鬼火使い

明日朝

鬼火使い

「鬼火には、触れるな見るな、近づくな。あれは死骸から生じた怪しき霊魂なのだから」


 祖母の代から伝えられる戒めに、たまきは従順だった。



 鬼火と呼ばれるそれは、死を運び、畏怖をまとっては揺らめく炎とされる。

 環はその火玉を、何者よりも酷く恐れていた。


 人の屍から生じる火、あれは青白い光を灯しながら、宙を自在に泳ぐと言う。まるで意思を持った付喪神のようだと、それを見た人間は語っていた。


 鬼火は、環だけではなく里の者からも嫌忌されていた。里の誰しもが恐れおののき、口を噤む。鬼火の名を口にするだけで、胸の底に埋まる魂が口から出て行ってしまう、それほどまでに鬼火なるものは恐怖の象徴となっていた。


 その名を呼ぶだけで魂を持って行かれる、おぞましい存在。

 環も、それを畏れる者の一人だった。が、環の父親だけは里の人間とはまた違った。畏れを抱く里の者とは異なり、ただ一人はっきり「鬼火」という名前を口にできる希有な人間だった。


 もしかすると里の人間の中で一番勇気がある人だったのかもしれない……。しかし。彼は環が十二の齢を過ぎた頃、川に流されて命を落とした。あまりに突然のことだったという。


 それからだ、環はあの火玉をとりわけ酷く畏れるようになった。しめやかな通夜が行われる中、環は心の中だけで、誰に言うわけでもなく淡々と呟いた。


(きっと、あれの名を呼んだからこうなった。あれが父さんの魂を持って行ってしまった。父さんの魂も、あの青い炎の一つになったんだ)


 そう思うだけで、環の背筋になんとも言えない悪寒が走った。村の誰しもが恐怖を抱く、あの灯火。あれはきっと、人を彼岸へと招く誘い火なのだ。

 

 だから環は十四になるまで、鬼火の「お」の字さえ呼ぶのを躊躇った。あれの名を口にしてしまえば、父みたくあちら側へと連れて行かれる。

 決してあの名を――心中で呟くだけでも戦慄するあの名前を――口にしてはならない。


 そう、言いつけを固く守っていた環だったが、十六になる頃だった。里の近辺で異変が生じた。里を囲むようにして連なっている山々にて、怪しい明かりのようなものが目撃されるようになった。

 それも、毎夜の如く頻繁に。


 明かりは、一つや二つなんて数ではないという。列を成し、山の頂から麓にかけて、すっと降りていくのだ。


 環は心臓に冷水がかけられたような思いだった。列成す明かりの大群は、まるで村を目指すかのようだった、と里の人間は言っていた。


(ああ、あれがもし村に来るようなことがあれば、どうなるのだろう。皆が皆、死んでしまうのだろうか。あれに魂を吸い取られて、物言わぬ骸にされてしまうのか)


 環はあまりの恐ろしさ冷や汗をかき、何度も腕をさする。けれど、対処のしようもなく村での時を過ごすしかなかった。たった数日だというのに年を越すほどに長く、全く気の休まらない日が四日、五日と過ぎていく。


 そうして十日が経ち、鬼火の群れはどういうわけか、鳥が行く先を変えるように、山の中腹に引き返していった。


 その合間に、環は仕事の一つでもある、仕掛け網の点検にと川に下った。が、その道中、ひらけた川沿いを、早足で駆けている時だった。


 川に隣接した林の間から、ぽうと明りが覗いた。畏れていたあの明かりを、ついに見つけてしまった。

 ぼんやりと薄く儚く、おぼろに発光する青白い不気味な火玉。それらはほろほろと宙を舞いながら、林の奥から蛍光のような光を放っていた。

 火玉の群れを前にして、環はとうとう覚悟した。


(ああ、やはり来てしまった。父さんを連れ去った時みたく、私の命を彼方先へと持っていこうと、迎えに来た――)


 観念したように、環は体の力を抜く。光の群れはゆらゆらと、左右に揺らぎながら漂うようにして林の奥から現れた。まるでこちらの様子を窺っているかのように、左右にひっきりなしに揺れている。その姿は獲物の動向をつぶさに観察する、獣の姿と重なった。


 そのままどれくらい経ったろうか。まるで半日経ったと錯覚してしまうほどの長い沈黙だった。暫しの空白を経て、鬼火が不意に、ゆらと大きく揺れ動く。


 環がそれでも動けずにいると、鬼火と共に人が一人、ざりと砂利を踏んだ。


 立ちすくむ環の前に現われたのは、年若い少年だった。

「君……この里の子か」


 環は呆然と、鬼火を連れた少年を見つめた。環よりも一、二歳程年上か、人の良さそうな笑みを貼り付けている。

 

