第9話 昔の話

 受験勉強でごった返す図書室は静かなはずなのにうるさい。別に用もないのにやってくる奴らの雰囲気は存在するだけで騒音だ。どうせ勉強する気もないくせに。

 誰も借りに来ない本を待ってカウンターにいるのもバカらしくなって、カウンター内側の別室に図書委員の特権を使って僕は度々引っ込んだ。

 元々成績が良かったのが取り柄だったけれど、受験時期になってしまっただけで、何人かの友達は妬みなのかなんなのか、僕から離れていった。余計に僕の成績は上がるばかりだ。


「と、図書委員さん」

「えぃっ?」


 滅多に話しかけられることもない日常に慣れすぎて、変な声を出してしまった。


「ふふ。不思議な返事だね」

「ご、ごめん」


 肩までのふわふわとした色素の薄い髪と、緩い表情をした彼女は柔らかい笑顔で立っていた。


「この本ありますか?」

「あ、えっと調べますね」


 パソコンを軽快に叩くのが珍しいのか、カウンターにほとんど乗り込んできそうなほどに覗き込んでくる。


「あー、ないですね。市立図書館とか行ったほうが良いかも」

「じゃあ、いいや」

「いいんだ」

「うん、いいの。口実だから」

「口実?」

「そう、口実」


 真っ赤になった頬を隠すわけでもなく彼女は真っ直ぐと僕を見つめた。


               

 それから次の日も、その次の日も欠かさずその子はやって来るようになった。あんな言葉を人生で初めて言われて、僕も意識しないはずがない。彼女のくるくると回る表情も突拍子もない話も、僕にはない感覚が刺激されてどれも楽しかった。


「図書委員さんは学年トップだし、やっぱり受ける高校は○○高校だよね?」

「いや、ちょっと悩んでるところ。君はどこ受けるの?」

「えっ。や、あの、それはまだ、で」

「決めてないんじゃん。公立だっけ?」

「その……図書委員さんと同じところがいいな、って」


 風にかき消されそうなほど小さい声だったけれど、僕の耳は聞きこぼさなかった。


「いいよ。じゃあ一緒に△△高校受けようか」

「えっ、でもそれじゃ図書委員さんのレベルが下がっちゃう」

「勉強はどこででもできるでしょ。記憶力には自信があるし、覚えることは得意だから」

「親御さんとか、先生とかダメって言わない?」

「親は理解してくれるタイプだから大丈夫」


               ◆

               

 その子と何度も図書室で一緒に勉強を続けて、本格的に寒さが厳しくなってきた頃の帰り道。下ろし立ての手袋なのだと、直前までしていた会話が嘘かのような単語が彼女の口から飛び出した。


「私、病気になっちゃったみたい」

「え?」

「病気、や・ま・い」

「いや、聞こえてる。聞こえてるけど……」

「ふふ。ねえ、図書委員さんは記憶力に自信あるよね?」

「うん、あるけど。そんなことより病気って、命に関わること? 大丈夫なの?」

「大丈夫。命は関係ないよ。ねえ、図書委員さんは私のこと覚えていてくれる?」

「それはもちろん」

「約束だよ?」


 差し出された小指は、降り始めた雪のせいか震えていた。


                ◆


 『忘れられる病』というものを知った時、ふざけた事象がこの世にはあるもんだと思った。親しくなればなるほど、名前を呼び合うほどに親交が深まればなるほど進行が早まるだとか、発症者以外にも興味を持たなくなれば症状はおさまるだとか、いくら記憶力が良くとも抗えない、だとか。

 かかった側はどんな気持ちでいれば良いのだろう。いつか忘れられてしまうと思いながら生きると言うことだろうか。そんなの辛いに決まっている。

 一方でどうしても信じられない自分がいた。だって彼女は目の前に存在しているのだから。興味なんか売るほど持ってる。そんなに彼女と僕は親しくないと言うのだろうか。


「ねえ、こないだの話、本当、なんだよね」

「うん、本当。少しずつ周りの人たちが私のこと−−」

「いや、言わなくていい」

「ごめんね。受験が終わってからいえば良かったよね。気が散っちゃうよね」

「全然、そんなことない。夏乃は悪くない。僕の問題だから」

「ねえ、図書委員さん。いつか図書委員さんも私のことを忘れてしまったら、また思い出してくれる?」

「そりゃ、もちろん」

「じゃあいつかそうなってしまった時のために予防、書いておいて?」


 僕が普段持ち歩いている手帳を指差して、首をかしげながら小さく笑った。


「その手帳、図書委員さんの大事な言葉が詰まってるんでしょ?」

「うん、まあ」

「それ見て、思い出して? 必要なら私のサインとか書いちゃおうかな」

「いや、いい。いらない」


 すでに忘れた時の予防を書いてることは夏乃には言わなかった。


「図書委員さんのサイン私は欲しいけどな?」

「……」

「どうしたの?」

「そのさ、図書委員さんってのやめない?」

「えっ! で、でもでもでもでもでも名前とか呼ばせてもらっちゃったら」

「大丈夫、記憶力には自信あるよ。だから僕の名前を呼んで。絶対に忘れないから」

「じゃ、じゃあ」

「う、うん」


 変に意識をしすぎて暴走する心臓を止めるのは難しい。頬も熱い。

 彼女の控えめな口が僕の名前の形に開いて、空気が吐き出される。


「−−……」


 −−気づいたら受験が始まっていた。

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