第22話 伊月翠の涙
黄昏時を迎え、コミックフェスタは無事に終了しました。数万人の欲望渦巻いていた逆三角塔はすっかり熱気が冷め、撤収作業するスタッフさんばかりが目立ちます。私は黒髪のウィッグとウサミミを外し、バニースーツのまま会場のテラスに出て海に沈む夕日を眺めていました。港湾には大きな船が行き来し、そのシルエットが妙に染みます。緑色の髪を掻き上げると潮風が吹いて大きく靡きました。
ヒロキさんが出された採用条件は「同人でエロゲを作ってコミックフェスタで千本売ること」ですので、見事に達成されています。
「これで、あの投稿は消えたはずです」
胸の谷間にしまっておいた(他に入れる場所がなかったんです……)スマホを取り出し、キャプチャ画像をチェックして行きます。『きつねソフトに入社できなかった』というヒロキさんの投稿は消えていました。
安堵のあまり腰が抜けそうになり、テラスの手すりに寄り掛かります。
「よかった…… 成功しました」
これで未来は変わりました。最悪の結末は回避できたのです。
しかし、強烈な違和感がありました。自分の手を見ます。指も爪もしっかりありました。もっとも消えなければならないものが残っているじゃありませんか!
「まさか……」
できれば見たくないという理由で、別のフォルダに封印してあるキャプチャ画像にアクセスします。そこに並んでいるのはヒロキさんのボヤイッターの投稿ではありません。ROM専しか許されぬ二次元世界にいたとき、とある方のブログをキャプチャしたものです。
『今日は悲しいお知らせがあります。つい先日、私の大切な人が亡くなりました。まだ二十二歳という若さでした』
『彼とは一度仲違いしてしまい、しかし最近になってまた一緒に仕事をする機会に恵まれたことを無邪気に喜んでいました』
『彼は最初の就職で大きな失敗をし、憧れていたゲームメーカーに入れなかったのです。その挫折が彼を変えてしまいました。良い作品書くためなら自分の命も削るなんて、そんな考えは改めさせるべきでした』
『私は人生で何度も彼に助けられてきたのに、私は彼を助けられなかった。ほんの少しでも健康に気を遣ってあげることができればと思うと、悔しくて、情けなくて、後悔しかありません』
淡々と文字で綴られた悲嘆を目にした私は崩れ落ちてしまいました。そんな筈はありません! 未来が変わっていないじゃないですか!?
どんどん自分の体温が下がっていくのを感じます。まさか、きつねソフトへの就職失敗はヒロキさんにとっての特異点ではない?
念入りに生活習慣を改善させ、その上で初めてのエロゲ制作を成功させたというのに、これでは全てが無駄になってしまいます。呼吸する度に肺が重くなり、視界が暗くなる錯覚に襲われました。
一体、どうすれば……
「伊月先生?」
名前を呼ばれて顔を上げると、すぐ近くにマリアさんがいました。今日は私服姿でピンクのフチの眼鏡をかけています。ヒロキさんと休日会う時のお洒落アイテムですね。一般入場で志島さんと一緒に様子を見に来てくれたのです。
「だいじょうぶですか? 顔色が悪いですけど」
「ちょっと疲れてしまっただけです。心配かけてすいません」
「でも」
「平気です。ほら、ぜんぜん元気ですから!」
我ながらわざとらしいと思いつつ、元気アピールにビシッと決めポーズしてみせます。マリアさんは若干引いてしまいましたので失敗でしょう。
ともあれ、こんな風に気を遣ってもらえてなんだか嬉しいです。というのも普段のマリアさんは明確に私を敵視しています。教室でも部室でも鋭い目を向けられては内心で冷や汗を流しているんですよ……
やはりヒロキさんの側に他の女がいる状況は許せないようですね。
「……少し、話をしてもいいですか?」
あらたまった様子のマリアさんに「場所を変えましょう」と提案をします。イベントが終わっているので施設内の人は疎らですが、私が妙な注目を集めてしまっていることに変わりはありません。
ちょっとだけ移動してテラスの出入り口から見えない場所に行きます。その間、マリアさんは黙ったまま俯いていました。一体、何の話をするつもりなのでしょう……
「お話というのは?」
「大事なことです。イベントが終わったら話そうと思ってました」
真剣な空気を纏っているため、私まで緊張してしまいました。こんなバニースーツのままでよかったのでしょうか? 思いっきり胸の谷間を晒していますよ私ってば。
スゥッと息を吸い、マリアさんは顔を上げます。いつもの眠たそうな表情ではありません。かといって睨みつけてくる目をしていません。これまでにない熱を感じました。
「伊月先生は素敵な女性です」
「え? え?」
いきなり褒められてしまいました! 予想外の一手に私は困惑を隠せず、片方の眉が下がります。
「美人で背は高いし、脚は長いし、胸は大きいし、声はよく通るし、落ち着いていて優しいし、物知りだし……」
「あ、ありがとうございます?」
「あと、とても綺麗な髪の色をしています」
心臓が大きく跳ね上がってしまいました。反射的に自分の髪を一房、掴んでしまいます。
マリアさんはさらに大きく息を吸います。小柄な彼女の背がグンと伸びた気がしました。
「それでも、わたしは負けません」
ジッと私の目を見つめてきます。刺々しさを捨てた勝負の眼差しでした。
「わたしは何度もヒロキに助けられました。ずっと甘えていた。でも、それじゃ伊月先生に勝てないって分かったんです。だからわたしもヒロキを愛して、ヒロキを助けて、一緒に生きていきます」
刹那、私の奥底でガラスが割れるような音が響いて全身へと伝わっていきます。
何かが大きくズレて、もう二度と元には戻らないという錯覚です。けれど絶望感も喪失感もなく、胸が満たされた私の目からは涙が流れました。
手の甲で目元を拭ってマリアさんに背を向けてスマホの画像アプリを確認します。未来のマリアさんのブログのキャプチャは全て消えていました。
今、最後のピースが揃ったのです。
ヒロキさんに必要なのは正しい生活習慣や、夢見た会社への就職だけじゃなかった。やはりマリアさんだったのです。
「先生?」
「いえ、なんでもありません。白石さんの気持ちはわかりました。でも私も負けませんよ!」
グーを作って前へ突き出すと、マリアさんも同じくグーを作ってコツンと拳を当ててきました。恥ずかしそうに顔を真っ赤にしています。その様子がかわいらしくて思わず笑ってしまいました。
釣られてマリアさんも笑います。初めて見る彼女の笑顔はとても素敵でした。
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