水15――これだから酔っ払いは。
四限の開始まで6分ほどしかない。千早は目的地に着くなり問い掛けた。
「恋の相談?」
単刀直入が過ぎたか。真治は目を見開いた。途端に周囲を気にし始める。
「誰も盗み聞きしてないわよ。それが一目瞭然だからここを選んだんじゃないの?」
「ほだけど。普通は焦るじゃん。僕の立場で考えれば分かるだら?」
「考えなくても分かるわ。三河弁が出てるくらいだし」
社交的な真治は話し相手に合わせて口調を変えるため、千早と話す時は滅多に方言を使わない。美月の標準語は千早との付き合いの中で培われたもので、華凛のは千早と美月に感化された結果だと知っているが、真治に関しては不明だ。
「堂本くんはボイチャの経験ってある?」
「あるよ。昨日の夕方にヘッドセットを買ってね。喋るのは昨晩が初体験だった。相手だけが音声でチャットをするのは前からあったけど」
おおよその見当は付いた。恐らく圭介と似たケースで、真治にも関東の知人がいるのだ。真治は初対面の時から標準語を使っていたから千早が原因という線はない。
懐かしい。中三の四月の話だ。と回想する寸前で千早は思い出した。時間がない。
「話を戻すわね。相談の内容は?」
唐突な話題の転換に真治が顔を赤くした。
「ええっと。水谷さんは一組の
焦る。こうも簡単に相手を暴露されるとは思わなかった。真治が千早に全幅の信頼を寄せていたとしても安易としか言いようがない。
これだから酔っぱらいは嫌いだ。素面なら少しくらいは躊躇するはずなのに。
「人の口に戸は立てられないのよ?」
解釈によっては、バラすわよ、と聞こえる言い方を千早はしてみた。
「水谷さんの口の堅さは知ってるよ。話すなら話すで相手を選ぶこともね」
「盲信はやめなさい。まあ、なるべく期待には応えるけれども」
千早は苦々しい笑みを浮かべた。助かるよ、と返した真治も苦笑する。
「さておき、寺村さんだっけ。顔すら知らないわ。名前を聞いたのも初めてね」
「だと思ったよ。三組は一組と体育の授業を合同でやらないし」
「でも圭介と同じクラスなのは好都合だわ。必要なら昼休みに顔くらいは確認しておく。相手のことを知ってた方が相談に乗りやすいと思うし」
「そうだね。でも僕が相談したいことは寺村さんを知らなくても答えられるよ」
千早は腕組みをした。告白するか否かを迷っているというだけの話なのだろうか。
「寺村さんに彼氏がいるか。いないのなら好きな人はいるか。好きな男のタイプや好物とかも気になるけど。基本的なことは彼女と同じ中学だったクラスメイトにでも探りを入れるさ」
余計に分からなくなった。それでは千早の出番がないと思う。
「僕が知りたいのはね」
ズバリ、と真治はどこまでも真剣な表情で言った。
「恋愛のコツだよ」
なんそれ。
「水谷さんは油野くんを見事に落としたよね。水谷さんは凄く可愛いし、油野くんが胸を高鳴らせるのも不思議じゃないと思う。だけど油野くんはネットを切っ掛けに恋したそうじゃないか。つまりは水谷さんの美貌が恋の起因になってない訳だよね」
首肯した。圭介は千早の優しい性格や面倒見の良さに惚れたことにしてある。
「僕は具体的に知りたいのさ。例えばどう優しくしたのか。もっと言えばどう優しくしたら惚れられるのか。あの手強いと評判の油野くんを落とした恋愛のテクニックを是非とも教えて欲しい」
千早は言葉に詰まった。理由は二つある。
一つは圭介の恋の経緯をそこまで詳細に決めていないからだ。
設定を細かくし過ぎると憶えるのが困難になるし、後で修正を加えたくなった時に自分達の首を絞める可能性がある。なので二人は自由度を上げるために大まかな設定しか用意しなかった。
もう一つは千早が恋愛成就の論理を知らないからだ。
テレビなどで恋愛のコツとやらを聞いたこともあるにはあるのだが、安易に口にしては危険だと思う。無知な千早でも嘘臭いと感じた内容だったし、真治も同じ番組を見ていたとしたら困ったことになる。
