水16――失敗率は0.1%でも低い方がいい
恋人達は昼休みになると各棟の屋上や中庭に集まる。春先は肌寒いこともあって前者が多かったものの、今の時期に日陰のない場所で食事を取るのはやや厳しい。
それでも二人きりになりたい連中は太陽の嫉妬を買いに行くようだが、千早と圭介は当てはまらなかった。
「暑苦しい空間だなぁ」
圭介がそう言うのも無理はない。中庭は過度な植樹のお陰で涼しげな場所が多い反面、身体を寄せ合って昼食を楽しむ男女が密集している。男子の口に弁当のおかずを運ぶ女子の姿も見え、千早は暑苦しさよりも酒臭さに参ってしまいそうだ。
人前でイチャイチャするのは構わない。恋人の特権と捉えて大目に見よう。微酔い程度の飲酒なら千早も気にならないし、逆に微笑ましいとすら思う。
しかし人前でデレデレするのは勘弁して欲しい。酩酊した人の姿というのは存在するのみで有害だ。連中を目撃して気分を良くする者などいないだろう。
「自分達の世界に入ってくれるのは好都合よ。聞き耳を立てられずに済むし」
既にベンチは満席だ。千早は利用者のいない大木に向かい、圭介も付いてくる。
「ふむ。コンビニでパンのついでにビニールシートを買えばよかったか」
圭介が手にした巾着袋は今朝よりも小さい。美月の分がないせいだ。
「想定内よ。巾着の中に入っているわ」
「さすがとしか言いようがない」
「屋外で食べるカップルの必需品だからね。ベンチの確保に失敗したら困るもの」
目的地に着くと圭介が芝生の上にビニールシートを敷いた。女子が三人ほどしか座れない小さな物だ。二人は靴を脱いで座り込む。千早は女の子座りで圭介は胡座だ。
「パンはどうしたの?」
千早は巾着袋から大小の弁当箱を取り出しながら尋ねた。大きい方を圭介に手渡す。礼を述べた圭介の近くにレジ袋は見当たらない。中庭に来る途中で仕入れたお茶のペットボトルがあるのみだ。千早の横にも同じ飲料が直立している。
「一限の後の休憩中に久保田から弁当を忘れたってLINEが届いてなぁ。好都合と言えば好都合だし、あいつに絶賛同情中だから献上したんだ。楽しみにしてたチョコクリームパンは二限の後の休憩中に食ったから二つだけどな」
「同情? 久保田くんに何かあったの?」
「端的に言えば失恋ってやつ。それにしても。かなり美味そうだな、こいつは」
弁当箱の蓋を開けた圭介が頬をだらしなく緩ませた。行儀の良いことに手を合わせてから卵焼きを頬張る。クールなイメージが崩れかねないほどに弛緩した表情を見せてくれた。
久保田の話も興味深いが、今は目先の問題を解消すべきだろう。千早は弁当を突きながら、
「実は困ったことになったの」
真治と明美の名前は出さない。恋愛のコツのことだけを圭介に説明してみた。
「お前もか。俺も同じ中学だった女子に似たことを頼まれた。恋愛のコツというか、どうしたら好きな人と仲良くなれるのかを知りたいらしい。何と言っても俺は難攻不落の水谷千早を口説き落としたとされる男だからなぁ。恋愛の高度なテクニックを熟知して当然って思い込んでる節がある」
「どう答えたのよ」
「今朝方にも言ったが、俺は告白の一件で安易な選択が先々の後悔を生み出すと学習した。迂闊な返事をするのは危険だし、どうするべきかと考えてたら久保田がパンを取りに来たんだよ。それが四限の始まる直前だったから返答は保留になってる」
続いて圭介は登校してからの出来事を報告した。
朝のHR前と一限後の休憩は交際に関する問答で消費し、二限後の休憩中はパンを食べながら文庫を読み、三限後の休憩も読書に耽っていたら、5分ほど経った頃に落ち着かない様子の女子から相談を持ち掛けられたらしい。
「そして実質的にそいつが慌てた原因はお前にある」
咀嚼の足りていないミニハンバーグを飲み込んでしまった。千早は膨らみの弱い胸部をトントンと叩いて喉に緑茶を流し込む。
「……死ぬかと思ったわ」
圭介は瞳を潤ます千早に謝罪の一言も掛けず、ただ事の顛末を述べていく。
「そいつは三限後の休憩中に五組のダチと会ってたそうで、戻る時に思い人とお前が肩を並べて歩く姿を目撃したらしい。学年一可愛いと評判の女子が一緒ってだけでも不安を覚えるのに、何やら思い人は赤い顔でそわそわとした様子だったとか」
