです。それじゃ」

 電話を切る。

 どうやら内定を蹴ったメールに対して、直接確認したかったらしい。

 翠さんが修正する前の未来じゃ、俺は就職に失敗しているのだ。だからこれは本来の状態に戻っただけである。

 俺の頬はキーボードの上に突っ伏していた。外が明るいので昼だろうか。二日くらい寝てなかったから気絶したのかもしれない。頭の中が膿んだようにズキズキ痛んだ。さっさと治したくてテーブルの上には飲み残しのエナジードリンクを口に含み、追加で冷蔵庫からよく冷えた新しい一本を取り出して飲み干す。甘ったるい味だけが舌に残って大して効果が無い。

 パソコンの前に戻るとディスプレイには次の作品の企画書が映し出されている。タイトルは『しろクロこんたくと!』だ。五年後の俺が作った大ヒット作らしいが、その内容は断片的にしか知らない。

 でも、やるしかないんだ。これが唯一、俺が思いつく翠さんを取り戻す方法だ。

 あのピンク髪ツインテールの神様は『しろクロこんたくと!』を、俺が命を削って書いた傑作と評していた。でも翠さんの歴史修正によって消滅してしまった。

 その作品を世に送り出した未来の俺は過労死したらしく、そんな俺を助けるため翠さんは過去の俺に色々と干渉してきたのである。生活態度を改善させたり、計画性を身に付けさせたり……

 その結果、俺はきつねソフトに就職が決まった。だから『しろクロこんたくと!』を書くという未来が消えた。

「翠さんを取り戻すためなら」

 空になったエナジードリンクの缶を握り潰そうと力を込める。けどそんな握力なんて俺にはなかった。部屋の隅に投げ捨て、作業を再開する。

 命を削って、死んでもいいという覚悟を持って書けば翠さんを復活させられるかもしれないんだ。

 寝ている時間なんてない。食べるのも面倒だ。

 書いて、書いて、書いて……

 目が腫れぼったくて文字が霞んできた。こんなことくらいで機能が低下する肉体に嫌気が差す。例え寿命が半分の半分になったっていい。いや、あと五年しか持たなくても構わない。寝ずに書き続けられる体が欲しい。そう願ってしまった。

『ダメですよ、ヒロキさん。ちゃんと寝ないと』

 聞き覚えのある声がしたが振り返らない。大人気エロゲ声優・天音みのりの声だ。

 翠さんを取り戻すと決めてから聞こえるようになった幻聴である。何度も、何度も俺を惑わせてくる。

『食事は生活の基本です。朝はしっかり食べましょう。ほら、ゴハン買ってきましたよ』

『何事も計画性! 計画性ですよ!』

 矢継ぎ早に告げてくる。どれもこれも翠さんが教えてくれたことだ。

 苛立ちが募った俺は背後を振り返った。そこには白スーツの女の人が立っている。一瞬だけ、翠さんが生き返ったのかと思った。けれど髪の毛は鮮やかな緑じゃなくて、枯れた葉っぱみたいに色を失っている。

 そいつは地縛霊みたいに突っ立っていて、顔はのっぺらぼうだった。足は透けていて殆ど見えていない。

 もしかして、翠さんは消える前に俺を恨んだのかだろうか? やっぱり消滅なんて嫌だと思ったのだろうか?

「翠さんの幽霊?」

 答えてくれない。

「俺を恨んでいる?」

 やっぱり答えてくれない。

「いいよ、恨んでも。俺がダメで情けない人間だから、翠さんが消えなきゃいけなかった」

 幽霊はピクリとも動かなかった。

 いっそ、怒り狂ってくれた方がずっと気が楽なのに。

「俺の命をあげるよ。それで翠さんが生き返るなら惜しくなんてない」

 言葉に出して、ふと母さんのことを思い出した。

 俺は医者だか神様だかに願ったんだ。俺は死んでもいいから、母さんを生き返らせてくれって。

 また同じ喪失感を味わっている。吐き気がして、俺はトイレに駆け込んだ。

 エナジードリンクの甘い香りが逆流してしばらくそこから動けなかった。

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