第26話 わたしは彼が心配

 白紙にまっすぐな線を引く。次の白紙には真円を描く。いつもの準備体操を終えるまでの間、志島澪はわたしの手元をジッと眺めていた。もう慣れてしまったのでいちいちツッコミを入れない。線を描く様子を見て何が楽しいか分からないけど、以前ほど邪魔だとは感じなくなっていた。

「相変わらず見事だねぇ」

「ただ線を引いているだけ」

「でもすごいよ」

 いつもこんな感じのやり取りをしてから部活が始まる。と言っても、最も大変だった同人ゲーム作りもイベントも終わっていたのでのんびりできた。わたしはいつも通りタブレットPCを取り出して絵を描き、志島は持ち込んだノートパソコンと睨めっこしている。

「そういえば何を作っているの?」

「おっ、マリアちゃん。もしかしてボクの作品に興味があるのかな」

「ぜんぜんない」

 肩がコケた志島だったが、何を作っているのかちゃんと説明してくれた。どうやらサッカー部の大会のチラシを頼まれて作っているらしい。本当に器用なヤツだなと思いつつ、わたしは自分の作業に戻る。

 集中力をペン先に持ってきた矢先、志島は不意に口を開いた。

「そういえば最近、ヒロキくんを見ないね」

「学校を休んでいる。もう三日も」

「えぇっ!? ケガでもしたのかな?」

「ケガでも病気でもないみたい。担任の佐藤先生が昨日、家に行ったらしいけど何があったのかは教えてくれなかった。わたしがメールを送っても返事がない」

「大丈夫かなぁ。そうだ、今日の部活はこの辺にしてヒロキくんの家にお見舞いに行かない? あ、突然お邪魔したら迷惑かな。まずはご家族にアポを入れて……」

「ヒロキは一人暮らししてる。交通事故でお母さんが死んじゃって、お父さんは再婚したけど継母や義妹と仲が悪くて家を出ている。だからその辺のことは気にしなくて平気」

 志島はポカンとした後、気まずそうに視線を逸らせた。ヒロキの家庭事情を知らなかったらしい。あいつが自分から絶対に話すことは滅多にないだろうけど。

「そ、そうなんだね。じゃあ、そのまま様子を見に行っちゃおうか」

 わたしが無言で頷くと、志島はノートパソコンを片付けてリュックに詰めた。学校を出たら自然とこの前のイベントの話になる。わたしと志島が一般入場した頃には完売していたので、すごいことになっていたのは想像できた。ボヤイッターでもわたしたちのサークルが賑わっている様子がいくつも投稿されていたし。

「いやぁ、すごかったよね。完売だよ、完売。ヒロキくんも無事、きつねソフトに内定したし」

「すごかった」

「でもさ、初めてサークル参加なのによく一人で捌けたよねヒロキくん」

「一人?」

 頭がズキンと痛んだ。当日の様子を思い出そうとしたけど、一部にモヤがかかっている。ヒロキはスペースで一人だった。そう記憶しているのにひどい違和感がある。他に誰かいたような気がしてならない。たった数日前の印象的な出来事をすっかり忘れるほど、脳みその性能は悪くない筈だ。

「本当に一人だった?」

「え? サークルチケットで入場したのはヒロキくん一人だったよね?」

 そう返されてしまうと反論しにくい。

 だから流すことにした。

「それとさ、ヒロキくんが見つけてきた声優さんの演技もうまかったよねぇ。ボクは音声の編集もしたけど、どう聞いても天音みのり本人だったもん。もしかしてアレって天音みのりの別名義なのかな」

 また頭痛がする。わたしたちのエロゲに収録したボイスが脳内で再生されると、確かに天音みのりのものだった。けれど、天音みのり本人じゃない筈だ。どこかおかしいのに、そのことを訴えられないままわたしたちはヒロキの家まで歩く。

 ボロアパートの二階にある『黒沢』の表札の部屋でインターホンを押した。すると中ですごい音がして、勢いよく玄関の扉が開かれる。室内からは腐臭が漂ってきて、志島は顔をしかめていた。

「……なんだ、マリアと志島か」

 わたしたちの顔を見るなり、ヒロキはひどく落ち込んで肩を落とす。髪の毛は脂ぎってボサボサだったし、目は真っ赤に充血していた。明らかに様子がおかしい。

「忙しいんだ。帰ってくれ」

 手短に告げたヒロキは無理にドアを閉めようとしたが、志島は咄嗟に手で抑え込む。腕力なら志島の方が上だった。

「あのね、ヒロキくん。キミが三日も学校を休んでいると聞いて心配になって来たんだよ。それを『なんだ』はないんじゃないかな? それに『きつねソフト』へ就職できたんだからお祝いくらいしたいし」

「きつねソフトなんてもうどうでもいい。就職する気もない。帰ってくれ」

 いけない。ヒロキの目が据わっている。

 嫌な予感がしてわたしは志島の二の腕をそっと掴み、首を振った。察してくれた志島がドアから手を離すと玄関がバタンと閉まった。

 志島はプルプルと震えて拳を握っている。あんまりな態度に腹を立てているのだろう。

「行こうか、マリアちゃん」

「うん」

「機嫌が悪いみたいだから出直そう。せっかく早く上がったことだし、寄り道デートしていかない?」

「いいけど、デートじゃない」

「ははは、お堅いなぁ」

 肩の力を抜くための冗談だったのだろう。志島は見た目にはいつも通りに戻っていた。人当たりがいいだけあって自分のコントロールが上手い。ヒロキとは大違いだ。

(それにしても……)

 最近のヒロキはちゃんとお風呂にも入るし、ご飯も食べていたのに。さっきのヒロキは昔に逆戻り……いや、それよりももっとひどい状態に見えた。

 一体、何があったんだろう?

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