第3話 担任の先生がエロゲのヒロインだと言い出した

 自宅アパートの最寄り駅まで戻ってきて、そこからトボトボと歩く。もしかしたら夢を見ているんじゃないかと思ったけど、そんなことは全くなかった。

 気付くと太陽は沈んで夜になっている。春先の温かさはどこかへ行ってしまったらしく、肌寒く感じた。

 すぐに家に戻らず、近くの公園に寄り道する。ここはランニングコースやテニスコートがあってなかなか広く、人が多く集まるが休める場所もたくさんあった。アイデアに詰まるとフラッとここに来てボーッとする。するとまた筆が進む……という俺なりのサイクルなのだ。

 ただし、木立の向こうに尖塔が連なったお城が建っている。一見すると公園がお城の敷地のような構図だが、実際のところそれはラブでアレするホテルだった。

 電灯の下のベンチに腰を下ろしてふと空を見上げる。街の明かりに照らされた夜空は濃い青色で、流れる雲は暗い白。そこに月が煌々と輝いていた。

 視線を落とせば花を落とした桜の木々が青々とした葉っぱを付けている。どうして緑色の葉を青々と言うのか以前から疑問を抱いている。緑は命とか力強さを感じるから好きな色だし、どうしても青と言えば空。そんな考えのアタマだからこそ引っ掛かるのだ。

 そういえば、今朝は驚いたな。すごい美人の先生が担任になったけど髪の毛が緑色だった。

 そのインパクトから比べれば、さっきの「同人でゲームを作ってコミフェスで1000本売る」って案外常識の範疇なんじゃないだろうか?

 いいや、そんなことない。冷静になれば無理難題だ。俺は物語は書けるけどゲーム作りなんてやったことないのに。

「はぁ…… どうすりゃいいんだろ……」

 コンビニで買ったエナジードリンクを飲み干し、何の考えもなしにスマホでボヤイッターのアプリを開く。このSNSはユーザーの投稿をタイムラインに流すというもので、フォローしていれば相手の「ぼやき」が見れる。フォロワーが多ければ多いほど世間的な注目度が高い人物というわけだ。

 ミッドナイトノベルのアカウントとボヤイッターのアカウントは連携させているおかげで、それなりにファンの数もいるし、なにか投稿すれば反応もあった。先程の本人確認のための「ラーメン食べてる」にもリプライがあるほどだ。

 なんとなくスマホのカメラを池の方に向ける。水面に月が映って綺麗だった。がくりと落ち込む俺の心には沁みる。

 写真を撮って、ちょっとした短文を添えてボヤイッターにアップしようとする。

 しかし、投稿ボタンを押そうとした刹那に背後から声をかけられた。

「黒沢ヒロキさん、ですね?」

 唐突に名前を呼ばれて肩が震える。その勢いでスマホを落としてしまう。

 声はエロゲ声優の天音みのりソックリだった。

 ベンチに座ったまま振り返ると、数メートル後ろに一度会ったら二度と忘れないであろう容姿の人物が立っている。

 すらりと長い脚に、白いジャケットとタイトスカートのスーツ姿である。それに完璧な左右対称の顔と切長のアイスブルーの瞳だ。腰まで伸びる髪の毛は桜の木の若葉と同じで清々しいほどの緑色をしている。

 今朝、俺のクラスの担任となった伊月先生である。

「い、伊月先生?」

 どうしてここに、という疑問より先に立ち上がって「気を付け」の姿勢をとってしまった。普段は丸まった背中を伸ばして両手を太ももにピタリと付けている。自分でも顔の筋肉が硬っているのが分かった。

「そんなに驚かないでください」

 俺の警戒を解くように優しそうな笑顔を作り、「座ってください」と促してきた。

 言われるがままベンチに座ると伊月先生はすぐ隣に腰掛ける。距離がすごく近いせいで、いい匂いがした。香水だろうか。大人の女性ってこんなにいい匂いがするもんなんだな……

「エナジードリンクの飲み過ぎは身体によくありませんよ」

「えっ?」

「授業中、机で寝ているときも独特の臭いがしていました。朝だけじゃなくて今も飲んでいたのでしょう?」

 先生が指を差した先にはエナドリの空き缶が転がっていた。スマホと一緒に慌てて拾い、ベンチに戻る。

 というか、寝ている俺の臭いを嗅がれていたというだけで猛烈な恥ずかしさが込み上げてきた。面倒臭くて二日ほど風呂に入っていなかったのだが、強烈なエナドリ臭がそれを誤魔化してくれたらしい。サンキュー。

「えっと、何か用ですか?」

 そもそもの話、どうして俺がここにいると分かったのだろう?