――知りたいのは常識的なコツじゃない。水谷さんの体験に基づくコツなのさ。
そう返されたらお手上げだ。何せ千早と圭介は恋愛のド素人である。昼休みを使い切って考えたとしても、今が恋に落ちた瞬間、というのは思い付かないに違いない。
恐らく思い付いたとしてもベタな内容になる。泥酔したことのない人が道ばたで眠りこける人の気持ちを分からないのと同じだ。あくまでも憶測でしか答えられない。
恋にコツはない。恋の始まりに理由はいらない。真治の相談を握り潰すのは容易いが、これが原因で圭介との仲を疑われても困る。返答は慎重に選ぶべきだ。
「おやおやー? ひょっとして水谷千早ちゃん?」
緑のスリッパ。二年生の女子が横から割って入ってきた。
明るい茶色のショートボブに愛嬌を湛えた大きな瞳。校則に真っ向勝負を仕掛けたレベルの短いスカートを揺らして寄ってくる。見えそうで見えない。見られても構わないと思っているのかは分からないが、脚線美には相当な自信が窺えた。
だって黒のタイツを穿いている。夏を目前にしたこの時期にそんなものを穿くのは脚を大事にしているか、日光にとても弱いか、超自信家くらいではなかろうか。
そして千早は知っている。この少女、油野宿理は父親の伝手でファッション雑誌のモデルを担い、己の容姿に自負を持っていることを。
上級生の脚を遠慮なく見る千早と違い、さすがの酔っ払いは会釈するに留まった。
ウチの彼氏とは違いますなぁ、と千早は笑うついでに愛層笑いを浮かべて、
「そうです。圭介のお姉さんですよね?」
「っ! どうせならお姉ちゃんって言って! 圭介も
喧しい。第一印象は圭介を女装させてさらに可愛らしくした感じだったのに、この姉弟似てねーなってものの数秒で思わされた。
「いや! 二人目の妹になるかもしれない系女子だし! もっと親近感を覚えるような呼び方の方がいっか! よし! やどりん! やどりんって呼んで!」
それにしても明るい。この姉と一緒に育ちながらなぜ圭介はあんなにクールというか、暗いというか、仏頂面をデフォルトにしているのか。不思議だ。
「次の授業の準備もあるし、僕は失礼するね」
真治は今一度宿理に会釈してから階段を駆け上がっていく。上手い逃げ方だ。
「ほむ。やどりんってばお邪魔しちゃった?」
ナイスな妨害でした。千早は胸の奥で宿理に感謝を述べて、
「いえいえ。ちなみに先輩は」
「ノンノン! や! ど! り! ん!」
昨晩に行った圭介との通話を思い出した。千早は自嘲する。
「やどりんは圭介に用事でも?」
「うんにゃ。噂のちはやんを一目見ようと思って来ただけー」
宿理は淀みなく千早の呼び名を決めてしまった。不思議と馴れ馴れしさは感じない。
「二年生の間でも噂が?」
「当然っしょ。姉のあたしから見ても圭介は格好いい部類に入るし、ちはやんも相当なかわいこちゃんだかんね。二人を狙ってた二年が多かったせいじゃないかしらん」
言われてみれば二年生からの告白も受けたことがある。でも、と千早は思った。
眼前の少女も随分と可愛らしい。圭介が言うに宿理は父親の職場にしばしば付き添っては仕事を手伝い、そのルックスを買われてモデルをしたことも何度かある。ネットで調べたら証拠の画像が簡単に見つかって驚いたりもした。二年生の男子諸君は千早よりも宿理を狙うべきだろう。
彼氏はいないと圭介が言っていた。千早が男性なら放っておかないと思う。
「やどりんの方がかわいこちゃんじゃないかしら」
「知ってる」
清々しいほどの即答だった。なんてねっ、と宿理はケラケラと笑って、
「暇があったらあたしにもプリンを作ってちょーだいね」
期待してるわん、と宿理が千早の肩をポンと叩き、階段を下りていく。言われるまでもなくピンチから救ってくれた恩はいずれ返すつもりだ。
千早は三階への階段を踏み締める。頭の中は恋愛のコツのことでいっぱいだった。
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