第5話 毎日の話3
「あ! 図書委員さん! 遅いよー。今日はもう図書室開けないのかと思った」
図書室の前から僕を見つけると、待っていたと思われる彼女は駆け寄って来た。
「利用者私しかいないからって、それはひどいよー」
「えっと……」
何か頭の中に靄がかかったようにすっきりとしない。
「あ、っと……」
なんなのだ、この目の前のものを掴めないような感覚は。彼女に向かって言葉が出てこない。
「と、図書委員さん! ねえ、私の名前、なんでしょう?」
「早瀬、夏乃……」
言葉が反射的にこぼれ落ちた。
それと同時に頭の中の霧が吹き飛ぶ。なんだったんだ。
「……早瀬は利用者、ではなくないか?」
「失礼な。たまに本読んでるし……」
図書室の鍵をあけ、目一杯の日差しが僕たちに刺さる。
「どうして今日はこんなに遅くなったの?」
「整備委員の代わりを頼まれたから仕方なく」
「図書委員のお仕事もあるのに他のことまでするなんて、図書委員さんはお人好しだね」
カウンターに座り、入荷された本の整理を始める。新しい本を知らせる文を書かないと。
「廊下は結構暑かったよー。クーラー早く効かないかな」
彼女は鞄から下敷きを取り出して、顔に向かってうちわを使うように風を当てた。
「外の部活の人たちってすごいよねえ。こんな暑い中毎日さ。図書委員さんは運動得意なのかな?」
「……」
いつもより遅くなった分、委員の仕事に集中しなければ。
「私は全然ダメなんだよね。ずっと見学ばっかりしてる。できたらきっと楽しいんだろうけどなあ」
「……」
「あ、でも見るのは好きなんだよ? だから図書委員さんがしてるところ見てみたいんだけどなあ」
チラチラと視線を飛ばしてくる彼女はいつもと何も変わらない。
「あ、それ新しい本? 見せて見せて」
彼女はカウンターの向こうから体をこちら側に乗り込ませるように、新しい本を覗き込んだ。
唐突なその動きに驚いて後ろに身をひいてしまう。あとはさっきの言葉がよぎってしまったから。
露骨すぎただろうか。
どうにか心を落ち着かせて、作業に戻る。新しい本はどんな内容だろう。
「……ねえ、図書委員さん。もしかして、何か聞いた?」
「え」
作業に没頭するふりをやめて思わず顔を上げた。
「……」
「……」
やっぱり彼女の顔は直視できない。別になんとも思ってなんかいないのに。
「……早瀬が」
「うん」
「病気、だって……」
「うん」
「そう聞いた」
「うん」
彼女はただの相槌をしているようで否定にも肯定にも取れない。そしてそれ以上何も言わない。
「近づくのはよくない……って聞いた」
「うん」
「そ、それってどんな病気、なんだ?」
カウンター越しに佇む彼女は、見下ろす先の僕に優しい視線を向ける。
「ふふ、図書委員さん、初めて私に質問してきたね」
「え?」
「聞かないで。興味、持っちゃダメなんでしょ? 図書委員さんは」
確かにデリケートな話だったかもしれないけれど、そんな風に言われるなんて思ってなかった。
「大丈夫だよ、うつったりしないから」
「いや、そんなことは別に……」
「嬉しいけど、図書委員さんは私に興味を持っちゃ、ダメなんだ」
「別に興味なんて––」
嫌でも目が離せない先の表情は見たこともない悲しみが浮かんでいた。
「今日は遅いし、図書委員さん本当に忙しそうだし……帰ろうかな」
「あ、うん……」
「ねえ、私の名前、なんでしょう?」
「早瀬夏乃」
「正解」
パタパタと駆けていく音が消えて、暑いはずの図書室はしんと冬のように静かだった。
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