 学校が終わってすぐにエロゲメーカーの面接に向かって、ようやく帰ってきたばかりだ。用事があるなら俺の家で待っているのが確実だろうに。

 黙ったまま伊月先生は空を仰ぐ。釣られて俺も同じ方向を向いた。

 さっき綺麗だなと思った月はもっと美しく見えた。

「月が綺麗ですね」

「え、あ。はい」

「……こほん」

 何故か半目になって咳払いされた。やはり怒られるのではないかと、背筋が冷える。

 こんなに綺麗な人がすぐ隣に座っている状況なんて、俺にとっては二次元以上に二次元らしいイベントだ。三次元に興味がない筈なのに心臓が爆発しそうである。

「あなたは池の水面に映る月の写真を撮ってボヤイッターに投稿しました。文面はすべて平仮名で『つききれい』と」

「え? いや、まだ投稿してませんけど。え? え?」

 スマホの画面を覗き込まれていたのか? いや、伊月先生の登場にびっくりしてスマホを落としたとき、何メートルも距離があった。投稿画面を盗み見ることなんてできない。それに文章を打つ前だった。何を書こうとしていたかなんて、俺の頭の中を知らなければ分かる筈もないのに。

「二次元世界に住んでいても現実世界のインターネットにもアクセスできます。しかしROM専以外は許されていません。ですのでヒロキさんのボヤイッターは創設期から全てスクショしました。ぼやきの投稿日時と池の形からこの場所を特定したのです。今日、あなたがこの時間にこの場所に必ず来るのは必然です」

「言ってることの意味がよく分からないんですけど」

「私は、未来のあなたが書いたエロゲのヒロインです」

 ……んんん?

 話がよく見えなくなったぞ?

 混乱がピークに達して脳みそがフリーズしそうだった。伊月先生の言葉を心の中で復唱し、眉間を押さえてまた思考に耽ってみる。個々の単語の意味は分かるが、それらを連結してみると全くもって意味不明である。

「いや、ぜんぜん分からないんだけど……」

「混乱させてしまって申し訳ありません。ですがこれは事実です」

 伊月先生の表情からは笑顔が消えて真面目な顔になっている。よくエロゲに出てくる高潔な女騎士みたいに凛といていて、芯の強さが滲み出ていた。

「えっと、伊月先生?」

「翠と呼んでもらって構いません。シナリオを書いたヒロキさんは私にとってお父さんも同然の存在なのですから」

 年上の女性を呼び捨てにするのはハードルが高過ぎる。しかも担任の先生だ。

 言葉に詰まった俺はどうにか「翠さん……」と切り出す。この辺りがギリギリの妥協点だろう。だがお父さんなんて言われても実感が湧く筈もない。

「エロゲライターの『黒沢ヒロキ』はイチャラブの名手として業界でも名高い存在でした。そんな彼が……つまり、五年後のあなたが企画して大ヒットを飛ばしたのが『しろクロこんたくと!』というアダルトPCゲームです。私はその作品に登場する攻略可能ヒロインのひとり」

「ちょ、ちょっと待って! 俺をからかっているだろ!! だいたい、二次元のキャラクターが現実世界にいるわけないし!!」

 さすがに声をあげてしまった。伊月先生……翠さんのセリフは悪い冗談にしか聞こえない。そう判断されるのも織り込み済みらしく、あくまで冷静な態度のまま続けた。

「疑うのも無理はありません。常識的に考えればあり得ない話です。しかし、二次元の世界は存在しています。この世界にアニメやゲームや漫画やラノベなどのコンテンツが生まれたとき、それと鏡写しになる存在が二次元の世界の中で誕生するのです」

「いや、信じられるわけないでしょ!? もしそんなものがあったとして、どうやって現実世界に来たんだよ!?」

「エロゲの神様の力を借りました」

「そんなのいるの!?」

「はい。二次元世界には他にも青年コミックの神様や覇権アニメの神様・売り上げランキング一位のスマホゲームの神様などがおられます。この世に生まれたあらゆるコンテンツのキャラクターたちはその神様たちの元、二次元世界の中で自作品の評価をボヤイッターでエゴサしたり、原作にはないキャラ同士の絡みをしながら生きているのです」

「頭が痛くなってきたんだけど」

「ごめんなさい。ここからが大事なのでもう少し我慢してください」

 頭を下げる翠さんに対して、俺はさっさと逃げ出したい気持ちになっていた。もしかしたらこの先生はちょっとおかしいのかもしれない。見た目は綺麗だけど中身はアレみたいな感じ。

 けれどそんな気持ちとは正反対に無性に信じたいというのもあった。だってそうだろう? 綺麗なお姉さんが「未来から来た」みたいなことを言い出して、あまつさえ二次元の世界やエロゲの神様が存在するなんて断言したのだから。

「エロゲの神様にお願いして、私は過去の現実世界で実体化しています。すべては私を創り出したヒロキさんに会うためです」

「……そ、そうなの? なんのために?」

 まさか、世界を破局から救うとか。実は俺の中には眠れる未知の才能があって、それが覚醒すると外宇宙からの……などと妄想が花開く。

 いや、信じたわけじゃないぞ。俺はそんなにちょろくない。

 翠さんはベンチから立ち上がり、池の方に歩く。緑色の髪を揺らし、こちらを振り返った。その背中には水面と月がある。そこに佇む白スーツの翠さん。なんて「絵」になる人なんだと見惚れてしまった。

「ヒロキさんにお願いがあります」

 アイスブルーの瞳が潤んでいた。そんな顔でお願いなどと言われて断れる男が果たしているだろうか?