 彼はほっそりとした首を捻って、不思議がるような顔で環に問いかけた。しかしその周囲には、無数の鬼火が魚みたく、宙を泳いでいた。


「……あなたは」


 辛うじて口から出た言葉は、恐怖からか緊張からか震えていた。少年は張り付いた微笑みを変えないまま、連れていた鬼火の一つに指先をあて、なぞるように触れる。


「ああ俺かい。わたる……と人からは呼ばれているよ。鬼火を導くだけの、ただの人間だ」


 渉と名乗った少年は、慈しむように鬼火を撫でていた。ただし、撫でるとは言っても相手は触れることの出来ない火だ。触れる動作を真似る、ただそれだけの行為だった。


「なら、あなたは……鬼……といても、平気なの? 普通なら、触れたら魂を抜きとられると、そう聞いていたから」


 鬼火、という言葉を曖昧に濁して尋ねる。途端に少年は呆けた顔で、鬼火に触れていた手を引っ込めた。


「なんだ、まだそんな下らないおとぎ話を信じる人間がいたのか。確かに、鬼火は屍から生じる怪なる火だ。だが、悪さなんぞしない」

「でも」

「なんなら、触れてみればいいさ」


 少年は、冗談なのか本気なのか、よく分からない声色で言う。環は青ざめた。うろえたように左右に首を振りながら、少年から一歩二歩と距離を取る。いや、違う。取りすぎた。


 環の体がぐらりと傾いて、足を捻りながらくずおれる。

 すぐ間近に飛沫を上げて流れる、水かさの増した河川が迫り、環は思わず目を瞑った。

「おっと」

 しかし、倒れかけた環の体をとっさに少年が支える。

 少年は環を右腕だけで抱きとめ、そのままぐいと力強く引っ張り上げた。


「危ないな、きみ」

 少年の声がすぐ傍らで聞こえ、環ははっと我に返った。慌てふためき少年から離れるが、動悸が激しく息も弾む。しかも、足に鋭い痛みが走った。


「怪我でもしたのか?」

 少年が覗き込んできて、環はいいやとすぐさま否定する。しかし少年は環の話をまるで聞いていないようだった。みるみるうちに赤くなる環の足首を見て、不意にその背をさっと向ける。かと思えば体を屈め「ほら」と後ろ手に手を伸ばした。


「里まで送っていってやるよ。ここからじゃ、そう離れた距離じゃないだろ」

「けど」

「痛みを我慢しても何も解決しやしない。ほら、送ってやるから、おぶされ」


 少年の挙動に、環は困惑しきった顔で視線を左右にさまよわせた。鬼火と一緒に行動している彼に、身を任せていいものかという迷いと、わずかにのしかかる罪悪感が、少しばかり。


 しかし結局、環は痛みに堪えられなかった。これほどの怪我は久方ぶりだった。多分、捻挫はしただろう。


「……じゃあ、お言葉に甘えて」

「おう、こういうときくらい、人を頼れ」


 少年の背に身を預ければ、その周囲を鬼火がふっと取り囲んだ。途端に環は引きつった悲鳴を上げて、反射的に体を反らし、逃げようとした。

 だがそれより先に少年が立ち上がってしまったために、もう降りることも叶わない。

 

 少年がゆらりと歩き出す。周囲を仄かに照らし漂う、鬼火と共に。


 環は、しばらくの間は沈黙していた。だが、避けようにも鬼火が視界にしつこいくらいに映り込む。だからか、尋ねずにはいられなかった。


「あの、あなたってなんでまた……鬼……と一緒に、いるの?」

「渉でいい。それとな、いくら鬼火と呼んでも、魂は抜けないし取られやしない。俺が良い例だ」


 背中越しに、くつくつと笑いを漏らす声が伝わる。環は試しにと、その背中に頭を寄せ、耳をつけた。確かな鼓動の音が環の耳に伝わる、脈動する細かな音まで、はっきりと。


「心配性なんだな」

「……それは。だって、嘘をついているかもしれないもの」

「はは、違ったか。用心深い子か」


 鼓動に被さるようにして、からからと笑う声が、少年の背中から響く。それが妙に心地よくて、環は目を伏せた。鬼火が環の体を掠める都度、ほんのりと暖かな気配がした……そんな気がした。


「俺はさ、鬼火を導いて生きているんだ」

 少年が、明るい声をわざとらしく出す。


「屍から生じた鬼火は、行く当てもなくさまよって……その果てに、人知れず消えちまう。そんなの、悲しすぎるだろ」

「でも、それが鬼火というものでしょう」

「ああ。だが個としてこの世に生まれてきた。それだけで何かしらの意味があるんだよ。鬼火にだって、意味があっても許される……それに」

 

 少年の心臓の音が、心なしか早まっている気がした。彼はどことなく弾んだ声で「それに」と強調するように繰り返して告げる。


「それにお前、鬼火って今、はっきり呼んだだろ」

「あ」


 環が思わずといったように口に手を当てる。鬼火、と確かに環は口にした。けれど、その響きはなんだか心地が良いようだと思った。あれほど忌み嫌い、畏れていたあの言葉だというのに。