ちょっと待て、と千早は思った。ツッコミを入れたい場所が多すぎる。
「あんたに相談した女子の思い人ってまさか……」
「面識はないが、四組の堂本真治って聞いた。恋人に隠し事をするのはよくないからお前になら大体のことを教えてもいいとも言われてる」
体の良い牽制だ。その女子は千早に恋心を知らせることで真治との接触を少しでも減らそうと考えたのだろう。
何であれ変に嫉妬されても困るから誤解だけは早急に解くべきだ。
「確かに堂本くんは顔を赤くしてたわ。でも私が原因じゃないわよ?」
「そんなのは分かってる。けど堂本が赤面してた理由をそいつの観点で考えると、堂本がお前にドキドキしてるってのが一番しっくりくるだろ。というか他の解答を俺は思い付かないな」
「私は答えを知ってるから何とも言えないわね」
それもそうか、と圭介は相槌を打ち、たこを象ったウィンナーを箸で挟む。
「堂本が赤面してた本当の理由はなんなんだ?」
「恋しちゃったらしいわ」
圭介が咽せた。素早い動きでペットボトルに口付けする。
「……危うくたこさんウィンナーに殺されるとこだったぞ」
「お互い様よ。ちなみに私は許可を得ていないから相手の名前を出せないわ」
「そこは問題ない。恋愛のコツの方は大問題だけどなぁ」
「そうなのよね。私もかなり困ったわ。やどりんの介入で命拾いしたって感じよ」
「宿理に会ったのか?」
どうせならと思って千早は各休憩時間の話をする。説明の間に圭介が米粒の一つすら残さずに弁当を食べ終え、千早も5分ほど遅れて弁当箱に蓋をした。二人揃って手を合わせる。
「世辞抜きで美味かった。言葉以外の礼が必要だと思うくらいだ」
「光栄ね。お礼は恋愛のコツでお願いします」
「無茶を言うなよ。一応は宿理に尋ねるって手もあるっちゃあるけどなぁ」
「やどりんは恋愛の経験があるの?」
「去年にな。こっぴどくふられたようだが」
驚かされる。才色兼備の明るい少女でも実らない恋があるらしい。
「宿理の恋もネット越しだ。俺達の設定に似通ってるから相談するのに適してるとは思うんだけどな。弟としては古傷に触れるのを躊躇う訳だ」
千早も圭介と同じ意見だ。あの晴れ晴れとした笑顔を曇らせたくはない。
「授業中に尤もらしいことを考えるしかないわね」
「だなぁ。寺村に悪いが、どう考えても堂本の方が強敵っぽいしな」
「確かに難易度で言えば堂本くんの方が厄介だと」
千早は思わず口の動きを止めてしまった。寺村?
「あんたに相談した女子って一組の寺村明美さんだったりするの?」
「ん? 寺村と面識があるのか?」
千早は返事に迷いながらペットボトルを口に付けた。喉を潤しがてらに思い返す。
水谷さんは話すなら話すで相手を選ぶ、と真治に言われた。それは信用に足る人物になら口外してもよい、と言ったに等しく、確かに他言の許可を得ていないが、禁じられてもいない。
千早は圭介の目を見る。一応は自分の彼氏だ。信じても損はしないと言い切れる。
「ないわ。あんたを迎えに行く時に顔くらいは確認しようと思ったのだけれども」
千早はペットボトルを口から離すと即座に答えた。そして早口で秘密を教える。
「寺村さんが堂本くんの思い人なの」
圭介が目を皿にした。程なくして、まじかよ、と呟く。
「まじです。まさかの相思相愛みたいね」
「ラッキーだな」
圭介が唇の端を釣り上げたが、千早はそう思わない。
幸か不幸か。二択で考えれば前者になる。しかし決して望ましくはない。
「初恋は実らない。一度は聞いたことがあるわよね」
千早は作り物の笑みを消した。雰囲気の唐突な変化に圭介が若干の戸惑いを示す。
「有名な言葉だからな」
「意味は知ってる?」
「程々に。ジンクスだと思ってる奴が多いが、実は揶揄って話で合ってるか?」
千早は頷く。言葉の解釈は様々だ。言葉通りの意味で捉えるのも悪くはないし、揶揄が正しい読み方とも言わない。ただ千早がそう思っているだけだ。
「初恋は実らない。だが実らせる方法もある。初恋の成就を願うのならそれを懸命に考えろ。一心不乱が恋愛に適しているとは限らないって何かで読んだな」
圭介が述べたのも解釈の一つだ。闇雲に頑張っても後悔するという揶揄である。
言うまでもなく、初恋の挑戦権は恋の初心者にしか配られない。