 まるでアニメの告白シーンだ。今日が初対面だから絶対にそんなことないと分かりつつ、男子高校生はアホなので変な期待をして鼓動が最高潮に達する。

 一体、何をお願いされてしまうんだ。耳の内側で血流がドンドンと音を鳴らしてやかましい中、涼しげな声が響く。

「私の髪の色を変えてください」

 ひんやりとした風が翠さんの髪を大きく揺らした。

 それからたっぷりと十秒、なんのリアクションも取れずに時間が過ぎる。未来だとか二次元だとかエロゲの神様だとか意味不明ワードが並んだ中で、まるで脈絡のない「お願い」がされてしまって拍子抜けする。

「え? どういう意味?」

 思わず聞き返すと翠さんは顔を伏せ、拳を握って震わせた。これまでにない怒りの色である。

「古来よりエロゲにおける緑髪は不人気の象徴です。この髪はまさに呪われた証!」

 落ち着いた雰囲気がガラリと変わり、翠さんは天に拳を突き立てる。お月さまでも殴るつもりだろうか。それはそれでサマになるのがなんだか悔しい。

「なぜ…… どうして私の髪は緑色に設定されてしまったのでしょう? こんな色でなければ『しろクロこんたくと!』のキャラクター人気投票で最下位になることなんてなかったはず! いいえ、それどころか人気ナンバーワンも手堅い! 人気エロゲ声優の天音みのりボイスなのですから!」

 悲劇のヒロインよろしく首を大きく傾けると青い瞳が俺を捉える。嫌な予感がして退避しようとしたが翠さんは一瞬で間合いを詰めてきた。しかも座ったままの俺の両手をガシッと握ってくる。うおっ、見た目以上に力が強い!?

「ですが実際は人気がないせいで店舗特典のテレホンカードの絵柄になれず、抱き枕カバーもおっぱいマウスパッドも販売されず、唯一のグッズといえばイベントで配られたクリアファイルだけ! あまりにも惨め過ぎます!」

「う、うん。そうだね。というかCVは天音みのりだったんだね……」

「はい、お姉さん演技なら右に出るものはいない天音みのりボイスです! というわけでヒロキさんにお願いしに来ました! 私の髪の毛の色設定を変えてください!」

 握られた手が熱い。おまけに顔が近い。おそらく、こっちが本来の翠さんなんだろう。先生として教壇に登った時とはまるでイメージが違っていた。

 先程の怒りや悲哀はとうに消え失せて、希望に満ち溢れた笑顔になっている。百面相か。

「あー……」

 どう答えればいいものか。手を握られているから逃げるのも無理そうだ。この素敵ボイスを曇らせるのに激しい罪悪感が湧いて出る。

「話を全部信じるとして未来の俺が翠さんのゲームを作ったんだろ?」

「はい! エロゲライターの『黒沢ヒロキ』といえばヒットメーカー! 数々のエロスを世に送り出した漢の中の漢です!」

 こんなに綺麗な人の口からエロゲとかエロスとかいう単語がダダ漏れすると動揺してしまう。アングラだからこそ輝くものが陽の光に晒されてしまった気分だ。どうにか気を取り直して重い気分で告げる。

「お願いって言っても俺、『しろクロこんたくと!』ってエロゲのこと何も思い付いていないよ」

「へ?」

「未来の俺ってのがいつ頃、そのエロゲ作ったのかは知らないけどさ」

「そ、そんな! だってボヤイッターには5年くらい前に企画を思い付いたって投稿してたじゃないですか!」

 それは今よりも未来の俺の発言だろう。

 自分で言うのもアレなのだが、しでかしたことなので察しが付く。おそらくは長い構想期間の上で作り上げたゲームだと見栄を張ったのだ。今でもよくSNSでデカイこと言ってしまっているから間違いない。

「とにかく! ごめん! 何も思い付いていないんだから設定を変えることなんてできないって!」

 握り締めた手から力が抜けたのが分かる。ショックのあまり呆然としているようだ。

 ゆっくりとベンチから離れても翠さんは一向に動かず、俺を追ってくる様子もない。もうどうやってフォローすればいいかも分からず、俺は自宅アパートへと急いで帰った。

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