「見たことのない、触れたことのないものには、知らずの内に恐怖を抱くものだ。だが実際に触れて、見て、口にして……そうたいしたものじゃないって、気づくもんだ」


 少年は、環を背負ったまま軽快な足取りで川辺をつたう。鬼火と呼ばれていた青白い火の玉が、少年を囲むように宙を泳ぐ。飛びかい揺らめく火玉……火霊の一群に、環は何も言わず、ただ背に耳を当てていた。


 ふと顔を上げると、里の灯りが見えてきた。気づけばかなりの時間が経っていたらしく、既に日が暮れようとしている頃合いだった。


 太陽が山の向こうに沈みかけ、空は赤く焼け付き、空も森も、焼けた色から宵闇へと移り変わろうとしている。

 家を出た時は、まだ午前だったというのに。


「そら、俺が行けるのはここまでだ。後は一人で向かえ」

 少年は里の端、田畑に入りこんだところで立ち止まると、その身を屈め、環を地面にそっと下ろす。環は惚けたような顔で、少年を見つめた。


「何故、里には下りないの? 送ってくれたお礼をしたいのに……」

「鬼火を待たせている。彼らと共に里に向かえば、きっと混乱して、迷惑をかけちまう。だったら、元から近づかない方が、お互いのためだ」


 少年が困ったように笑う。彼の周りには、未だにあの火があった。青く、白く、集るようにして舞う無数の火の光。


「ああ、もうそろそろ行かなきゃ。彼らが待っている」

 少年は川辺を伝うように目を走らせ、更に視線を上げた先、深緑の山を愛でるように見つめた。


「これから、鬼火の一つ一つを誘導して山を越える。その先でまた山を越えて、また山を……鬼火が安息できる土地を探して、導いて、移動して……それをひたすら繰り返す」


 風に吹かれて、鬼火の尾が左右に揺れる。少年は慈しむように目を細めて、環から離れていく。


「じゃあ、達者でな。俺らは、これ以上は近づけないし、近づかない。鬼火と、鬼火に続く者は、人と交わることはできないから」

「……そんなこと。あなたはなんとも思わないの」

「はは……そうさね、好きでついてきているだけだ。ついていくって言っても、憑き物みたく憑くもんだがね」


 里の灯火がぼんやりとした灯りを灯す。辺りはとうに薄闇に覆われており、日は山並に消え落ちた。烏のやかましい鳴き声が、里から山から、うるさい程にこだましている。

 夜が迫る。鬼火がさらに明かりを帯びる。


「ほらほら、あまりかっかするな」

 少年がひらひらと手を振り、鬼火を引き連れて来た道を引き返していく。鬼火がかすかな光を上げている為か、少年の姿は宵闇に紛れることもなく、はっきりとした輪郭を保っていた。

 遠ざかる少年の背中を、環は茫然とした顔と眼で追っていた。


「あの火と共に、あの少年は……」

 環は言いかけて、口を噤んだ。その先に続く言葉が、単に浮かばなかっただけだった。


「……鬼火使い」

 環は絞り出すようにしてたった一言、掠れた声で呟いた。


 その、夜のことだ。

 里の人間は、山の向こうに消えようとする鬼火の集団を見かけ、たいそう驚いたという。

 その姿は、伝聞に書かれていた百鬼夜行のようだった、と皆が皆、口を揃えた。


 無数の明り――青白い光を発する灯火たちが、集うように、列を作るようにして山をゆったりと上がっていく。その様子はぞっとするほどに美しい景色だと、舌を巻いた者もいる程だった。

 山の中でゆらゆらと蠢き、照らし、陽光みたく輝く火の群れは、夜中を過ぎた頃にも確認できた。


「あの鬼火の中に、彼も混ざっているんだろうか」


 環は里の片隅に佇み、朝日が覗くまでの数刻の間、山を眺めて過ごした。

 鬼火、と口にすればする程に、恐怖が波風のように去って、引いていく。それは形容しがたい、不思議な感覚だった。


(あれ程畏れていたというのに、それ程に恐ろしいものでもなかった……あの鬼火と呼ばれる存在は……割と、だけれど)


 鬼火はそれから、三日の時かけて山を渡った。山をなぞるようにして上り行き、山を照らす明るい灯火の集団は、やがて三日の宵を越えた後、その姿を眩ました。


 そうして、さらに五日が過ぎた頃のこと、隣の里から、誰が流したともつかぬ噂が流れた。

 里の人間が、不可思議な少年を見かけたという奇妙な話だ。

 彼は森の手前に鬼火を連れて佇み、不可思議な事を言っていたのだという。


『彼らは灯火だ。価値も取り柄もないかもしれないが、彼らも意味を持って生まれたモノの一つなんだ』と。        

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鬼火使い 明日朝 @asaiki73

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