第14話 ずっとわたしだけをみてほしい
コピー用紙を一枚、作業机の上に置く。何も書いてない。雪のように真っ白な紙だ。そこへ使い古したシャープペンシルで右端から五ミリの位置に直線を引いた。定規は使わず、右手だけでまっすぐな線を引く。指先にかかる力が一定になるようにコントロールし、息を止めて視線を固定する。
書き上がった線は紙のフチと完全に平行だった。一呼吸置いてから、それをひたすら繰り返し、左端に到達したところで紙を九十度回転させる。また右端から同じことを繰り返すとコピー用紙は方眼紙になった。
「よし」
隅っこに今日の日付を入れて二枚目の白紙を取り出す。紙の中心に直径十ミリの円を描き、そのさらに外に直径二十ミリの円を描いた。直径を十ミリずつ増やして同じ作業を繰り返す。コンパスを使わなくても円は中心はズレていなかった。
昨日描いたものと見比べてみた。指先の調子は悪くない。まずまずといったところ。
準備運動を終えて本番に取り掛かる。液タブを乗せた机に移動し、黙々と作業をする。頭の中に浮かんだ線を手から出力していく。イメージと手元のズレは時間の無駄になるから、神経を研ぎ澄ませた。アンドゥは極力使わない。左手デバイスでひたすら操作時間を短縮する。
どれくらい時間が経ったのかも分からない。疲労の積み重ねにやや指先が鈍ったタイミングで声をかけられた。
「にゃー」
足元にもこもこの黒い影が擦り寄ってきた。愛猫の凛である。凛は賢い猫なのでそろそろ休憩しようと思った時にやって来るのだ。
「よしよし」
抱き上げてやると凛は喉を鳴らした。温かくて柔らかい。顔を近づけて猫を吸うと頭が冴えてくる。
動物特有の匂いは好きだ。匂いを嗅げばなんとなく相手の体調も分かる。凛は年寄りだけどいたって健康だから安心できる。若いのに不健康なのも身近にいたけど。
「最近、ヒロキの匂いが変わった」
ヒロキという名前を出した途端に凛は暴れ出した。仕方ないので離してやるとしなやかに着地を決めて毛繕いを始める。多分、人間の言葉を理解している。だってヒロキのことを話す度に凛は顔をしかめるのだ。でも逃げないから勝手に続けてしまう。
「元気な匂いになった。エナドリ臭くない。あと、かすかに大人の女の匂いがする」
アドバイザーがいるとヒロキは話していた。女の匂いはそいつのものに違いない。甘い匂いなのに爽やかなフルーツに似た香りだ。それが日に日に濃くなっていくのでもやもやする。部室でヒロキに「充電」する度、鼻についてしまうのだ。
実は今日、その匂いソックリのものを嗅いだ。ファミレスで向かいに座った緑髪の女……クラス担任の伊月先生から。教室で会うことはあっても今日ほど近づいたことはない。それにあの先生が来てからヒロキの様子が変わっていった。そのことから推測してもアドバイザーというのは伊月先生である可能性が高い。ヒロキはずっと伊月先生のことを意識している。
しかし、今問題になっているのは志島澪の方だ。中学校の頃のあいつがヒロキに手を貸していたのは知っている。ヒロキの手書き小説をパソコンで打ち直して、ホームページまで作ってやっていた。けれど高校に入ったあたりから二人が疎遠になったのを覚えている。内心、ホッとしていた。だからヒロキのゲーム作りを手伝わせても平気だと踏んだのに。
「あの女……」
ファミレスでのことを思い出すだけで腹が立った。伊月先生に呼ばれてヒロキが席を離れた後、わたしは志島澪と二人きりになった。お喋りな志島はどうでもいい話題を出してきて、わたしは適当に返事をしていた。しかし。あろうことか「白石さんはヒロキくんと付き合っているの?」なんて聞いてきた。
わたしは咄嗟に答えられなかった。十秒くらい考えてから「付き合っていない」と返した。その途端、志島は大きく息を吐いて「そうだよね、ヒロキくんヘタレだもんね」なんて言いやがった。
それから妙に嬉しそうに「実は一年生の頃、歴史資料室でヒロキくんに抱き付く白石さんを見てしまった」とか「付き合っているのかと思ってショックを受けた」とかベラベラと……
あとはよく覚えていない。頭に血が昇ったわたしはコップの水を志島の顔にぶちまけていた。てっきり、掴みかかってくるかと思ったのに志島は泣いてしまった。そのせいでわたしはヒロキに怒られたのである。
「見られていた」
最悪だ。志島には気付かれていたかもしれない。部室がなくなってしまったら、ヒロキに抱き付く機会がなくなってしまう。中学校にあがる前から始めた儀式だけど人目のあるところでなんて絶対にやりたくない。
凛は部屋の隅に置いた紙袋に猫パンチをして遊び始める。部室で一度だけ着たバニースーツが入ったままになっていた。破かれても困らないけど、一応は中身を取り出して他の箱に仕舞っておく。
凛は空っぽの紙袋と戯れた後、そそくさと部屋を出て行った。気を取り直して作業を再開。ヒロキに頼まれているエロゲの絵を描く。既に立ち絵は全部終わっているし、背景もほぼ出来上がっていた。イベントシーンもそれほど難しくない枚数である。資料を間近でみたからバニーガールのえっちシーンもばっちりだ。
わたしは、わたしの描いた絵を他の誰かに塗って欲しくなかった。だから自分で線を描いて自分で塗る。それでも締め切りに間に合うくらいのスピードは持っている。
「企画書……」
カバンの中からヒロキの書いた企画書のコピーを取り出す。どういうわけか手書きだったが、たった三枚の中でわかりやすく主旨がまとめられている。いつものヒロキの小説にありがちな、風呂敷を壮大に広げてどんどん話が大きくなるパターンじゃない。ロープライスのエロゲくらいのボリュームできっちりと計画が練られていた。
これもアドバイザーとやらの手が入っているのだろう。おそらく伊月先生だ。そうなるとあのムカつくほど美人の先生は、生徒がエロゲを作るのを手伝っていることになる。そんな教師がいていい筈もない。
「イライラする」
ペンの動きが乱れる。集中力が干からびたのは余計なことばかり考えてしまうせいだ。
最近、周囲に邪魔者が増えてきた。消えてほしいと思えば思うほど心が重くなっていく。
風呂にも入らず、ろくに食事も摂らず、授業中は寝てばかりで口を開けばエロゲの話ばかりするヒロキが心配だった。いつか倒れてしまうんじゃないかと、不安だった。だからヒロキに「充電」してきた。
そんなヒロキがどんどん変わってしまう。ずっと一緒にいたわたしが知らないヒロキになろうとしている。
「……」
手が止まってしまった。その日はもう何も描けなかった。
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