(140)言葉の調理

 日本語の奥深さについて色々考える事が多くなったこの頃の僕だが、前回はやたらと「焼く」事が多い表現について語ってみた。


 が、他にも日本語は「調理している」気がしてきた今日この頃な訳だ。


 例えば、とあるプロジェクトの企画を「煮詰める」事もあれば、「塩漬けにする」事もあり、理屈を「ねて」みたりもする訳で。


 しまいにゃプレゼンをしてみれば、


「もうその話はお腹いっぱいだよ」


 なんて言われたりする。


 つまり、彼らはその企画を「料理」に見立てている訳で。


 以前「擬人化」について語った事があったが、これはその逆で「料理化」している訳だな。


 考えてみれば、様々なものが「料理」に例えられている事に気付かされる。


 一時期、人間の顔の特徴を「ソース顔」だとか「しょうゆ顔」などと表現していた時代もあった。


 更に最近では「しお顔」なんて表現まで生まれているらしい。


 まるで汗をかき過ぎて乾いた後に塩が固形化した顔なのかと想像してしまうが、どうやらそういう事では無いらしく、「あっさりした顔立ち」の事をそう呼ぶのだとか。


 随分とヘルシーな顔立ちがあったもんだと個人的には思ってしまうのだが、よくよく考えてみれば、小さくて可愛い子を「食べちゃいたいくらい可愛い」なんて表現をする事もある訳で。


 可愛い孫の姿が「目に入れても痛くない」なんて表現から「食べちゃいたい」という表現に変化してきたのだとすると、日本食が世界に評価されるのと同じくらいのペースで、日本語の表現も「料理化」してきたのではと思えて来るな。


 他にも味覚に例える表現は沢山あって、「にがい経験だな」「しょっぱい出来栄えだぜ」「甘い言葉に騙されるなよ」「このゲームは激辛だぞ」みたいに表現しているし。


 つまり「ヤキモチを焼く」という言葉も、「数ある言葉の調理の一種でしか無かった」という訳か。


 うーむ。


 つまり、小説を書くという行為は、「言葉を調理する」事によって「作品という料理を提供する」という事なのかも知れないな。


 そうして出来上がる作品は、「甘く、ほろ苦く、ピリっと辛く、そして旨い」みたいな感じで、読者の「心の舌」を満足させる必要があるという事なのかも知れない。


 なるほどな。


 かなり難しい気がするな。


 僕なんかに出来るのかしらね。


 まあ、料理は嫌いじゃないし、材料が「言葉」に変わっただけだと考えればいいのかも知れないな。


 という訳で、これからは「言葉の調理」について、頑張ってみようと思う、今日の僕なのでありました。

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