なのに現実は途轍もなくシビアなのだ。必死に自分の恋を実らせようとしても、一心不乱になればなるほど相手への配慮を欠くことが増え、当然ながら求めるばかりの恋は相手に鬱陶しく思われてしまう。
自分よりも相手を優先する。それは恋愛の基本にして極意だ。
初恋に浮かれる者はそこに気付けない。気付いたとしても慣れない高揚感に判断力を奪われて失敗する。
「二人が相思相愛なのは幸運と言えるわ。恋愛のコツや仲良しになるコツを教えるよりも双方の気持ちを教えた方が手っ取り早いし、堂本くんや寺村さんが求める結果も得られるもの。場合によっては恋のキューピッドの噂が広がって私らの恋愛観を疑う人もいなくなるかもね」
でも、と千早は私見を述べていく。
「順序を踏まない恋愛は不幸に繋がることが多いの。二人が初恋でも二回目の恋でも百回目の恋でも同じね。もっと時間を掛けて交際に発展させないと危険なのよ」
後半は賛同しかねるけどな、と圭介が呟いた。千早は発言権を彼氏に譲る。
「順序を踏む踏まないの部分は同意する。特にこの年の野郎は不純な動機で女子を口説くからなぁ。ただ彼女という存在が欲しい。可愛い女子を侍らせてダチに自慢したい。最も多そうなのはエロいことがしたいってとこか。男の俺が男の批判をするのもどうかと思うけどな」
恋心よりは自尊心や下心で動くアホが多く、そんな男子と交際した女子が幸福になるはずもない。勿論、彼女を失えば愚かな男子も不幸を実感する。圭介が言いたいのはそんなところだろう。
「最近まで16で結婚可能だった女子と18まで結婚不可能な男子の差かもな。男子は女子ほど交際からの結婚に現実味を感じない訳だ。結婚を前提に付き合ってくれって言うよりも、性交を前提に付き合ってくれって言った方がそれっぽい。女子が前者を求めても男子は後者を好むに違いないな」
女子の千早が言いにくいことを圭介はさらっと言ってくれた。
要するに高校生の交際などママゴトの延長なのだ。質が悪いのは幼稚園児と違って発達した身体を持ち、男女ともに大人びたことをしたいと思うことである。
特に彼女で性欲を満たそうとする男子は将来を真剣に考えていない場合が多いはずだ。六法全書を開いて責任の取れる年を調べれば自ずと理解できるだろう。
無論、百人中百人がそうとは言わない。千早は隣家の若夫婦を思い浮かべながら、
「大前提として、私はあんたの味方よ。心底に困り果てたら手っ取り早い手段を執るわ。でも本当にいいのかしらね。私らの設定を守るために友人が不幸になる可能性を生み出しちゃっても」
「まあ、気が引けるなわな。確率の問題だって分かってはいるけどなぁ」
不幸になる確率は百%ではない。一%以下かもしれない。
千早はただ自分達が深く関与していることを圭介に自覚して欲しいだけだ。
「あー、そうか。なるほどなぁ。お前が神妙なのは既に退路がないからか」
圭介は偽りの告白を看破された時以上に厳しい表情を作って、
「コツを教えたら堂本は実践する。寺村も同じだ。二人は相思相愛だからテキトーなコツでも告白は成功するし、短絡的な思考で付き合い始める。相手は自分のことが好きだし、教えて貰ったコツは正しかったしって有頂天になってな。それを回避するには俺達が真っ当な助言を考えるしかない」
「大正解よ。私らが無責任な助言を与えれば二人の不幸になる確率は高くなるの。でも真っ当な助言と言っても二人揃って恋愛のド素人だし。絶望的よね」
「だなぁ。ちなみに打開案は?」
あれば悩まない。が、一時しのぎの案はある。
「幸いにも私らは二人と中学が同じよ。好きな食べ物とかテレビ番組とか。思い人の情報を交換するのは難しくないわ。今日のところはそこら辺の情報で満足して貰うしかないわね」
「けど問題を先送りにしてもなぁ。考える時間は多い方がいいに決まってるが」
明日は土曜日だ。日曜日との二連休で解決策を講ずるしかない。
「解決の糸口はあるのか?」
圭介の問いに、千早は作り物の笑みを再構築した。腕組みをして胸を張る。
「恋愛の勉強をするのよ。参考書と睨めっこするのは慣れているでしょ?」
圭介以上の学力を誇る少女はさも得意げに言ってやった。
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